記憶�U・76
 今日のうちにもう一度来ると言い置いて、サヤカはあわただしく牢を出て行った。これからボスやミオに事の顛末を話すのだろう。静かになってしまった牢の中に座っていると、まるでこれまで長い間ずっとそうしていたような、奇妙な感覚に囚われる。記憶を失っていた5日間を除けば、オレの人生の時間はひどく忙しく、めまぐるしい。特にこの3年間はものをゆっくり考える暇もなかった。毎日ボスと語り合い、どうやって皇帝を倒すか、倒せた後はどう日本を動かすか、倒せなかった場合は皇帝とどんな交渉を進めるか、詳細を話した。
 今、何もできない状況に追い込まれて、正直オレは何をすればいいのか判らなかった。情報は何も入ってこない。ボスの考えを聞くこともできない。オレはこの3年間、ボスの理想を実現するという立場でしか思考せず、生きてこなかったのだ。
 オレの中には何もない。ボスというよりどころを失ったオレは、自分自身で考えることも、行動することもできないのだ。
 オレは今という瞬間に、いったい何をすればいいのだろう。オレが今コロニーのためにできることは何だ。この牢の中で、サヤカとしゃべることしかできない今の状況で、オレはオレのために何かができるのだろうか。
 オレのために。オレ自身のために。オレが今本当に大切に思っていることのために。
  ―― オレは今、ミオの近くにいることができないけれど、やっぱりオレにとっての1番は、ミオが幸せでいることだ。
 幸せの前提は、まずは心の平穏だ。心が平穏でなければ幸せとはいえない。それにはミオの心を乱すものをひとつひとつ取り除いていくことだ。まずはオレ自身。オレが安定していることが、ミオの心を安定させる。
 駄蒙のことも、コロニーの今後のことも、ミオには心配の種だろう。それは本来ミオが背負うべきことではないけれど、今ミオが背負わされているのは事実だ。だけどこの状況でミオが背負うものを軽くすることはできない。ミオはこれ以上何も背負えない。オレが動けないのだから、この状況を打破するためには、誰かに動いてもらうほかはない。
 16歳の女の子には、確かに荷が重いかもしれない。だけど、ここで彼女にがんばってもらわなければ。
 牢の中を行き来できるだけのサヤカには、いったい何ができるだろう。オレとボスとの連絡役のほかにできることはあるだろうか。
 オレが考えていた時間は、客観的な時間にすればかなり長かったらしい。足音が近づいてきて、オレにはサヤカが来たことが判った。ドアを開けて入ってくる。何の挨拶もなく、突然サヤカは言った。
「伝言をもらってきたわ。誰から聞きたい?」
 当然のようにオレは答えた。
「まずはミオから頼む」
「ミオは伊佐巳の居場所が判ったことでかなりほっとしていたわ。牢の中だから心配もしていたけど、伊佐巳には、自分のことは心配しないように伝えて欲しい、って。葛城達也はコロニーの人間を全員保護する方向で決断したわ。もちろん、伊佐巳とボスだけは例外だけど」
「……てことは、奴は駄蒙も保護するのか?」
「ミオもそれには疑問を持って、訊いてみたわ。葛城達也は言ったそうよ。……駄蒙は既にコロニーの人間ではない、って」
 まさか、駄蒙は既に葛城達也によって殺されてしまっているというのだろうか。