記憶�U・88
「てめえの空手じゃ俺は殺せねえよ」
 そう言って、馬鹿にしたように指先でオレを招く。何も言わずにオレは奴の顔面めがけて拳を繰り出した。それをひらりと避けて、また殴り返してくる。そうしてオレと奴とは本格的に殴り合いを始めていた。
 奴には格闘技を習得した経験はない。だけど、オレの拳の筋を予測できるらしく、5発中4発は確実に避けていた。オレは経験によって奴の拳を見極めていたけれど、時々秩序のない動きに翻弄されて、やはり同じくらいはくらっていた。オレと葛城達也はほとんど互角に戦っていたのだ。奇妙な光景だった。奴はオレを殺そうと思えばいつでも殺せるだけの能力を秘めているというのに。
 オレと、本気で殴り合っている。もちろんオレに余裕はなかったけれど、奴の方も必死だった。奴と殴り合わなければならない理由はオレには判らなかった。
 しかし、何度も殴り合っているうちに、オレは目の前の男が葛城達也なのだということを少しずつ忘れていった。相手を倒すことだけに集中して、肉体を駆使して技を繰り出した。オレはいつの間にか空手の試合をしていたのだ。日本の独裁者、コロニーを隔離した極悪人、殺すか殺されるかしか存在しないはずの、既に冷え切った関係を続けていたオレの父親と。
 やがて、蹴りと突きとの連続技が決まり、葛城達也は倒れた。当然の結果だった。空手のルールの中でならば、オレが葛城達也に負けるはずがないのだから。
「……てめえ、いったい何のつもりだ」
 倒れた葛城達也に、オレは言った。オレも奴もかなり呼吸が乱れている。
「たかが伊佐巳にも勝てねえのか。……俺はけんかは強くねえな」
 ……なんだ……? こいつはただ単にオレとケンカがしたかっただけなのか?
 オレが今まで見てきた葛城達也。ミオが、ボスが見ている葛城達也。今のこいつは、そのどれにあてはまるのだろう。それとも、この男はオレたちの理解力では計ることができない、狂った存在なのだろうか。
 なぜ、こんな男がいるのだろう。この男がなぜ、オレの父親なのか。
「伊佐巳、オレを殺してえか」
 仰向けに倒れたまま、葛城達也は言う。葛城達也は容易に死なない身体をしている。通常の方法で奴の命を奪うことはできないだろう。
「ああ、殺したいね」
「……それだけの人生か。てめえの命はくだらねえ」
 奴の言葉に怒りを意識した次の瞬間、葛城達也の拳はオレの腹を打ち、突き破り、背中をも破って反対側へ突き出ていた。