記憶�U・89
 頭が凍りついたように痺れ、オレは一切の思考を失っていた。一呼吸おいて込み上げてきたものを咳と一緒に吐き出す。目の前の葛城達也の頬に鮮血が張り付いた。一瞬なのだ。ほんの一瞬の間に、オレは葛城達也に殺されていた。
 今のオレの力で奴の攻撃から逃げられただろうか。いや、たとえオレの体調が万全だったとしても、攻撃の筋やタイミングがあらかじめ判っていたとしても、オレはこの攻撃から逃れることはできなかっただろう。
 俺の完敗だった。
「ヤワな腹だな。32年鍛えてこの程度かよ」
 オレの腹に腕を突っ込んだまま、ぐるりと捩じった。すぐにオレの口から再び鮮血が溢れ、その一部が葛城達也の頬に飛び散る。痛みに注意を向けたらその瞬間に発狂しそうな予感がした。呼吸は既に止まっている。
 倒れてしまうことすら許されなかった。
「苦しいだろ? 死にてえか? 伊佐巳。死にてえなら殺してやるぜ。腹に穴あけたまま生きてるのは苦しいよな。死にてえって、そう言えよ。言やあ殺してやってもいいぜ。これ以上苦しまねえうちにあっさり殺してやるよ」
 膝はがくがく震えて立っていることが辛かった。だが葛城達也は倒れることを許さなかった。腕一本でオレの身体を支えていてオレが体重をかけると内蔵に衝撃が走る。ここにはオレの怪我を治せる医者はいない。もしも奴が腕を抜いたら、オレはそのまま絶命するだろう。万が一死ななかったとしても余計に長く苦しむだけで結果は同じだ。
 結果は同じだ。オレは既に死んでいるのと同じなのだ。だけど、それでも、オレは今死ぬわけにいかない。たとえ何分でも、何秒でも、生きている限りオレは生きていたい。
 オレの人生はくだらないか、葛城達也。お前を殺すためだけに生きているオレは。
 貴様にとってオレの抵抗なんか虫に刺されたようなものかもしれない。それでも、オレは生きている限りお前を殺す。お前を殺せないまま死を選ぶことは、もう絶対にしない。
 痛みに霞む目で見据えた奴の表情は変わっていた。どう変わったのかはっきりは判らない。ただ、奴はもうオレを嘲笑してはいなかった。
「くだらねえよ。俺が引いたレールの上で踊ってるだけだ。俺はいつだっててめえなんか殺せる」
 今のオレの身体で、この状態で、葛城達也を殺す手はあるのだろうか。
 せめて1つくらい守りたい。ミオ、君との約束を ――
 葛城達也、貴様はいったい誰が引いたレールの上にいる。
「……てめえに俺は殺せねえ」
 その時、葛城達也は一気にオレの腹の中から腕を抜いて、内臓を撒き散らした。激しい痛みにオレは叫び声を上げた気がする。後ろ向きに倒れるように崩れ落ちた。しかし、再び目を見張ったとき、オレが見た風景の中に葛城達也はいなかった。
 いつの間にかオレのいる場所は、牢の中ではなくなっていたのだ。