記憶�U・72
 油断していた訳ではない。自分の今の状況を忘れていた訳でもない。ただ、オレはまた奴を常識で計ろうとしていた。奴に常識など通用するはずがないのに。

 風呂から出て、オレは思いついてパソコンのスイッチを入れた。メインコンピュータに接続して、例の要注意人物が並べられた画面を呼び出す。記憶が完全に戻ってからこれを見るのは初めてだった。うかつに開けばまた回線を切られることは判っていたから、オレはそのローマ字の人物をひとつひとつ記憶と照らし合わせていった。
 オレの名前は上から3番目にあって、その前に2つの名前がある。最初が「Minoru」、次が「Damo」。実(みのる)はオレたちがボスと呼んでいるコロニーの指導者だ。駄蒙は実の幼馴染でボスの影のように付き従っていた側近。その次にオレの名前があるということは、この名簿はコロニーの人名禄ということになる。
「Kaoru」「Makoto」「Tomoyuki」「Kisara」「Yuji」……。下の方に行くと、「Mio_k」「Sayaka」とあって、人質になっていた人たちの名前が続いている。オレはもう1度最初に戻って、思い切って「Damo」の項目を開いてみることにした。また回線を切られるかと思ったけれども、回線が切れることはなく、変化した画面の最初にたった1つの言葉が記されていた。
 オレの心臓と思考が一瞬止まる。画面の上の方に、小さく「処分」とだけあった。
 まさか、既に駄蒙は殺されてしまっているというのか? 誰にも会わせず、別れの言葉も残させずに。
  ―― その時だった。
 急にオレはめまいのような感覚に襲われていた。たまらずに目を閉じると、座っていた椅子が突然消失したようになって、投げ出されたオレは固い床に背中と頭を打ち付けていた。何が起こったのかはまったく判らなかった。やがて痛みにうめきながら身体を起こし、目を開けると、周りの風景は今までオレがいた部屋とはまるで違っていたのである。
 ほぼ真っ暗に近く、床は湿り気の多いコンクリートだった。乗り物に酔った時のようなめまいの感覚と吐き気が身体に残っている。この感覚は覚えがあった。オレは葛城達也に瞬間移動させられたのだ。
 なるほど、葛城達也はこれ以上オレに探られるのは嫌らしい。それだけが理由ではないのだろうけれど、このやり方はいかにも葛城達也らしかった。
 しだいに目が慣れてくる。元いた部屋とさほど変わらない広さを持つその場所は、剥き出しのコンクリートが半ば瓦礫のように波打ったままの状態でそれでも何とか部屋の形をとどめている。おそらく地下室なのだろう。割れたコンクリートの隙間から地下水が染み出していて、苔と虫がわいている。ここが、ミオが言っていた牢なのかもしれないと思った。というのは、誰かがここにいただろう痕跡が、そこかしこに残っていたからだった。
 残っていたものが放つ臭いは耐えがたいというほどではなかったが、オレの気分を滅入らせるには十分だった。と同時に気付いていた。オレは本来、ここに入れられるべきだったのだ。記憶障害さえなかったら、オレはコロニーの重要人物として、捕らえられたと同時にここに送り込まれていたのだろう。おそらくボスも、駄蒙も、今までの5日間、ここと同じような場所で過ごしていたのだ。
 記憶を消されて、オレは幸運だったのかもしれない。おかげでミオと語り合うことができた。成長したミオと、良い環境で共に過ごすことができた。
 オレはこの環境のギャップに戸惑いつつも、現実を受け入れていた。