記憶�U・38
 その暗闇はいつも、耳がつんと詰まるような沈黙の世界だ。気がつくといつもオレは漂っている。変化がない間は時間も存在しない。そして、変化と時間を運んでくるのは、いつもその男だった。
 煙のようなもやの中から姿をあらわす。嘲笑のような笑みを浮かべながらしだいにはっきりとしてくる輪郭は、今日はいつもと違って顔だけの化け物ではなかった。オレはこの男を鮮明に思い出した。その、やや長めの不揃いな髪も、沼の底のようににごった色の瞳も。なぜ、オレはこの男が自分にそっくりだなどと思ったのだろう。確かに顔のつくりはよく似ていた。だけど、オレはこんなに不気味な、人の嫌悪感を逐一刺激するような表情はしないはずだ。
 姿を現わした葛城達也は、低く笑いつづけ、静寂を吸収した。
「クックックッ……もったいねえ事をするじゃねえ。ミオを抱かなかったのか? いい味だってのによ。……それとも抱けねえ理由でもあるか」
 勝手に笑っていればいい。オレはもうこいつに惑わされたりはしない。オレがミオの正体を知らないからどうだというのか。こいつだってミオの正体など本当に知りはしないのだ。
「なんだってオレが何も知らねえなんて思えるのかね。オレはずっと知ってるさ。あの女の正体も、てめえがどれだけあくどい事を重ねて生きてきたのかも。……てめえは知りたくねえだけさ。あの女が、絶対にお前を好きになるはずなんかねえってことを」
「黙れ! きさまにミオのことをとやかく言う資格なんかねえ! 2度とミオのことを口にするな!」
 この男がミオのことを口にするたび、オレの身体に悪寒が走った。ミオを「あの女」と言うたびにミオが穢されている気がした。どうすればこいつを消すことができる? こいつはいつもオレを惑わして、本当の記憶からオレを遠ざけている。
「何を思ってんのかねえ。伊佐巳、お前がオレを殺せるわけがねえだろ。オレが人間なら、てめえはただの虫ケラじゃねえかよ。虫ケラが人間にかなう訳がねえじゃんか。……クックックッ、オレは絶対にお前に記憶を渡さねえよ。なんたって、てめえの記憶を消したオレだからなあ」
 こいつはオレが作り出した人格だ。オレの記憶を阻む存在として、オレ自身が生み出した。オレの無意識に存在しているのがその証拠だ。だから、絶対に消す方法はあるはずなんだ。
 オレの記憶を阻む者。そういう存在をオレ自身が認めているから、こいつは存在している。確かにこいつが言う通り、オレは記憶を取り戻すのを恐れているのかもしれない。なぜ、それを恐れるのか。オレに恐れる理由などあるのか。
 オレの心を読んでいるのだろう。ニヤニヤ笑いながら、葛城達也は言った。
「判らねえなら教えてやるさ。てめえはあの女のことを思い出すのが怖いのさ。あの女が、お前を好きになるはずがねえってことをな。……あの女は、お前が愛しちゃいけねえ女なんだよ。他の誰でもねえ。あの女だけが、お前には許されねえ女なのさ」
 どこまでが本当で、どこからが嘘なのか。
 おそらく、オレが恐れているのがミオに関してなのだという、それだけは真実のような気がした。