2018年04月の記事


明智川
京都市の右京区、阪急電車の桂駅から西のほうに行った所に「樫原」と言う地域がある。

その樫原に民家の間を縫うように南北に流れる細い小川がある。

まるで用水路のような小さな川であるが、これが「小畑川」と言う川で、「明智川」とも通称される歴史のある川なのだそうだ。

天正年間、織田信長が全国制覇に向けて破竹の勢いで勢力を伸ばしていた時期である。

当時の樫原一帯は六百石の年貢を華頂宮に納める事になっていた。

しかし、土地は豊かではあるが水源がなく、土地のお百姓たちは何キロも先の池から桶で水を運んでいたのである。

日照りの時など水車を十数台も繋ぎあわせて池の水を徹夜で汲み上げたりしたと言う。

献米の時期など水さえあればと心のそこから願うばかりだった。

そんな天正10年(1582年)6月2日の未明のこと。

樫原に「こんにゃく屋伊平」と言う百姓がいた。

その伊平が田の見回りをしていると、薄暗がりの中に遠くから物音が近づいてくる。

何だろうと目をこらすと山陰街道を都のほうから騎馬武者の一隊が駆けてくるではないか。

驚いた伊平が木陰に身を隠して様子を窺っていると、馬が何かに驚いたのか騎馬武者の中の大将らしき一騎の馬が暴れて落馬してしまった。

武将は落馬で身体を打ちつけたのか動けなくなっており、その周りに他の武将達も集まってきた。

伊平もけがでもしたのかと心配になり、飛び出してくると声をかけて飲み水や薬を出して世話をした。

しばらくして元気を取り戻した武将は伊平に礼を述べると、東の方を見つめている。

伊平も釣られて同じように東の方を見ると、都のほうの空が火事でもあったのか真っ赤に燃え上がっている。

武将は伊平の方を見ると声をかけた。

「お百姓、今は都の方角が燃え上がっているが、あれがどこが燃えているか判るか、見事当てることが出来たら望みの品を取らせよう」

伊平はそう言われてじっくり方角を見定めると心を決めてこう言った。

「あれは油小路の方かと思います、ならば本能寺ではないでしょうか」

それを聞いた武将は

「うむ、見事じゃ。あれはまさしく本能寺である、よくぞ言い当てたな」

そう言って満足げな笑みを浮かべた。

実は、この武将こそ「明智光秀」だったのである。

光秀がなぜ本能寺に「織田信長」を討ったのかは諸説がありはっきりとはしない。

この天正10年6月2日こそ、俗に言う「本能寺の変」で明智光秀が織田信長を討った日であり、その後、光秀は領土である丹波へ急ぐ途中であったのである。

「見事言い当てた褒美じゃ、何でも望みの品を取らせてやろう。望みは何じゃ」

光秀は信長を討ち、気持ちが高揚していたのではないだろうか。

伊平は少し考えてからこう言った。

「水が欲しいです。この地は水源がないために百姓はいつも血の出るような苦労を重ねています。用水路でもあれば救われます」

光秀は、その願いを聞き入れてさっそく用水路を作るように手配したと言う。

こうして出来上がったのが嵐山一ノ堰・・・松尾・・・樫原・・・向日町へと続く小畑川だそうだ。

この用水路のお陰で樫原一帯は水不足から開放され、実り多い土地になったのであった。

しかし、この伝説には疑問や矛盾が多い。

俗に三日天下と言われるように、明智光秀は信長を討ったものの三日後の天王山の戦いで豊臣秀吉に破れて落ち延びる途中で土民に殺されたと言われている。

三日で用水路ができるわけも無く、また光秀も味方を集めなければならずそれどころではない状況だったと思う。

伊平と言う人物も実在の証が無い。

ただ、この付近のお百姓達が水に困っていたのは事実だし、用水路も必要があって作られたのも現実である。

推測として、明智光秀は丹波地方を平定して領地とし、一帯の道路や池などを整備していく中で、この樫原地域にも用水路を造ったのではないだろうか。

そして、この樫原地域が光秀に対して従属していたのだろうとも推測される。

また、この樫原周辺は五世紀ごろ朝鮮から帰化した秦氏が開墾し、古くから農業が盛んな地域だったと言われ、基礎になる水路はもともとは秦氏が造り、明智光秀が再整備したのではないかと言う説もあるそうだ。

いずれにしても、光秀が天王山で敗れてからは明智光秀の名前が付く物は問題視される恐れがあっただろうに、それでも明智川の名前が残されたのは地域と光秀との繋がりを感じさせる。

当時の人達が水不足に困っていたのは深刻な事態であったろうし、それが用水路によって救われたのも事実であろう。

明智川の別名を持つ用水路は現在でも付近の農家の田畑を潤して多くの恩恵をもたらせているのである。
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本因坊
京都市の左京区、岡崎公園の京都会館や勧業館に近く、疎水の流れる仁王門通を東大路通から西に入った所に「寂光寺」(じゃっこうじ)と言うお寺がある。

寂光寺は、妙泉山と号する顕本法華宗の本山である。

寺伝によれば、天正6年(1578年)に「日淵上人」(にちえんしょうにん)により創建され、はじめ久遠院と号して上京区の出水通室町付近にあったが、後に中京区の寺町二条に移転されたが火災で焼失し、宝永5年(1708年)に現在の場所に再建されたと言う。

囲碁の世界で「本因坊」(ほんいんぼう)と言う名跡があるが、その本因坊の名は、この寂光寺に所縁の名前である。

寂光寺の二世である「算砂」(さんさ)は永禄2年(1559年)に京都の舞楽宗家の加納与助の子として生まれ、幼名は與三郎と言った。

やがて、兄(一説には叔父)の日淵上人に弟子入りして出家して「日海」と名づけられ、寺内塔頭の「本因坊」に住んだ事から、「本因坊算砂」(ほにんぼうさんさ)と号すようになった。

算砂は、仏教を修めるとともに囲碁にも興味を持ち、当時の囲碁の強豪であった「千也」(せんや)に師事して囲碁を習うようになった。

やがて囲碁の腕を上げた算砂は、あの「織田信長」に気に入られて囲碁を教えるようになる。

そして、算砂が20歳の若さで織田信長に「そちはまことの名人なり」と称揚されたと言い、これが現在も各方面で常用される「名人」という言葉の起こりとなったと言う。

また天正10年(1582年)の「本能寺の変」の前夜には信長の御前で鹿塩利玄(鹿塩と利玄は別人など諸説あり)と対局をした所、滅多に出来ない三コウが出来、その直後に信長が「明智光秀」に殺されるという本能寺の変が起こってしまい、これ以降に「三コウは不吉」とされるようになったとされているが、ただしこれは歴史的信憑性に欠けており、後世の創作であるという説が有力となっている。

その本能寺の変では、本因坊算砂の指示により「原志摩守宗安」が、織田信長の首を、共に自刃した父である原胤重と兄の原孫八郎清安の首と一緒に、炎上する本能寺より持ちだして、駿河の「西山本門寺」に納めて信長の首塚を築き、魔除けに柊を植えたと言う話もあると言う。

やがて、天下人となった「豊臣秀吉」にも仕えると、天正16年(1588年)には太閤である豊臣秀吉の御前で、算砂の他に利玄など数名の碁打衆が召し出されて対局し、これに算砂が勝ち抜いて20石10人扶持を与えられるようになった。

なお、この時の書状に「碁之法度可申付候」とあるのを碁所の開始とする説もあると言う。

その後、関ヶ原の合戦を経て勝者である「徳川家康」が征夷大将軍となる。

そして慶長8年(1603年)に「徳川家康」が江戸に幕府を開くと、算砂は家康に招かれて江戸に赴いた。

慶長13年(1608年)には「大橋宗桂」と将棋対局を行い、これが将棋最古の棋譜と言われており、また算砂は日本初の囲碁出版である詰碁や手筋などを収録した「本因坊碁経」を刊行している。

なお、算砂は日淵上人が開いた寺「寂光寺」を譲られ、慶長16年(1611年)には僧侶としての最高位の「法印」に叙せられている。

慶長17年(1612年)には、幕府より算砂を始めとする碁打ち衆、将棋衆の8名に俸録が与えられ、算砂は、利玄、宗桂とともに50石10人扶持とされた。

ちなみに、算砂以前の囲碁は、互先であってもあらかじめ双方が碁盤上にいくつかの石を置いた上で打ち進めるやり方が主流であったが、これを算砂の時代から現在のまっさらな状態から打つやり方が定着したと言う。

また、算砂は政治力にも優れて、家康から碁打ち・将棋指しへの連絡係(のちの碁所に近い)に任ぜられて、これが後の家元制度の基礎となった。

家康は非常に碁が好きで良く算砂と打っていたが、ここから算砂は家康の秘密の目付であったのではないかとの説もあるそうだ。

算砂は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と時の権力者に寵愛され続けたのは囲碁の実力もさることながら、やはり時勢を詠む力と政治力のような物を持っていたように思われる。

さらに、算砂の後ろ盾には寺社(日蓮宗)がいたとも言われ、権力者らに寵愛されたのもこれらの事が裏にあったためとも考えられると言う。

そして、元和9年(1623年)5月16日、本因坊算砂こと日海は、後継の「算悦」の後見を弟子の「中村道碩」に託すと静かに息を引き取った。

辞世の句は「碁なりせば 劫(コウ)なと打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」だと言う。

算砂の実力と功績により、本因坊の名称は碁界家元の地位を持ち、技量卓抜な者が襲名継承することとなっていく。

そして、本因坊の地位と名称は二世の「算悦」(さんえつ)、三世の「道悦」(どうえつ)を経て、四世の「道策」(どうさく)の時に本因坊は京都の寂光寺から江戸に移っていった。

寂光寺の境内の墓地には、初代本因坊の算砂をはじめ算悦・道悦の墓があり、算砂の墓石の五輪塔が安置されて、その周囲を歴代本因坊の石塔が並んでいる。

また、寺宝として算砂の画像や近衛関白家より拝領の唐桑の碁盤等を蔵しているそうだ。

今でも囲碁愛好家には聖地のような感じで訪れる人も多く、算砂上人の遺徳を忍び、囲碁の上達を願う人も多いようだ。
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しぐれ桜
京都の嵯峨野、さらに奥の清滝から愛宕山方面に山を登ったところに「月輪寺」と言う山寺がある。

戦前には愛宕山にはケーブルカーが架かっていたそうだが戦中に撤去され、今は愛宕山方面へは歩いて山を登るしかなく、清滝川の登り口から片道で1時間半ちかく険しい登山道を登ったところに「月輪寺」が建てられている。

この月輪寺は鎌倉山と号して真宗の発祥の地でもある。

「泰澄大師」が大宝4年(704年)に開山し、天応元年(781年)に「光仁天皇」の勅を奉じた「慶俊」が中興した国家鎮護の霊場だと言う。

このときに、地中から出た宝鏡の銘に「人天満月輪」とあったために、「月輪寺」と呼ぶようになったと言う。

その後に、「空也上人」がこの地で修行して念仏を悟り、初めて開いた発祥の地だそうだ。

また「法然上人」も、この地で念仏を専修し、「九条兼実」も深く帰依して、出家して「円澄」と号し、この地で隠棲するようになった。

この月輪寺の境内に「志ぐれ桜」(時雨桜)と呼ばれる桜の木がある。

親鸞上人のお手植えの桜の木だそうであるが、これが「しぐれ桜」と呼ばれるようになったのには伝説が伝えられている。

鎌倉時代の初期のこと。

念仏の流行に恐れを感じた朝廷は念仏の禁止を命じて弾圧に乗り出したが、京都の鹿ケ谷にあった法然上人の念仏道場で、法然上人の高弟である「住蓮房」と「安楽房」と言う二人の青年僧の下へ、宮中の女官である松虫と鈴虫と言う二人の女性が後鳥羽上皇の熊野参りの留守を狙って駆け込むと言う「松虫・鈴虫事件」が起こり、二人の青年僧は打ち首になり、法然は四国へ、親鸞は越後へ流される事になった。

そこで、当時この地に隠棲していた九条兼実こと「円澄」を訪ねて、法然上人と親鸞上人がこの月輪寺を訪れるとこの地で沙汰の下る日を待っていたのである。

ちなみに、法然・親鸞・円澄を三祖師と言うそうで、その三人がこの地で集まる事になったので「三祖師相談の地」でもあると言う。

その当時に親鸞上人が、もうこの地に訪れる事はないかも知れないと、思い出に自ら一本の桜の木を植えたのである。

やがて、法然上人や親鸞上人はそれぞれの地にが配流されて行く。

そして、月日が流れ桜の木も育った頃に、桜の木も育って花を咲かせるようになった。

すると、春になって花が咲く頃になると、その花や葉などが濡れて雫をたらすようになったのであった。

村人達は、

「桜の木が泣いている、これは上人様達を偲んで桜も涙を流しているにちがいない」

そう話し合っては、法然上人や親鸞上人を偲んで懐かしく思うようになったと言う。

それからも、桜の木は毎年春になると花を咲かせ、同じように濡れて花や葉に雫をたらすようになり、人々はこの桜の木を「しぐれ桜」と呼ぶようになったのである。

この「しぐれ桜」の話は、やがて全国にも広がって信心深い人は花見をかねて参拝するようになったそうだ。

私が訪れたときはあいにくと桜の開花はまだであったが、現在の桜の木は三代目だそうで今でも見事に花を咲かせるそうである。

また、しぐれ桜の由来となった花を濡らすのも、毎年四月中旬から五月中旬くらいまで、桜の木を濡らすと言う。

実は、このしぐれ桜であるが、この月輪寺から東に2キロほどの位置にある「空也の滝」と言う滝が原因だそうである。

毎年、春になると風向きが変わって滝の水しぶきが泡のようになって月輪寺方面に吹き付けるという。

その、水しぶきが桜の木をしっぽりと濡らして、しぐれ桜となるのだそうだ。

空也の滝は月輪寺へ登る途中にある駐車場から、川沿いに道を歩いたところにある高さ25メートルほどの滝で、昔に空也上人が修行した滝だと言われているが、滝には役の行者の像も祀られていて修験道との関わりもあると思われる。

さて、この月輪寺は「明智光秀」とも所縁のお寺だと言う。

本能寺の変の前のこと。

明智光秀が、「織田信長」から命じられて中国攻めの援軍にと軍勢を進めており、月輪寺の近くの愛宕山に軍勢を留めて、自分は月輪寺に参拝したそうだ。

心の中で、すでに信長への反旗を決めていたのか、光秀はここで御神籤を引いて、その吉兆を占ったのだと言う。

一説によると「凶」が出たので、「吉」が出るまで何度も引きなおしたとも言われている。

そして信長を討つ事を決め、軍勢を京の本能寺へ兵を進め、織田信長を討つ事になったのだそうだ。

つまり、この月輪寺での御神籤が光秀に本能寺の変を決意させたのかも知れない。

境内には明智光秀手植えの本石楠花の木もあったが、訪問した時は花の時期でないのか花は咲いていなかった。

他にも、境内には「龍奇水」と言う湧き水があり、何でも空也上人が竜神から授かった霊水だそうで実際に飲むこともできるようだ。

月輪寺は、山の上のお寺で雨風によって本堂の屋根の傷みとかが激しいようで、建て替えのための寄付を募っておられるところである。

今は、尼である庵主様が風雨や動物の害から守っておられるようである。

参拝するのは険しい山道で辛い部分もあるが、昔からの由緒のあるお寺でもあり、清清しい気分で爽やかになれるお寺でもあった。
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乳母ヶ淵の人魂
京都府の亀岡市、その亀岡市を流れる保津川は、船で川下りを楽しむ保津川下りで有名である。

その保津川に架かる保津大橋の下流に、かつて「乳母ヶ淵」と呼ばれる場所があったと言う。

なぜ乳母ヶ淵と呼ばれたか、それには悲しい伝説があった。


亀岡市が、まだ亀山と呼ばれたむかし、青山と言う殿様がいた。

亀山藩でも格式の高い家柄で富にも恵まれて、何の不自由もない生活に思えていた。

しかし、実は殿様には子宝に恵まれなくて、後継ぎがいない事で悩んでいたのである。

このままでは、お家断絶にもなりかねない重大事でもあった。

そういう中で、青山家にもようやく男子が誕生したのである。

殿様の喜びは大変なもので、親類縁者を招いての祝賀の宴が何日も続き、城下の民にも祝いの品が配られたほどであった。

殿様は、大切な我が子のために教養も人徳もある優れた乳母を探し出して世話をまかせた。

乳母はつきっきりで男の子の身の回りの世話をやき、男の子は恵まれた環境ですくすくと育って行ったのだった。

やがて、四年が過ぎて男の子は四歳になった夏の事である。

その年の夏は、特に暑さが厳しい日々が続いていたと言う。

男の子も元気に育ち、やんちゃ盛りの子供になっていた。

その日も広い庭で毬を追って遊んでいたが、突然に川で水遊びをしたいとゴネはじめた。

厳しい暑さの事もあり、乳母も少しは涼しさも良いかと男の子を連れて、屋敷の近くの保津川へでかける事にした。

男の子と乳母は河原で仲良く遊んでいたが、なにしろやんちゃ盛りの男の子の事ですこしもじっとしていない。

河原の小石を拾ったり、川の魚を追ったりして、乳母が危ないと注意してもなかなか聞かないのだった。

魚を夢中で追っている男の子を止めようとして、乳母が駆け寄ろうとした時に石につまづいて足を取られてしまった。

その時に、男の子は深みにはまってしまい、川の流れに流されてしまった。

男の子は必死にもがいたりしたが、川の流れは速くて押し流されていく。

乳母も大声で助けを呼びながら男の子を追ったが流れが速くて、みるみる男の子は流れにのみ込まれて姿が見えなくなっていく。

とうとう男の子を見失った乳母の頭には、男の子の誕生を大喜びしていた殿様の顔が浮かんで来た。

乳母として男の子の世話をしてきた思いと、殿様に対する申し訳なさでいっぱいになり、とても屋敷に帰るわけに行かない。

「お殿様申し訳もございません、とても許していただける事ではありませんが、死んでお詫び申し上げます」

そう書置きを残すと、乳母は男の子を追うように保津川の流れに身を投じたのであった。

それ以来、夏の暑い日には乳母が身を投げた付近で青い人魂が飛び回り、保津大橋の付近をさまよい続けるようになったと言う。

乳母の人魂が自分の過失を責めるあまりに成仏できずに、男の子を探し回るように人魂となって飛び回っていると人の噂になって行った。

そうして乳母が身を投げた付近をいつしか「乳母ヶ淵」と呼ばれるようになったが、それも昔の話で、今では地元の古老が知るのみで、ほとんどの人はその呼び名さえ知らなくなったそうだ。
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糸繰姫
京都府の「亀岡市」と言えば戦国武将の「明智光秀」が治めた土地として知られている。

その明智光秀が亀岡に築いた城が「亀山城」で、別名で「亀岡城」とも呼ばれるお城である。

明智光秀が本能寺の変で織田信長を討ったが、その後に豊臣秀吉に敗れて三日天下に終わった後も繁栄し、江戸時代初頭には近世城郭として整備されたと言う。

しかし、大正時代に新宗教「大本」が購入し、神殿を築いたが大本事件で日本政府により爆破・破却されてしまう。

こうして内堀と天守閣跡を残す程度となってしまったが、戦後に大本に返却され、現在では大本の本部が置かれていて許可がないと立ち入れなくなっている。


その亀山城は様々な伝説の舞台ともなったようであるが、中には悲劇の舞台となった事もあったようだ。

天下泰平となった世の中でのこと。

亀山城の城主が、城下の機織屋の娘に恋焦がれてしまった。

機織屋の娘は「糸繰姫」と呼ばれており絶世の美女であったと言う。

糸繰姫は、さっそくにお城に召し出されて城主の寵愛を受け、城主は朝から晩まで側から離さなさない溺愛ぶりであった。

山海の珍味を揃えたり、豪華な着物や道具を与えたり贅沢に接待して糸繰姫のご機嫌を取り、家臣たちも気を使って接していった。

しかし、そういう日々が続くにつれ、城主の政治はおろそかになり、城内も乱れて汚職がはびこるようになり、城下も落ち着かない暮らしとなって来た。

家臣たちは、このままではいけないと思い城主を強くいさめると、もともとは優れた城主であったために家臣の忠言に眼が醒めたのである。

城主は、自らの態度を反省し「糸繰姫を下ろしてしまえ」と、姫を帰すように命じたつもりだった。

しかし、この命を聞いた重臣は「殺してしまえ」と聞き間違えてしまったのである。

重臣は、部下に命じて糸繰姫を庭の敷石の上に引き出させると、切り殺させてしまう。

この事を聞いた城主は悲しみにあふれ、聞き間違えた重臣を呼びつけて首を刎ねようとしたが、そこで思い直し「もともとは自分が美女に血迷って政治をおろそかにしたのが原因だ」と考えて、重臣を手打ちにするのを思い止まった。

その後は、城主は反省して真摯に政治に取り組み、城内も平静を取り戻して、城下も活気を取り戻していった。

しかし、哀れなのは間違いで罪も無く斬り殺された糸繰姫である。

そもそもは美人で気立ての優しい娘であり、贅沢も城主が一方的に機嫌を取ろうとした物で姫が望んだ物ではなかったのである。

糸繰姫の親族や知る人たちは涙を流して悲しんでいた。

糸繰姫が斬り殺された敷石は、姫の無念の印のように血がこびりついて何度洗い流しても落ちなかった。

城主は、この血染めの敷石を見るたびに哀れと悲しみを覚えたが、しかし、すべては自分の愚かさが招いた事であり、自らの戒めとして政治に励んだのである。

その後、城主が亡くなると、この敷石は三枚に割られたのだった。

一枚は姫の実家へ送られ、一枚は城主の松平家の菩提寺の「光忠寺」へ送られた。

残された一枚は姫がよく散歩していた城中の堀沿いの松の木の側に置かれたと言う。

それ以来の亀山城は、血染めの敷石を教訓にしたためか名君に恵まれたそうで、城下の人々は儚く世を去った糸繰姫に思いを馳せて冥福を祈ったのであった。
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大田垣蓮月
京都市の北区、上賀茂神社から賀茂川を挟んだ西側の神光院町に「神光院」と言うお寺がある。

もとは上賀茂神社の境内にあったそうであるが、真言宗のお寺で本尊の弘法大師像は厄除大師として多くの信仰を集めていると言う。

この神光院であるが、歌人であり陶芸家としても知られている「大田垣蓮月」(おおたがきれんげつ)に所縁のお寺でもあるそうだ。


大田垣蓮月は、本名を「誠」(せい)と言い、寛政3年(1791年)に鴨川に近い三本木に生まれたと言う。

父は伊賀国上野の城代家老である藤堂金七郎であり、母は名は不明であるが三本木の芸妓であったそうだ。

しかし、そういう特殊な出生からか、生後10日にして知恩院の寺侍である「大田垣光古」(おおたがきてるひさ)の家に養女に出されてしまう。

彼女の薄幸な生涯は生後すぐに始まったのである。

彼女が13歳になったときに養母であった女性が亡くなってしまい、続いて兄となっていた「千之助」も亡くなってしまった。

やがて、17歳の乙女と成長した彼女は、「望古」(もちひさ)と言う男性を養子に迎えて結婚することになる。

しかし、しばらくして生まれた長男は生後一ヶ月余りで死んでしまい、翌年生まれた長女もすぐに亡くなってしまったのである。

さらに、夫の望古さえも後を追うように他界してしまった。

不幸続きの彼女であったが、養父の光古は学問もあり歌道もたしなむ温厚な人柄で、養女である彼女を実の娘のように深い愛情で包んでくれたのが、彼女にとって救いではあった。

そして彼女が19歳となった文政2年(1819年)になると、養父の光古は彼女の寂しさを考えて養子縁組を組み、彦根藩の石川光定の三男の「重二郎」を婿に迎えたのだった。

重二郎は優しく温厚な性格で彼女とも仲睦まじく過ごし、女の子や男の子も授かり、ようやく彼女も幸せな日々を過ごせたのである。

しかし、その幸福もつかの間のものであり、それから数年の内には夫の重二郎をはじめ、二人の子供も病死して、また独りになってしまったのであった。

どうして自分ばかり不幸な目に遭うのだろう、どうしていつも幸せになれないのだろう・・・

次々と起こる不幸に彼女の心中はいかばかりだったであろう、さぞ心に大きな傷を、痛手を抱えていたと思う。

~ともに見し、桜は跡もなつやまの、嘆きのもとに、立つぞ悲しき~

彼女が夫の初七日で詠んだ歌である、ようやく掴みかけた幸せから悲しみに突き落とされた孤独が感じられる歌である。

そして初七日も終えた後に、彼女は養父である大田垣光古と供に知恩院の大僧正によって剃髪の式を受けることになる。

法名は「蓮月」とされ、清らかな白い蓮のように、そして美しい月のようにと言う意味を込められた法名である。

この時から「大田垣蓮月」となったのである、三十三歳の時であった。

真偽は定かでないが、蓮月はたいへん美人だったそうで、尼僧となってからも言い寄る男が多いために自ら歯を抜いて醜くしたと言う話もある。

また、知恩院山内の庵から、岡崎・北白川・聖護院などに転々と転居を続けたために、引越し好きの「家越し蓮月」との異名をとったとも言われている。

そうした転居を続けるうちの生業の道として陶器を作るようになり、自作の歌を刻みつけた陶器の花瓶とかは「蓮月焼」として評判になったと言う。

やがて、慶応元年(1865年)に76歳となった蓮月は「神光院」に移り住み、そこを終生の地として過ごしたのであった。

晩年の大田垣蓮月に一つの逸話がある。

明治元年(1868年)の一月のこと、鳥羽伏見の戦いで勝利した薩摩、長州の官軍が徳川慶喜を追討のため、江戸へ赴こうとして三条大橋を通った時の出来事だそうだ。

その馬前に進み出て一葉の短冊を差し出す一人の老尼がいた。

「島津久光公」の後ろにあった「西郷隆盛」は老尼に歩み寄り

「そなたは誰ぞ、何の用があってのことか」

と尋ねると、老尼は

「めでたきご出陣のほど承はり、腰折一首差し上げたいと存じまして…、私は蓮月と申す尼でございます」

と答えた。

差し出された短冊には「あだみかた かつもまくるも哀れなり 同じ御国の人とおもへば」(敵や味方も同じ国の人間だと思うと、勝つほうも負けるほうも哀れではないでしょうか)

としたためてあり、繰り返し口ずさんだ西郷隆盛は

「よく分かりました、必ずよいように取り計らいますから安心してお帰りなさい、私は西郷吉之助と申します」

と言ったそうである。

そして東海道を下った官軍は3月12日に品川に到着し、江戸城総攻撃は15日と決定されたが、勝海舟と西郷隆盛との会談によって江戸城無血開城が成されたのだと言う。

虚実は判らないが家族を次々と亡くす悲しみを知っている蓮月らしい逸話ではないだろうか。

大田垣蓮月は、歌や陶器や書などいろいろな道に堪能であったようであるが、それらの作品には彼女の人生観や思想などが強く現れていると言われている。

様々な不幸や悲しみの前半生と尼僧となってからの静かな後半生、それらのあらゆる経験が作品へと昇華されていったのかも知れない。

蓮月は、赤子の頃に実の親から離れさせられ、その後は夫も子供も失って孤独な人生であったと思う。

しかし、尼僧となってからは多くの友を得るようになり、また陶器や歌に打ち込むことで残りの人生の生きがいを得ていたのではないだろうか。

富岡鉄斎も師弟のような親子のような友人であったと言われている。

老年の蓮月は神光院の茶所で残りの余生を過ごしたそうで、85歳でその人生を終えたそうだ。

その死に顔は安らかで穏やかだったと言われており、もしかすると天国での夫や子供達との再会を楽しみにしていたのかも知れないと思う。

亡くなった蓮月は、神光院に近い共同墓地の質素な墓石の下に静かに眠っていると言う。
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花の生涯
京都の左京区の一乗寺の地に「金福寺」と言うお寺がある。

「松尾芭蕉」に所縁のお寺で、「芭蕉庵」という茶室もあるが、この茶室を再建したのが「与謝野蕪村」だそうで、境内には与謝野蕪村をはじめ一門の人達の墓が祀られている。

この金福寺の入り口の左側に、小さな弁天堂が祀られている。

NHKの大河ドラマにもなった、舟橋聖一さんの著作「花の生涯」のヒロインであった「村山たか女」(村山可寿恵とも言う)に所縁の弁天堂であるのだ。

村山たか女は、文化6年(1809年)に近江の国の多賀大社の尊勝院主の尊賀少僧都を父とし、母は多賀社般若院住職の妹(彦根の芸妓など諸説もある)であり、世間体をはばかって寺侍の村山氏にあずけられて育ったと言う。

村山可寿江と言う名前で呼ばれており、 幼い頃より三味線や和歌や舞、それに華道や茶道も仕込まれたそうで、当時の女性としては充分なたしなみを身につけていたようだ。

やがて18歳の娘へと成長した可寿江は、彦根藩主の井伊家に侍女として奉公したが武家勤めは性にあわなかったようで、しばらくすると井伊家を辞して京へ出ると祇園の芸者になったと言う。

彼女の芸達者と美貌が受けて売れっ子の芸者「可寿江」となり、金閣寺の僧に身請けされて北野の付近に囲われるようになった。

しばらくすると金閣寺の僧との間に「帯刀」(たてわき)と言う男子をもうけたが、やはりここでも僧が愛人に子供を産ませたとなっては世間体が問題となり、金閣寺の寺侍の多田源左衛門に譲られてしまう。

そういう境遇に嫌気が差したのか、たか女は息子の帯刀を連れて近江の彦根に戻って暮らすようになったと言う。

そういう日々の中で、ある歌会に出かけた「たか女」が出会ったのが、当時はまだ部屋住みの生活をおくっていた「井伊直弼」(いいなおすけ)、後の井伊大老である。

村山たか女と井伊直弼は惹かれるものがあったのか急速に親しくなり、たか女は直弼の愛人のような関係になる。

また、直弼とたか女の元へは後に井伊直弼の腹心となる国学者の「長野主膳」も出入りするようになった。

やがて時代は黒船来航によった開国問題と共に、尊皇攘夷の活動が激しくなってきたのである。

彦根藩の藩主となっていた井伊直弼は、将軍家の世継問題で、紀伊の「徳川慶福」(14代将軍、徳川家茂)を推して、攘夷派の「一橋慶喜」(15代将軍、徳川慶喜)を推す「水戸斉昭」との対立があったが、老中の堀田正睦らの要請もあり、大老職に就任した。

こうして井伊大老となった直弼は、朝廷に圧力をかけるなどして「日米修交通商条約」の調印を断行し、それに反対する水戸派や攘夷浪士らを大量に逮捕し処罰した、後に言う「安政の大獄」である。

また井伊直弼は、開国主義を進めていて、政局の中心となった京へ長野主膳を遣わして反対派の弾圧を行なっていた。

村山たか女も、京で長野主膳の手先となって、御高祖頭巾(おこそずきん)で顔を隠して働いていた、たか女は主膳に惹かれていたのだとも言う。

こうして京を舞台とした殺伐とした時代と変わっていく。

そういう中で、村山たか女は井伊大老の政策を助けるために、隠密として攘夷論者たちの情報を長野主膳に流していた。

しかし、井伊大老のそういう強引なやり方は恨みや敵をつくり、万延元年(1860年)3月、雪の降る江戸城の桜田門外で、井伊直弼は水戸浪士らによって殺害されてしまう。

こうした時流の変化により、たか女の身近にも危険が迫るようになってきて、井伊直弼の右腕として活躍していた長野主膳も藩によって斬罪に処せられて、たか女と一緒に情報収集していた仲間である九条関白家の島田左近も天誅として殺害されてしまった。

たか女は、息子の帯刀とともに京の北野の地に身を潜めて隠れ住んでいたが、文久2年(1862年)にとうとう浪士達に踏み込まれてしまう。

その時の浪士の中には、土佐の「岡田以蔵」や、人斬り新兵衛と呼ばれた薩摩の田中新兵衛も含まれていたと言われている。

たか女は捕らえられ、帯刀も一度は逃れたものの再び捕らえられて惨殺されたと言う。

そして村山たか女は、女だと言う事で命は助けられたが、寒風の三条河原において薄着姿で両腕と腰を荒縄で縛られて、三日三晩の生き晒しにされてしまう。

「村山かずえ、この女、長野主膳の妾にて戌牛年以来、主膳の奸計助け稀なる大胆不敵の所業をすすめ、赦すべからざる罪科にこれあり候えども、その女たるをもって面縛転の上、死罪一等これを減ず」

これが、村山たか女が生き晒しにされた時の高札書きである。

たか女は、我が子の帯刀を殺され、直弼や主膳も失い、女の身として生き晒しと辱めを三日三晩受けて、身も心もぼろぼろになって縄目を解かれることになる。

この当時で村山たか女は54歳くらいだったと思われる。

疲れ果てた村山たか女は、彦根の清涼寺に暮らすことになるのだが、ここでも平穏な生活は許されなかった。

その清涼寺には多くの雲水が修行していたので、そこに美しい女性がいたのでは男僧達の修行の妨げになってしまうのである。

そこで、たか女は知り合いの伝手を頼み、京の一乗寺にある「圓光寺」(えんこうじ)と言う尼寺に身を寄せて「妙寿」と言う名前をもらって尼僧になることになり、ようやく穏やかな生活が訪れたのである。

この圓光寺で、たか女は妙寿尼として修業を積み、その後、同じ一乗寺にある「金福寺」(こんぷくじ)に身を移して余生を過ごした。

金福寺には、村山たか女の遺品として位牌や筆蹟等が残されているが、始めに書いたように山門の横に「弁天堂」も建てられている。

たか女は、巳年の生まれで、巳は蛇として弁天様の使いであるために、弁天様を信仰していたと言う。

あの三日間の生き晒しの地獄に耐えられたのも弁天様の御加護があったから。

そう信じたたか女は、金福寺に弁天様を祀るお堂を建てようとして協力を求めた結果、芸妓の頃に贔屓してくれていた豪商などの寄付もあり、明治2年(1869年)に建立できたそうだ。

こうして、村山たか女(可寿江)は、妙寿尼として金福寺の寺守として穏やかに過ごし、やがて明治9年(1876年)に67歳で天寿を全うした。

しかし、その村山たか女の墓は、金福寺ではなく、尼となって修行した圓光寺に祀られている。

圓光寺の緑に囲まれた墓地の小さな墓に、妙寿尼こと村山たか女は静かに眠っており、墓石には「清光素省禅尼」の法名が彫られている。

波乱万丈とも言える人生を生きた村山たか女は、生き晒しの刑を受けるほどの奸婦だったのであろうか、それとも愛する男達のためには身命も辞さずに尽くした女性だったのであろうか。

時代の流れに翻弄され、愛する男や我が子さえも失った哀しい女性に思えるのは私だけであろうか。
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不開門
これまでにも京都の東寺について書いて来たが、もう少し東寺についていくつか書きたいと思う。

東寺の東側にある「東大門」だが、「不開門」(あかずのもん)とも呼ばれている。

なぜ東大門が開けずの不開門となったのか、そこにも話が伝わっている。

時は建武元年(1334年)9月、東寺では五重搭の落慶供養が行われていた。

この時の五重搭は三代目で、永仁元年(1293年)に再建されてから41年もの間に落慶供養は行われていなかったのである、ちなみに現在の五重搭は徳川家光の時代に再建された五代目である。

その落慶供養には後醍醐天皇をはじめとして足利尊氏・新田義貞・楠木正成・名和長年・佐々木道誉・千種忠顕などなど鎌倉幕府を倒したそうそうたるメンバーである。

これから僅か1年後の建武2年(1335年)、後醍醐天皇と足利尊氏は決別して敵対することになる。

鎌倉にいた足利尊氏に対して、後醍醐天皇は新田義貞軍を討伐のために差し向ける、こうして尊氏は朝敵となってしまったのである。

その後、足利軍は鎌倉から京へ攻め上ったが朝軍の前に敗れて九州に逃れる。

しかし、北朝となった光厳上皇からの院宣を受けて逆臣の汚名をはらすと、九州から朝軍を打ち破りながら攻め上り、やがて七万の兵と千数百の軍船を持つ大軍となり、湊川の合戦では楠木軍をも打ち破ってしまう。

楠木軍が敗れたと聞いた後醍醐天皇は、比叡山に逃れると新田軍を中心として比叡山の僧兵も加えて守りを固めた。

一方の足利軍は、京に入ると光厳上皇を奉じ、光明天皇を立てて東寺に軍を引いたのだった。

東寺は四方を土塀で囲まれており、境内には馬が繋がれ軍勢であふれて城塞のようになったのである。

最澄の比叡山に南朝の後醍醐天皇の御所となり、空海の東寺が北朝の光明天皇の御所となったのは皮肉なものかも知れない。

やがて京都の町のあちこちで戦いが行われることになり、足利軍の本拠地となった東寺の近くでも戦端が開かれた。

新田義貞が率いる2万の騎馬軍は大宮通りから東寺を目指し、加えて名和長年が率いる軍勢も猪熊通りから東寺に向かっていた。

向かえる足利軍も東寺の門を開けて打って出て六条大宮辺りで両軍の激突となり激しい攻防戦が繰り広げられた。

しかし、徐々に新田・名和軍が優勢となり足利軍は苦戦となっていった。

もう持ちこたえられない・・・

そう思った足利軍は退却を決意し、新田・名和軍に追われるように東寺の本軍を目指して退却していくしかなかった。

痛手を負った足利軍は東寺の東大門から次々と境内に逃げ込み、最後の一兵が足を踏み入れるやいなや東大門の門が閉じられたが、その門にも幾すじもの矢が打ち込まれるほどきわどい退却だったと言う。

やがて2万を越える新田・名和軍が東寺の周りを取り囲み、総指揮官の新田義貞が東大門の前から足利尊氏に一騎打ちを挑んだが、足利軍は応じずに東大門は閉じられたままだった。

それから東大門は閉じられたままで開かれる事はなく、それ以来、この門は「不開門」(あかずのもん)と呼ぶようになったそうだ。

今でも閉じられたままの不開門には、この折の矢の跡が残っていると言われ、戦いの激しさを物語っていると言う。

また、もう一つの伝説では、この東大門での争いの折に、東寺の境内の南西に鎮座する「鎮守八幡宮」から何本もの鏑矢が新田・名和軍をめがけて飛んでいったと言われ、それによって戦局は逆転し、やがて足利軍が有利となっていって勝利を得ることになったとも言われている。

実際に、京都の各地で市街戦を行っていた足利軍が東寺にかけつけ、東寺を取り囲む新田・名和軍に攻め込んで名和長年は討ち死にしてしまい、南朝軍は退却を余儀なくされたのだ。

この戦を境に足利軍が有利となって勝利するのであるから、この東寺の攻防が天下分け目の決戦と言えるかも知れない。

やがて足利尊氏は征夷大将軍となり室町幕府を開くのだが、東寺には梵鐘を寄進したと言われ、その梵鐘はながく使われて来たが傷みが激しくなって宝物館に収められて現在はそれを模倣した二代目が使われているようだ。


さて、その足利軍に加勢した「鎮守八幡宮」についても伝説が残されている。

東寺の南大門を入った西側、以前に書いた灌頂院のの東隣にある真新しい朱塗りの社が「鎮守八幡宮」である。

東寺の創建当時からあったと言われて古い社で、東寺のにならず平安京の守護神として祀られていたそうで、最近になって新しく建てかえられたのである。

その鎮守八幡宮の伝説であるが平安京の初期に起きた「薬子の乱」にも関わるお話である。

桓武天皇が平安京への遷都を行い、その後を継いだ「平城天皇」や「嵯峨天皇」の時代の話だ。

病気により退位し上皇となった「平城上皇」に代わって天皇に即位した「嵯峨天皇」は平安京の繁栄のために力を注いでいた。

唐から戻り、入京の許可が無いまま大宰府にいた空海が、入京の許可を得て京都に入ったのも嵯峨天皇になってあらであり、空海と嵯峨天皇はその後に親しく接するようになったと言う。

ところで「平城上皇」は病気のためと言いながらも藤原薬子ら側近と供に各地を転々としていたが、旧都である平城京に落ち着くと宮殿を新造し、藤原薬子らと供に再び実権を握ろうとして謀反を企てた、世に言う「薬子の乱」である。

平城上皇は、かってに平安京を廃して平城京に都を戻すなどの命を下し、突然の反旗に朝廷は騒ぎたった。

嵯峨天皇は、すみやかに乱を鎮めようと思い、空海にあって相談したと言う。

空海は東寺にあった鎮守八幡宮に篭ると薬子の乱の平定と嵯峨天皇の戦勝を祈願したのだった。

嵯峨天皇は腹心である坂上田村麻呂や藤原冬嗣らを平城京の造営に差し向けると偽って伊勢・近江・美濃の関所を固めさせ、それとともに藤原薬子の官位を剥奪し、薬子の兄の藤原仲成を拘束した。

平城上皇側も急いで兵を上げたが、嵯峨天皇側の前には敗れ去り、平城上皇は平城京に戻って剃髪して仏門に入り、藤原薬子は毒を飲んで自害した。

こうして薬子の乱は平定されたが、嵯峨天皇はこれも空海が鎮守八幡宮で祈願したおかげと思い、空海に八幡大菩薩を祀るようにしたいと話されたそうだ。

この時には鎮守八幡宮にはまだ御神体は祀られていなかったのである。

空海が考えていると頭上に「八幡神」の姿が現れたと言う。

その八幡神は僧侶の姿をしていたので、空海はその姿を紙に写し描くと、自らノミを取って八幡神の姿を彫り上げたのだった。

こうして彫り上げられた「僧形八幡神」が現在も鎮守八幡宮に祀られているのだそうで、この僧形八幡神像は日本最古の神像とも言われる貴重な物で東寺で起こった災害や火災のおりにも持ち出されて護られたそうだ。

僧形八幡神の他にも2体の女神像、それに竹内宿禰像も同じように空海によって彫られて、一緒に鎮守八幡宮に祀られている。

また、鎮守八幡宮にはかつて白ヘビが住んでいたと言う話もある。

拝殿の側の楠木の大木に2メートル近い白ヘビが住んでいたそうで、「巳さん」と呼ばれて鎮守八幡宮の守り神として信仰されていたそうだ。

もっとも、私は子供の頃から何度も東寺に行っているが見たことは無くて、もしもいれば観光客やお参りする人も多いので騒動になっていただろう。

しかし、こう言うのは信仰や伝説の中で存在している物でもあるので、信仰として存在している物とするのではないだろうか。
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夜叉神
京都の南区の九条大宮にある「東寺」は「教王護国寺」と言うのが本来の名前だが、平安京の出来た折りに羅城門を挟んで西の「西寺」と東の「東寺」として建てられてから東寺の名前で親しまれている。

ちなみに、平安京で正式に建立を認められた寺院は西寺と東寺だけであったと言う。

東寺は嵯峨天皇によって弘法大師・空海に任されることになり、真言密教の根本寺院として発展を遂げていく。

平安京を偲ばせる建物はほとんどが姿を消してしまった中で、唯一と言っていいくらいに当時と同じ位置で現存するのが東寺であり、平安京を知る上での重要な史跡でもある。

東寺と言うと「五重搭」が有名だが、その五重搭は東寺の南側の九条通りに面して建てられており、同じく九条通りに面する門が「南大門」である。

南大門は東寺の正門的な位置付けにあるが、現在になって平安京の実測地図などを作成する時に定点とされたそうで、南大門の中心を基準として羅城門や朱雀大路が測られて地図にされたそうだ。

さて、東寺は弘法さんとして多くの人の信仰を集めていると供に多くの観光客が訪れる名所でも有り、国宝や重文もたくさん有している。

その東寺の境内で五重搭や講堂や金堂などは有料になっていて土産物店を兼ねた料金所があるのだが、その西側に小さなお堂が二つ仲良く並んでいるのに気がついた方がいるだろうか。

お堂は食堂の南側にも当たるのだが、土産物店に気を取られて気にしない人が多いようだ。

この二つのお堂は「夜叉神」を祀るお堂で、二つのお堂のうちで東側にあるのが「雄」の夜叉神を祀るものであり、西側にあるのが「雌」の夜叉神を祀るものだそうだ。

東寺の境内にあってひっそりと場違いのように建つ夜叉神のお堂であるが、このお堂がこの場所に建てられたのには伝説が残されている。

むかし、東寺の南大門の両脇に夜叉神の雄と雌の像が祀られていた。

弘法大師が造ったとも言われるが不明である。

この南大門の前を通る道は鳥羽・伏見へと向かう道でもあり多くの旅人が行き交っていたと言われている。

その南大門の前を通る人の多くは先を急ぐ事もあり、南大門を拝礼したりする事も少なかったようだ。

しかし夜叉神は、拝礼もせずに前を通る人がいると罰を与えたりしたのだそうだ。

夜叉神は、本来はインドの悪鬼だったそうだが、後に仏教に帰依して仏法の守護神として祀られるようになったものだそうで、髪を逆立て目を見開き口には牙が生えており、腰には獣の皮を巻きつけた恐ろしい姿なのだそうだ。

また、雄の夜叉神は空を飛びまわり、雌の夜叉神は地を這い回ると言う。

こんな話も流れて南大門の前を通る人や付近の人たちも恐ろしくなってきた。

特に日が暮れ時など、恐くて夜叉神の祀られる南大門の前を通るのを避けるようにしたいが、そうもいかない場合もある。

そこで、人々は東寺に夜叉神を南大門から境内に入れてもらえないかと懇願した。

こうして夜叉神は南大門を入った内側の南大門と金堂の間に安置されるようになったのだが、それでも南大門を通ると開いた門から夜叉神が見えるので恐ろしさは変わらなかった。

もう一度、人々が東寺に見えない所にお祀りし直してくれるように頼んで、ようやく講堂と食堂の間の位置に移されて南大門から見えなくなったのである。

お堂の中の夜叉神の像を見ると、薄暗がりの中でやはり恐ろしい姿であり、木像の身体中に虫食いのような穴が開いてしまっている。

実は、この身体に開けられたのは、恐怖のあまり人々が槍で刺した痕だと伝えられていると言う。

このように怖れられた夜叉神であるが、いつの頃からか歯痛にご利益があるとされるようになったそうだ。

お堂の前の雨だれの下に白豆を埋めてお祈りすると歯痛が治ると言われているようで、治るとお礼に割り飴をお供えすると聞く。

むかし恐れられた夜叉神が、今は歯痛にご利益があるとして参拝する人がいるのだから不思議なものである。
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閼伽井の朱馬
京都市に新幹線とかで来られる方にとって、京都に来たと目につくのは京都タワーと東寺の五重塔だそうである、私なども東寺の五重搭を見ると京都に帰ってきたと実感したりする。

京都市の南区にあり京都駅の南西の九条大宮にあるのが空海こと弘法大師が開基となった「東寺」である。

正式には「教王護国寺・秘密伝法院」と言うのだが東寺と言う呼び方が一般的であり、これは平安京が造営された折に都の正門となる羅城門を挟んで東寺と西寺が建てられた事からの呼び方である、ちなみに西寺は現在は西寺公園として史跡を残すのみである。

実は私の実家はこの東寺のすぐ近くであり私にとっても東寺は子供の頃からの遊び場であり、また中学校も東寺の近くだったので、中学時代の3年間は東寺の門前を通って通学してたくらいで、私にとって身近なお寺なのである。

東寺と言えば五重搭がシンボルのようになっているが、平安京からほとんど建物や位置が変わってないので、平安京の当時の規模や位置関係を知る基本となってもいるそうである。

その東寺は、また毎月21日に「弘法さん」と言われるガラクタ市が開かれる事でも有名で、広い境内いっぱいに1000店以上とも言われる様々な露店が並び、骨董品から仏具や工芸品、食べ物や古着などあらゆる露店で多くの人々で賑わっている。

さて、弘法さんは毎月21日に開かれると書いたが、これは弘法大師の命日が4月21日とされているからで、毎月の21日に弘法さんが開かれるようになったのだそうだ。

そして、命日の4月21日には東寺でも特別の行事が行われるのである。

東寺の境内でも南西の角にある「灌頂院」(かんじょういん)と言う塔頭があるが、ここは修行によりある程度の水準に達した僧侶に真言密教の継承の儀式(灌頂の儀式)が行われる場所であり、他にも重要な密教儀式を行われたりするので、普段は門を閉ざして非公開とされている。

この灌頂院の門が一般にも開かれるのが1月8日~14日までの「後七日御修法」の時と、4月21日の「正御影供」の時期だけである。

その4月21日には、灌頂院の中にある「閼伽井」(あかい)と言う井戸を蓋うお堂の庇に三枚の絵馬が架けられる。

閼伽井は灌頂院の北門を入って西側に小さなお堂が建っているのがそうで、お堂の中には閼伽井と言う井戸があり、かつては神泉苑とも繋がっていて水を涌かせていたが、新幹線の工事のおりに枯れてしまったそうだ。

現在では儀式の時などは神泉苑から水を汲んでくるとも聞いた事がある。

このお堂の正面に先に書いたように、4月21日にだけ三枚の絵馬が架けられて公開される。

この絵馬は「朱馬」と言い、白い四角い板に赤い色で馬の姿が描かれた物で、かつて弘法大師が毎年一夜にして絵馬を書き上げ、それによって吉凶の占いを行った事に由来するようだ。

現在でも、4月21日に徳のある僧正が灌頂院の締め切った暗闇の中で一枚の朱馬を一気に書き上げるそうで、読経して精神を集中すると弘法大師が降りてきて僧正の手に憑いて描かせるとも言われており、この朱馬の絵馬を見る者の邪気を祓い、幸運を運ぶと言われている。

閼伽井には三枚の朱馬が架けられるが、毎年に描かれるのは一枚で、この三枚の朱馬の絵馬は、三枚のうち右が昨年の物で、左が一昨年の物、真中が今年の物だそうである。

その朱馬の馬の絵の具合で三枚の絵馬を見比べて、馬の顔が長い年は長雨が続くとか、胴が長いと日照りが少ないとか言う具合に、馬の絵でその年の天候や農作物の出来を占うそうである。

昔は東寺の付近にも畑や農家もかなりあり農作や天候の占いも大事だったのだろうし、遠くからも見に来たそうである。

確かに三枚の朱馬の馬を見比べると微妙に違ってたりして、目の具合や足の上げ方や尾の様子などでも占えるそうで、それぞれに吉凶を判断できるのが面白いかも知れない。

さて今年の天候や農作物の出来具合、吉凶はいかがだろうか?

今年が良い年になる事を願いたい。
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本能寺の変
明智憲三郎さんの「本能寺ノ変 431年目の真実」を読んだ。

作者の明智憲三郎さんは、明智光秀の血筋を引く方だそうで、これまでの明智光秀像や本能寺の変の謎に資料を検討して、真実の姿に迫っておられる作品である。

要約すると・・・

まず、織田信長と明智光秀は別に険悪でもなく、現在までに蔓延している光秀や本能寺の変の原因は、豊臣秀吉が自分の部下に命じて都合よく書かせた「惟任退治記」によって、秀吉の思惑に沿って作られたものである。

信長は、国内統一後は、身内の者に国内を治めさせて、配下の武将には中国に進出させて、あちらで領土を広げさせようとしていた。

光秀は、長宋我部と関係が深く、信長による長宋我部討伐を中止させれないか悩んでいた。

信長は、徳川家康の暗殺を考えていた。

これらの事が本能寺の変の遠因としてあったのである。


そして、信長は本能寺において徳川家康の暗殺を企てており、それを明智光秀に行わせようとしていた。

家康の接待を担当していた光秀を外して毛利討伐の準備をさせに戻らせたのは、家康を欺くためで、堺で逗留中の家康を本能寺へ来させるために、信長の本能寺は手薄にして安心させようとし、その裏で光秀の軍で本能寺を襲わせて家康を暗殺するつもりだったのである。

一方、光秀は長宋我部を助けようとする思いを、このまま信長の世が続けば領地を捨てて中国に行かされて、あちらで戦で領土を勝ち取るしかなくなることを反発を感じていた。

そうして、家康を本能寺で討つ様に命じられ、これを逆手にとって徳川家康に事情を話して家康と手を組み、本能寺で家康を討つと思わせておいて、信長を討つ事にしたのである。

家康は、光秀が本能寺で信長を討っている間に、事前に用意していた伊賀越えのルートで三河に戻り、信長の東日本の軍勢を抑えつつ、西の光秀と協力する計画だったのである。

ここで誤算が出たのは、光秀が味方と信じていた細川が、実は光秀を裏切って秀吉に内通し、光秀が本能寺で家康でなく信長を討つ事を漏らしていたのであった。

だから、秀吉は事前に光秀が本能寺で信長を討つ事を知っており、毛利との講和を内々に進めており、また京都へ急ぎ戻れるように準備されていたのであった。


と、こういう内容であるが、確かにこの説だと光秀や本能寺の変の謎に一定の説明は付くようにも思えるね。

実際の正解は判らないが、なかなか面白い説であるように思う。
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清水寺
大阪の清水寺へ行ってきました。

清水寺と言えば京都を思われると思うのですが、大阪の天王寺にもあるんですねぇ。

四天王寺の関連寺院らしいですが、江戸時代に出来たお寺らしく、かなり京都の清水寺を意識した部分もありますね。

墓地の上に見晴らし台のような「清水の舞台」が作られていますが・・・いやいや違うでしょ・・・見晴らしは良いですけどね。

鐘の隣にあべのハルカスが見えるのが少し面白いですね。

境内には音羽の滝に似た玉出の滝があります。

こちらは、かなり本家の音羽の滝に似せてますね。

ちなみに、大阪市内で天然の水の滝はここだけらしいです。

本堂は工事中らしく、社務所?の2階に仏様が祀られていて、2階に上がってお参りすることになります。

天王寺周辺は面白いと言うか興味深い寺社が多くて楽しいですね・・・でも坂が多いのでしんどいです。
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蟹満寺
今日は、久しぶりに京都の相楽郡にある「蟹満寺」(かにまんじ)へ行ってきました。

昔に一度行ったことがあるのですが、今日は蟹満寺の蟹供養放生会が行われるので行ってみたくなりました。

京都と奈良を結ぶJR奈良線の棚倉駅から、北に20分ほど歩いた所に「蟹の恩返し」の民話で知られる「蟹満寺」と言うお寺があります。

この蟹満寺は、奈良朝以前に帰化人と知られている「秦氏」の一族の秦和賀によって創建されたと言われており、その後に行基菩薩の開祖によって多くの信仰を集めたと言われています。

しかし、蟹満寺は、先に書いたように「蟹の恩返し」の寺として広く知られており、今昔物語や古今著聞集などの書物にも、その伝説が残されているようです。


むかし、ある村に夫婦と若い娘の善良な家族が住んでいました。

夫婦も慈悲深い人達でしたが、娘は幼少の頃から優しく慈しみ深い美しい娘で、観世音菩薩を篤く信仰していました。

ある日、娘が用事があって外出すると、村人がたくさんの蟹を捕まえて玩具にして遊んでいるのに出くわしました。

娘は、蟹が哀れに思い、村人に逃がしてやってくれるように頼みましたが、村人はせっかく捕まえた物で、持って帰って食べるのでダメだと聞いてくれません。

そこで娘は、手持ちのお金を出して村人から蟹を買い取って逃がしてやったのでした。

放された蟹達は、自由になって嬉しいのかガサガサ音を立てて帰っていき、娘はその姿を微笑ましそうにしばらく眺めていましたが、用事の途中なのを思い出して立ち去って行きました。


それからしばらく過ぎた日の朝の事です。

父親が自分の田んぼに出かけて耕していると、近くで蝦蟇が気持良さそうにゲコゲコと鳴いていました。

すると、どこからか大きな蛇が現れて一目散に蝦蟇に向かうと、蝦蟇を咥えてしまったのです。

蝦蟇は、今にも蛇に飲み込まれそうになり必死でもがいていましたが、蛇もしっかりと咥えこんでそのまま飲み込もうとしていました。

父親は、蝦蟇が哀れに思い、何とか助けてやりたいと思いましたが、どうすることもできないのでした。

そこで父親は蛇に向かって語りかけたのです。

「なぁ蛇よ、何とか蝦蟇を助けてやってくれまいか、もしも蝦蟇を放してくれるのなら、うちに娘が1人いるのでそれをお前の嫁に嫁がせてやろうではないか」

もちろん、父親は蛇に言葉が通じるとは思っていないので、本気で言った訳ではありません。

しかし、蛇は父親の話を了解したように咥えていた蝦蟇を放して逃がしてやったのです。

蝦蟇は思わず命が助かったのでピョンピョンと飛び跳ねて逃げて行き、蛇も何処かへ姿を隠してしまいました。

父親は、その様子を呆然と見ていましたが、もしかすると蛇が自分の言ったことを真に受けて、娘を貰う代わりに蝦蟇を逃がしたのだろうかと不安になり、重い気分で家に帰って行ったのでした。

やがて、家に戻った父親の様子が元気がなく不審なので、母親と娘は何かありましたかと問いかけました。

父親は隠していてもいずれは知れる事と思いを固め、田んぼでの出来事を話して聞かせると自分の軽はずみな言動を詫びたのでした。

娘は父親から話を聞くと微笑んで

「お父様は蝦蟇の命を救おうとしてされたこと、後悔される事はございません」

そう話すと、自室に下がって日頃から信仰している観世音菩薩に祈願してお経を唱えて過ごしました。

そして夕暮れ時になると家を訪ねて来た者がいたのです。

何者かと見ると、衣冠を着けた若者が立っており

「昼間の田んぼでの約束通り娘をいただきに来た」

と告げたのでした。

父親は困って娘に相談すると、娘は今朝の今日では仕度も整なわないので三日後に改めて来るようにと言うように頼みました。

父親が、娘に言われたように若者に告げると、若者は三日後に再度訪れるので約束を違えないように念を押して帰って行きました。

やがて三日が過ぎ、約束の日となりました。

父親は昼間から家中の雨戸を閉めて入る隙間をなくし、娘は仏前でひたすらお経を唱えていました。

しばらくして夕刻になると先日の若者が訪ねてきて、約束どおり娘をもらいに来たから戸を開けるように告げたのです。

若者を家に入れたら最後だと思い、父親と母親は戸を閉めたまま戸締りを固くしました。

若者は何とか入ろうと、戸を叩いたり雨戸を開けようとして怒鳴り散らしましたが、どうしても入るところがないので、ついに蛇の本性を現せて大きな蛇に姿を変えると家の周りを回り、家も壊さないばかりに尾で雨戸を打ち叩いて荒れ狂っています。

家の中では両親は恐ろしさに震えて手を取り合っていましたが、娘はいっそうにお経を唱えて観世音菩薩に縋るのでした。

夜も更けていき、暴れまわる蛇の勢いで今にも家が壊れそうで両親は生きた心地もしません。

その時、家の中に芳しい香りが漂うと光に包まれた観世音菩薩が姿を現したのです。

驚く両親に向かって観世音菩薩は語りかけました。

「怖れる事はありません、もともとは慈悲の心より起こった出来事であり、また娘も日頃から私を信心して善行を積んでいる。救いは現れますから案じることなく祈りなさい」

そう言うと観世音菩薩は高貴な残り香を残して姿を消してしまいました。

両親は、夢から覚めたように気を取り直すと、観世音菩薩の霊験に感謝して祈りを捧げつづけたのでした。

やがて、いつの間にか夜が明けたのか朝の光が家の隙間から射しこんでいました。

ふと気がつくとあんなに暴れまわっていた蛇はどうしたのか、周りは静かで物音一つしていません。

どうしたのだろう?

父親は、意を決して恐る恐る雨戸を少し開けて外の様子を覗いてみると、辺りは真っ赤に血に染まっており、蛇と多くの蟹の死骸が横たわっています。

驚いた父親が、母親と娘とに声をかけて三人で戸を開けて外に出てみると、そこには無数の蟹に身を刻まれて血に染まって死んでいる蛇の死骸と、蛇を襲って潰されていった蟹の遺体が地面を埋め尽くしていました。

これこそ、観世音菩薩の御慈悲に導かれて、娘に救われた蟹達が仲間を連れて恩返しにきて蛇を退治してくれたのです。

そして親娘三人は娘を助けるために犠牲となってくれた蟹達を悼み、観世音菩薩の救いに手を合わせたのでした。

また、犠牲となった蟹達と蛇の遺体を集めると穴を掘って丁寧に埋め、その上に御堂を建てて観世音菩薩をお祀りすると蟹達と蛇の菩提を弔ったそうです。

この御堂が元となりお寺が建てられて、たくさんの蟹が満ちて恐ろしい災いから救われたので「蟹満寺」と名付けられたのだそうです。

これが蟹満寺縁起と言われる物語で、これが元になり蟹の恩返しとして広く知られるようになったのでしょうね。

蟹満寺の境内には蟹の絵柄をモチーフとして、灯篭や賽銭箱にさりげなく描かれていたりしますし、また物語に所縁の観音堂には蟹を中心に蛇が周りを取り囲んでいる木彫りの扁額が飾られています。

この付近は地理的にも、西には木津川が流れており、お寺のすぐ北には天神川と言う川も流れていて、付近には田畑もあり、昔は蟹や蛇なども多くいたのだろうと想像できますね。


お寺は、蟹供養放生会の準備がされていましたが、なにぶんにも遠いので時間もあまり余裕がなく、法要を見ることはあきらめて、お参りして御朱印をいただいて帰りました。
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三年坂
京都の東山にある「清水寺」は、京都でも有数の観光名所で、毎日に多くの観光客が訪れている。

その清水寺への参道の途中、七味屋と経書堂の間に続く石段が「三年坂」と呼ばれる石段なのはご存知の方も多いだろう。

さて、この三年坂の言い伝えで有名なのが三年坂で転ぶと3年以内に死んでしまうと言う物だ。

確かに、この三年坂は少し急な石段で雨などで濡れた時など滑りやすいかと思うので転ぶと危険ではある、ちなみに石段は47段あるそうである。

この三年坂の名前の由来は、もともとは「産寧坂」(さんねいざか)と呼ばれたのが、三年坂へと転化した物だと言われている。

かつて、昔は現在の「松原通り」が「五条通り」であり、「松原橋」が「五条橋」であったので、五条通り(現・松原通り)から五条橋(松原橋)を渡り、六波羅密寺や珍皇寺を経て清水寺の参道を通り、清水寺へと向かうのが一般的な参道であり、産寧坂を通って参道へ向かう事が多かったのだと思われる。

清水寺の境内の、清水の舞台から錦雲渓を眺めれば、離れて「子安ノ塔」と言う三重塔が見えるが、この子安ノ塔は、昔は「泰産寺」(たいさんじ)として現在の清水寺に入ってすぐの仁王門の南側にあったのだと言う。

それが明治44年(1911年)になって、現在の場所に移転されたのだそうだ。

その泰産寺は「泰産」の名や「子安」の名のように「安産」に御利益のあるお寺として深く信仰されていて、産寧坂の名前も清水寺と言うよりも、泰産寺に安産のお参りに行く人が多くて付いた名前なのだそうだ。

そこで、産寧坂が三年坂へと転化し、転ぶと3年以内に死ぬと言う伝説も、実は泰産寺にお参りする妊婦の方達に気をつけるようにとの思いから、注意を呼びかけるように作られた言い伝えだと言う説を聞いた事があるが、他にも諸説ありはっきりしないようである。


この三年坂の伝説にちなんで、ひとつ面白い話も残されている。

ある日、足腰の弱まった老僧がこの三年坂で転んでしまったそうだ。

この頃には、三年坂で転ぶと3年以内に死ぬと言う話が広く知られていたので、見ていた周りの人が驚いた。

その中に瓢箪屋の主人がいて、急いで駆け寄って老僧を助け起こすと三年坂で転ぶと3年以内と亡くなると言う話をしたと言う。

すると、老僧はニコッと笑顔になると

「わしは、もう年寄りで身体も弱り、いつ死ぬか判らない身だと思っていたが、3年で死ぬとは、あと3年は大丈夫と言うことだ。これはありがたい事を聞いたわい」

そう言って喜んで去っていったと言う。

物は取りようと言うことだろうか。

そう言えば、三年坂の途中に瓢箪を売っているお店が一軒あるが、この瓢箪は魔除けの瓢箪で、三年坂で転んでも、この瓢箪があれば大丈夫と言う話もあるそうだ、この辺りは商い上手と言う事なのかも知れない。

瓢箪は「ふくべ」とも呼ぶ縁起物でもあるが、この瓢箪屋は江戸時代の天保8年(1837年)には創業されていた老舗でもある。
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葛原親王
京都府乙訓郡大山崎町の円明寺ヶ丘団地、そこから阪急電車京都線の線路を跨いだ地域に葛原(かづらはら)と言う地区がある。

葛原親王と言う人物にちなんだ地域から付けられた地名であるが、その中の「葛原児童公園」の中に一つの石碑が建てられている。

その石碑には「葛原親王塚伝承地 この付近」の文字が刻まれている。

つまり、この付近が葛原親王塚と呼ばれた古塚があったとされる地域なのだそうだ。

「葛原親王」(かづらはらしんのう)は、平安京を創った「桓武天皇」(かんむてんのう)の第三皇子とも第五皇子とも言われる皇子であり、嵯峨天皇の異腹の兄弟でもあった。

治部卿から大蔵卿、式部卿や中務卿など、当時の要職を経て、一品と言う第一級の親王の地位にまで昇進したと言う。

桓武天皇は子供が多く皇子も多く居たが、その中でも葛原親王はエリートだったようだ。

しかし、権力をカサにきる事も無くなく、それどころか皇族嫌いだったそうである。

葛原親王は、幼い時から聡明で史伝を歴覧し、生活を律し驕ることなく、旧典にことごとく練達し、朝廷に重用され、輦車に乗って内裏に入ることを許可されていたと言われている。

そして、自分の二人の子達には「王」の称号を辞めさせて、代わりに「平朝臣」の姓を貰い受けて臣籍降下したのである。

いわゆる「桓武平氏」がこうして始まったわけであり、葛原親王が桓武平氏の祖と言う事になるわけである。

やがて、葛原親王の孫である「高望王」は名実ともに「平氏」を名乗ることになり、またその孫が「平将門」であり葛原親王からすれば平将門は玄孫と言う事になるのである。

そして、葛原親王は仁寿3年(853年)6月4日に、六十八歳で逝去したと言うが、葛原親王の遺命により、朝廷の監喪・葬儀を辞退したそうだ。

この葛原児童公園の付近は、団地が出来る以前は竹やぶの中に「丸山」と呼ばれる古塚があり、それが葛原親王の墓とも火葬地とも伝えられてきた。

そういう曖昧な伝説でしか語り継がれなかったのは、先に書いたように葛原親王が死後は手厚く葬る事を断り、また朝廷の監督や保護を辞退からしたためだそうである。

皇族であることを辞退した葛原親王らしい話であるが、それでも伝説を通じて、その足跡はこの地に残されているようだ。

さらに、この伝承地である付近からは石棺の一部と見られる板石も密かに掘り出された事もあったようで、長い間に農道用として、あるいは近くを流れる久保川の橋代わりに使われて居たりしたと言う。

葛原親王の石棺であったかどうかは不明ではあるが、形や大きさから所縁の地を裏付ける物として、その板石を利用して「葛原親王塚伝承地」の石碑が建てられたのだそうである。
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染殿院
京都の大繁華街である新京極通りだが、その南の始発点とも言うべき四条新京極の西側の角、今は甘栗等を商う「林万昌堂」の店の奥に入る感じの場所(新京極通りからも横道が通じている)に「染殿地蔵」と呼ばれる小さなお堂がある。

ここも小さなお堂だが古くから安産のお参りで知られたお堂である。

時は平安時代の初期の頃で文徳天皇の御世である。

「文徳天皇」の皇后である「藤原明子」(ふじわらあきらけいこ)は「藤原良房」の娘で、父の良房の屋敷の辺りに宮中で用いる衣装を染めた「染井」と言う井戸があったことから良房の邸宅は「染殿」と呼ばれたために、明子は「染殿后」と言われていたそうである。

その藤原明子こと染殿后は、文徳天皇の皇后になり、美しい女性であったために帝の寵愛を一身に受けていたが、後継ぎの皇子を授からないのが悩みであった。

もしも明子に皇子が出来れば父の良房だけでなく、藤原一門にとっても磐石の権力を得ることになるのだから大きな問題である。

そんな時に、四条にある地蔵菩薩が子宝にたいへんに御利益があると聞きつけた明子は、さっそく地蔵堂に参拝しては17日の願掛けをしたと言う。

やがて満願の日、明子には懐妊を意識できる兆しがあって、それからお腹が大きくなっていき、やがて玉のような男の子・皇子を生んだのである。

この時に生まれた皇子が、次の天皇である「清和天皇」になり、藤原一門も大きな力を持つことになるのである。

やがて、明子が染殿后と呼ばれていたことから、この地蔵菩薩も呼ばれるようになり、ますます子宝を求める人で賑わったそうである。

この地蔵堂は、もとは近くにあった釈迦院と言うお寺の物だったが、たびたびの兵火で焼かれて再建を重ねたが、明治維新前の大火事で焼失した再に仮堂を建てたのが、そのまま今に残ったそうである。

お地蔵様は空海の作とも言われており、裸形の立像だそうだが半世紀に一度しか開帳しない秘仏だと言われている。


さて、この後日談と言う訳でもないのだが、この染殿后には大変恐ろしいと言うか忌まわしい伝説が伝えられている。

いろいろな書物にも書かれているようだが、今回は「今昔物語・巻第二十・第七」の話等から簡単にまとめて語っていきたいと思う。

先に書いたように染殿后は文徳天皇の皇后となり、後に清和天皇となる皇子も生んだが、非常に美しい女性であった。

天安2年(858年)8月に文徳天皇が突然に発病し4日目には32歳の若さで突然に崩御されると、まだ9歳だった皇子が即位して清和天皇となるのである。

しかし、政治は祖父となる藤原良房が実権を握り、幼い天皇は母の染殿后と15歳の元服まで一緒に暮らしていたようだ。

そんな生活の中で染殿后が「物の気」に取り憑かれて悩まされ、さまざまな祈祷や僧侶による修法を行ったが効果は現れなかった。

そんな折に、大和は金剛山に優れた法力を持つ僧がおり、鉢を飛ばして食べ物を集めたり、瓶を飛ばして水を汲んでこさせるなど、不思議な力を持った聖人だと言う。

それで、辞退する僧を勅命で呼び出し、加持の祈祷を行わせて染殿后の物の気を祓わせたのである。

すると染殿后から物の気が抜け出して、側の侍女に憑依して泣いたり喚いたり走り回ったりと大騒ぎをしたあげくに、懐から狐が飛び出して動けなくなったので、后には狐が憑いていて聖人によって無事に祓われたと言う事で収まりを見たのである。

娘を心配していた藤原良房も喜んで、聖人にしばらく逗留して様子を見てくれるように頼んだのであった。

こうして、しばらく逗留することになった聖人であったが、ある夜、后が単衣だけを着て眠っているのを風が几帳を吹き返した隙間からちらりと見えてしまったのだあった。

その后の美しくも艶かしい姿に聖人も心を奪われてしまい、胸を焼くような愛欲の情に捕らわれて、我慢できずに御簾の中に入り込んで寝ている后に抱きついてしまったのである。

染殿后も驚いて抵抗したが女の力では敵わずに聖人の思いのままにされてしまう。

しかし、側にいた女官達も大騒ぎしたので人が集まり、后の治療のために宮中で待機していた侍医の「当麻鴨継」(たいまのかもつぐ)も駆けつけてようやく聖人を取り押さえ、染殿后の息子である清和天皇に次第を報告することになる。

母が乱暴されたのである、天皇は烈火のごとく怒り、聖人を獄に繋がせた。

ところが聖人は獄に繋がれると

「私はすぐにも死んで鬼に化身し、この世に后がおられるうちに、望むままに后を抱いてやる」

そう泣きながら誓ったのだった。

この話が良房の耳に入ると、なにしろ法力の強い聖人の事であるから恐ろしくなり、天皇の怒りをなだめて、聖人を釈放して山に帰す事にしたのである。

山に戻った聖人は后を我が物と出来るように仏に祈ったが、もちろん叶う訳もなく、それならば獄舎で誓ったように鬼になろうと断食をして飢え死にして鬼と化身してしまった。

その姿は、裸身で頭髪もなく、肌は漆を塗ったように黒く、目は恐ろしく飛び出して、口は耳まで大きく裂けて鋭い歯が並び、牙が上下に生えており、腰には赤いふんどしをして槌を差していると言う恐ろしい物であった。

そして鬼となった聖人は宮中へと現れると、その恐ろしい姿で后の側にやってきたのである。

多くの側近や女官は恐ろしさに逃げたり震えたりしたが、染殿后は鬼の魔力に正気を奪われたのか心を狂わされてしまい、鬼を愛しい人のように仲睦まじくしているのである。

やがて日が暮れると鬼は去っていき、后は何事も無かったようにしている。

この事を聞いた天皇は驚き嘆いたがどうすることもできず、鬼は毎日やってきては后と睦まじく過ごすのだった。

そうこうするうちに、鬼がある人に取り憑いて

「前にわしのじゃまをした当麻鴨継に必ず恨みをはらしてやる」

そう言ったという話が伝わった。

それを聞いた鴨継は恐怖に怯えて死んでしまい、一族の子孫も狂い死んでいったと言う。

天皇と良房は相談して尊い僧を集めて祈祷させた。

すると、効果があったのかようやく鬼が来ないようになり、后の様子も平穏に戻ったようだった。

ようやく安心した天皇は久しぶりに母に会おうと思い、お供を連れて染殿后のもとに向い、母に会うとこれまでの出来事に対する思いを涙ながらに語りかけ、后も感じ入っている様子だった。

しかし、その時に再び鬼が現れて御簾の中に入ってきては、天皇や良房ほか大勢の人の前で鬼と后が仲睦まじくしたあげくに、皆の前で人目もはばからずに同衾したのである。

その浅ましい姿に天皇もなすすべもなく嘆きながら帰って行ったそうである。

今昔物語では、ここでこのような法師を簡単に近づけないように諭して締めくくっているので、その後がどうなったのか不明である。

それにしても出てくる人物は実在の天皇や皇后であり、しかも皇后に関しておぞましくさえある物語がよく伝えられたものである。

物の気うんぬんの話は心の病のような物だったのかも知れないし、鬼の話も実際にあった話とは思いにくい。

清和天皇は学問を好み、鷹狩りなど好まなかったと言われ、なかなか良い人物だったのかも知れなくて元慶4年(880年)に31歳で崩御されたと言う。

染殿后は、その後も生きていて昌泰3年(900年)に73歳で亡くなったそうであるから当時としては長生きだったと言えるのではないだろうか。
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安倍晴明
「安倍晴明」と言えば「陰陽師」の代名詞のように知られていて、人気があり有名である。

実在の人物で平安時代に活躍したとされているが各地に数々の伝説や史跡が残されており、虚実あわせて多くの伝承が伝わっているようだ。

京都市上京区堀川今出川から堀川通りを下がった辺りに「晴明神社」と言う安倍晴明を祀った神社があり、晴明の邸宅跡と言われているが実際の晴明の邸宅はもう少し東に行った「京都ブライトンホテル」の付近だそうである。

「晴明神社」は、安倍晴明の死後に一条天皇が晴明の邸宅跡に晴明の御霊を祀って創建したのが始まりだそうだが西陣に近いこともあり応仁の乱後は戦乱の影響で室町末期に現在地に移されたようだ。

その後は社殿は荒廃し晴明に関わる宝物や古文書も喪失したと言われており、明治に至っても荒廃が続いたが昭和になってから社殿が造営整備されて現在に至るが、近年になってからの安倍晴明人気で盛況となり女性を中心とした多くの参拝者が訪れている。

また境内には霊水が涌くと言われる「晴明井」があり難病に御利益があるとされている。

さて、安倍晴明と言えば「陰陽師」(おんみょうし)として知られ、陰陽師=晴明との印象が深い。

「陰陽道」は、自然界・人間界のあらゆる現象や出来事を陰と陽の二つの気の動きや、木・火・土・金・水の5つの要素の五行の変化で説明した古代中国で成立した自然哲学である「陰陽五行説」に起源を持つもので、この陰陽五行説の論理を用いて未来や自然の吉凶を占うのが「陰陽師」と言えるだろう。

簡単に言うと、陰陽師は占いを行うのが本職で、怪異や病気などの原因を占い、それに対する祓えや呪術を行い、災いを避ける祭祀を行ったり天文を占う専門家と言えると思う。

実際に、平安期には災いを避けるための「方違え」(かたたがえ)で方位を占ったり、病気の原因とされる病魔や悪霊を退けたりすることが多かったようだ。

当時においては精霊や御霊や鬼あるいは神など姿が見えないものの存在も信じられており、それらが世の中の出来事に影響を与えると信じられていた。

長雨や旱魃などの自然災害、あるいは疫病の流行や戦乱なども祟りや怒りや呪いのような物だとされ、占いによりそれらの原因や前兆を判断し、それらの原因を祭りや祓いによって取り除いたり、物忌みを指導したりするのが陰陽師の仕事だと言えるだろう。

大宝元年(701年)には文武天皇のもとに「大宝律令」の制定の中で中務省の中に「陰陽寮」が設けられ、官庁として陰陽道を体系化し陰陽師を国家の官僚として組織された。

こうして陰陽師は官僚として国家的な占いや祓えを行うのが本来であったが、その後は朝廷や貴族の個人的な物にまで幅が広くなり、また在野の陰陽道を極める者も現れて、民間の依頼を受ける陰陽師も生まれていったようだ。

ちなみに安倍晴明は天文博士が正式な役職となる。

さて、安倍晴明であるが、実在の人物とされながら多くの虚実に包まれた伝説が残されており、その多くは後世の創作であろうが、そういう多くの物語によって現在でも人気を博している。

没年が寛弘2年(1005)に85歳で亡くなったとされているので、そこから逆算して延喜21年(911年)に誕生したと言われている。

安倍晴明の誕生について、有名なのが「葛葉伝説」(くずのはでんせつ)である。

大阪の阿倍野区阿倍野元町には安倍晴明の誕生伝承の伝わる「安倍晴明神社」があり、境内には「安倍晴明誕生地」の石碑や「産湯井」の史跡、それに晴明の父である「安倍保名」(あべのやすな)を祀る「泰名稲荷神社」などがある。

村上天皇の御世の事だそうだ。

阿倍野の里に「阿倍仲麻呂」の血を引く「安倍保名」と言う若者がいた。

安倍家には仲麻呂が残したという天文道に関する秘伝の巻物とかも伝わっていたと言うが、陰陽家としては傾いていたようだ。

しかし、安倍保名は自分で陰陽道を極めて家を盛り返そうと思っていた。

そういう願望を持つ保名は、泉州の信田の森にある明神様に月参りをかかさずにいたのだった。

ある日も保名が信田の森の明神様にお参りに行くと、犬の吠え声と人の叫び声が聞こえてきたかと思うと二匹の狐が逃げ去って行き、さらに一匹の白い子狐が走り寄って来た。

狐狩りに追われてきたのだろう、子狐はもう疲れ果てて動けないのか保名の足元にうずくまってしまった。

保名も子狐が狩られるのは可哀相に思い、隠して匿ってやった。

すると数匹の犬を連れた武士達が狐を追ってやってきた。

武士達は安倍保名に狐を出すように迫ったが、保名はここは明神の境内で殺生禁断の場所だとして狐を庇ってやったのだった。

武士達は、悪虐な行いで付近の領民から嫌われている「石川悪衛門」を筆頭とした連中で、狐を守ろうとする保名との間で争いとなってしまう。

しかし、なにぶんにも多勢に無勢で保名はやがて捕らえられてしまう。

保名が斬られようとした時に、どこからか1人の老僧があらわれて武士達に明神の境内で殺生を止めるように諭し、保名を助けるように話した。

この老僧が石川悪衛門の知り合いの僧だったので、武士達もしぶしぶ保名を開放し、あきらめて帰って行ったのだった。

安倍保名が老僧に礼を言おうとすると、老僧は狐に姿を変えて保名に先ほどの礼を陳べて走り去っていった。

「狐の身でありながら先ほどの恩を忘れずに助けに来てくれたのか」

そう思って保名は感謝の気持を感じるていた。

安倍保名は、先ほどの争いでいくつか傷を受けていたのと咽喉も渇いていたので、谷川で水でも飲んで一息つこうと思った。

すると、谷川では1人の若い娘が桶で水を汲もうとしていた。

保名が見とれるくらいの美しい娘である。

娘は水を汲もうとして屈んだ拍子に、身体のバランスを崩して川に落ちそうになってしまった。

保名は思わず飛び出すと娘の身体を抱きとめて川に落ちるのを助けたのだった。

娘は保名に礼を陳べると保名の身体が傷ついているのに気が付き、近くに家があるのでどうか傷を治療をしていってほしいと頼み込んだのである。

保名も娘に心惹かれるものがあったので、言葉に甘えて娘の家に連れられていると手当てを受け、心のこもったもてなしを受けたのだった。

娘は「葛葉姫」と言う娘で世を忍んで1人で暮らしていると言う。

美しいだけでなく親切で気立てのいい娘だったので保名も好意をいだき、いつしか二人は愛し合い夫婦の契りを交わして一緒に暮らすようになったと言う。

二人の間には1人の男の子が生まれ、「安倍童子」と呼ばれて親子仲良く暮らしていった。

いつしか月日は流れて7年の歳月が過ぎて、安倍童子は利発な少年に育っていた。

季節は秋となり、保名は畑仕事に出かけており、葛葉姫は家で機織をしていたが、庭に咲いた菊の花から佳い香りが漂い、その香りに葛葉姫も手を留めてうっとりとしていた。

「あれ、恐ろしや」

不意に息子の安倍童子の悲鳴が聞こえて葛葉姫が我に帰ると自分の姿が白狐に変わっていた。

葛葉姫は菊の香りに酔いしれて狐の姿を我が子の前にさらしてしまった事を恥じ、座敷の襖に「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる、信田の森のうらみ葛の葉」と歌を残して何処かに姿を隠してしまった。

やがて保名が家に戻ると息子が泣いており妻は姿を消している。

息子に事情を聞くと妻は狐に姿を変えたと言い、襖には歌が残されていた。

安倍保名は童子を連れて歌にあった信田の森に出かけて行った、そこは妻と出合った場所でもあった。

すると妻の葛葉姫が姿を現し、夫と息子に語り出した。

「私はこの森に棲む白狐でございました、今から7年も前の事でございます、狐の両親と供に狐狩りで追われた折に、あなたに匿ってもらった子狐が私でございました、命を助けていただいた御恩を返したいと人の身に姿を変えてお側に仕えておりました。あなたと契りを交わし子供までもうけて幸せに暮らしておりましたが、ふと気を許してしまい我が子に白狐の本性を見られてしまいました、このような姿をさらしてしまったからにはもうお側に仕えることはかないません、どうか童子の事はよろしくお願いいたします」

そう言うと童子に「知恵の珠」を授けた後に白狐の姿に戻ると森の中に消えていった。

この安倍保名と白狐との子供である安倍童子が後の「安倍晴明」と成長するのである。

他にも異なる伝承もあるようだが、これが安倍晴明の誕生にまつわる葛葉伝説の大筋である、もちろん安倍晴明の神秘性を高めるために後世に創られた伝承であり、晴明の父の名が保名と言うのも創作と言われ、実際の晴明の父は大善太夫「安倍益材」との説がある。

その後の安倍晴明は、陰陽家である「賀茂忠行」(かものただゆき)に師事し陰陽道を習得したと言われている(一説には忠行の子息の保憲に師事したとも言われている)。

安倍晴明について記録や伝承に残されているのは、ほとんどが天徳4年(960年)の40歳を過ぎてからの出来事で、その前の少年期や青年期と言った若い頃の出来事が語られていない。

若い頃の逸話として伝えられているのは、晴明が賀茂忠行に師事し陰陽道の修行を積んでいた頃の話しである。

ある夜、晴明が忠行の伴をして牛車の後を歩いていると、恐ろしい形相の鬼どもが遠くからやってくるのが見えた。

俗に「百鬼夜行」と言われる鬼が集団で夜中に往来する行為である。

晴明は急いで牛車の中の忠行に伝え、忠行も牛車から出て前方を見ると確かに鬼どもが近づいてくるではないか。

このままでは危険だ。

そう思った忠行は隠形の術を使って皆の姿を隠し百鬼夜行から逃れたのである。

まだ若い晴明が鬼どもを見る事ができたのは、晴明の陰陽道に関する資質の高さを示す物である。

忠行は晴明の才能に感心すると伴に天賦の資質を愛し、陰陽道の総ての秘術を晴明に伝えたと言われている。

ちなみに、忠行の息子である「賀茂保憲」(かものやすのり)も晴明に劣らぬくらいの才能の持ち主で、陰陽道の天才であったそうである。

安倍晴明についての記録は、この後は先に書いたように天徳4年(960年)の40歳の折に「天文得業生」の身分での内裏の火災で焼失した霊剣の図を上申したと記録になる。

40歳で天文得業生という学生のような身分であるから、現実には若い頃は時運に恵まれなかったのかも知れないが、晴明の活躍を綴る記録はこれ以降のものとなるのである。

さて安倍晴明の記録とは別に、逸話や伝承が多く後世に物語として創作された物も数多く残されている。

そんな中で晴明の代表的な術として知られているのが「式神」を使う術である。

式神(職神とも書く)と言うのは詳しくは不明であるが、紙などを材料として人や鳥・虫・小動物などを象り、それに呪文を唱えたり息を吹き付けたりして霊を篭めて実体化させた物と言え呪詛のために使ったり使役したりして使われていたようだ。

また、生き物の他に精霊や魔物のような物も式神として召使のように使役したりもされたようで、術者の力量によって使える物や服従度も違ったと考えられ、高度の術者ほど高位の式神を仕えさせられたと言う。

晴明の邸宅では人も居ないのに蔀(しとみ、上げ戸のようなもの)が上下したり、門の錠がかってにかかったりしたと言うので邸宅の中でも式神を使役していたと思われる。

この式神を晴明の妻が恐れて何とかしてほしいと晴明に不満を陳べたために、晴明は仕方なく近くの一条戻り橋の下に式神を待機させ、必要のある時に呼び出したとの話も伝わっている。

晴明が式神を使って蛙を殺した話がある。

嵯峨野の広沢池に近い僧正の寛朝の所に招かれた晴明は、その場にいた公達や僧達から「式神を使うとその場で人も殺せるのか」と質問を受けた。

晴明は

「人を殺すにはかなりの呪力が必要で簡単にはいきません、小さな虫などなら簡単に殺すこともできますが無益な殺生になりますのでいたしません」

そう説明した。

その時に庭にいた蛙が池の方に向かっているのを1人の僧が見つけ、その蛙を式神を使って殺すようにせがんだのだった。

他の人達も同調して晴明にせがむので、晴明も仕方なくなってやることになった。

晴明は草の葉を摘んで手にとると呪文を唱えて蛙に向かって投げつけた。

すると草の葉は蛙の上に張り付くと、蛙を押し潰して殺してしまったのである。

安倍晴明の式神の威力を目の前にして、晴明の呪力に、その場にいた者達は顔色を変えて恐れおののいたと言う。

そんな安倍晴明のライバル的な位置で語られるのが「蘆屋道満」(あしやどうまん)である。

蘆屋道満は道満法師とも呼ばれて法力を持った法師陰陽師であり、陰陽寮に所属する公的な陰陽師ではなく、民間の陰陽師で播磨国(兵庫)を拠点としていたとされている。

蘆屋道満は、晴明と術比べで負けた方が勝った方の弟子となると賭けを行って、晴明に敗れて弟子となったとのお話も創られている。

安倍晴明と蘆屋道満との話ではこういう伝説も残されている。

左大臣の藤原道長が、自ら建立した法成寺に行こうとして愛犬を連れて外出し、寺門の所まで来ると急に連れていた愛犬が前を塞ぐように激しく吠えまわった。

道長が入ろうとしても直衣を咥えて門内に入らせないようにする。

普段は大人しい愛犬がこれほど邪魔するのは何か意味があるに違いない。

道長は不審に思って、急遽、馴染みの陰陽師であった安倍晴明を呼びつけたのだった。

晴明が急いで駈けつけると道長はこれまでの様子を説明し、なぜ愛犬がそういう行為にでたのか尋ねてみた。

晴明は話を聞いてから占いを行い、こう言った。

「これな何者かがあなたを呪詛する目的で厭物(いみもの)を埋めておいたのです、おそらく、あなたがここを通るのを知っていたのでしょう。犬には不思議な力がありますので危険を察知してあなたに知らせようとしたのでしょう」

道長が、その厭物がどこに埋められているのか聞くと、晴明は再び占ってある場所を示した。

その場所を掘らしてみると、土器を二つ重ね合わせて黄色い紙縒りで十文字に縛り付けた物が見つかり、中には何も入ってないが、土器の底に朱砂を用いて呪文が書かれていた。

晴明はそれを調べているうちに険しい顔となり

「これは本格的な呪詛の秘術で知る者はほとんどございません。私以外でこれほどの秘術を行えるのは道満法師(蘆屋道満)くらいのものでしょう。これから居場所を突き止めてみましょう」

そう言うと懐から紙を取り出して鳥の形に折り、呪文を唱えて空に飛ばすと紙で折られた鳥は本物の白鷺となって南をさして飛び去っていった。

晴明は部下の者に白鷺を追って降りた場所を知らせるように命じた。

部下の者が追っていくと六条坊門、万里小路の民家の中に白鷺が飛び込んだので、急いで晴明に知らせたのだった。

そこは、やはり蘆屋道満の家であった。

道満を捕らえさせて呪詛の件を詰問すると、道満は観念して堀川左大臣・藤原顕光からの依頼であったことを白状した。

顕光と道長は縁戚関係にあるものの確執のあるライバル関係にあり、道長を怨んでいて顕光の邸宅が法成寺に近かったために道長が法成寺に来るのを知っていたのだと言う。

こうして道長を狙った呪詛は阻止され、蘆屋道満は本国である播磨に送られたそうだ。

この伝説は事実としては矛盾もあるので、創られた伝説だと思われるが、呪術の様子や式神の術もよく現している物語だと思う。

他にも晴明にまつわる伝説は数多いが、それらは、また機会があれば書きたいと思う。

やがて、安倍晴明は数々の活躍を行った上で、寛弘2年(1005年)に85歳で没したとされている。

また晴明は土御門家の祖になったとも言われている。

安倍晴明の人気は後年になり高まって、物語や伝説が創られたり語られたりしていったのだろう。

また安倍晴明塚と呼ばれる史跡は全国に多く伝えられているが、京都にも幾つか建てられていたそうだ。

まず、東山区大和大路松原の現在の宮川町歌舞練場の付近にあったようだ。

この辺りは当時の五条橋、現在の松原橋を渡った鴨川の付近なのだが、当時の京都にとって大雨などによる河川の氾濫は深刻な課題だった。

その鴨川の氾濫を鎮めるために安倍晴明は「法城寺」と言う寺を建てたそうだ。

「法は水が去る、城は土が成る」の意味を持ち「法城寺」の名がついたそうだが、晴明の死後はその遺体がこのお寺に葬られたと言う。

ところが、後にこのお寺が廃寺となり、お寺が無くなって晴明の墓だけが残されて晴明塚と言われていたそうだ。

また、貞享3年(1686)に刊行の「雍州府志」には晴明塚の由緒を、鴨川の氾濫を鎮めるために陰陽師の安倍晴明が五条橋の東北に寺を建立し、晴明が死ぬとその寺の境内に埋葬され、のち塔婆が立てられ、その後、この地に法城寺という名の寺を建立したと記してある。

法城寺は、何度も鴨川の氾濫に見舞われたために、慶長12年(1607)に三条橋の東に移転して「心光寺」と言う浄土宗のお寺に改めたそうで、この時に晴明塚も移転したそうだが現在は晴明塚は残っていないそうだ。

他にも、元禄2年(1689年)に刊行の「京羽二重織留」や正徳元年(1711年)に刊行の「山州名跡志」にも鴨川東側の宮川町付近に晴明塚があったがいつの間にか無くなったと言う内容の記述がある。

文久2年(1862年)に刊行の「花洛名勝図会」には、宮川町の晴明塚が「晴明社」と呼ばれてお堂を構えて「晴(清)円寺」とされ阿弥陀仏を安置したとあるのだが、寛文年間に宮川町に新道を造成する折に取り壊され、その跡地に「晴明大明神」の祠を建てられて晴明社として再生したようだが、この祠も明治の廃仏毀釈によって取り壊され、本尊として祀られていた阿弥陀像と安倍晴明像は河原町六角松ヶ枝町の「長仙院」に移されたと言う。

もう一つ、やはり鴨川の近くに安倍晴明塚があったと言われている。

これは、現在の御所の東側、蘆山寺の南側付近の北之辺町にかつては「遣迎院」と言う寺院があり、その裏側に安倍晴明塚があったとの伝説があるが、この付近には市井の陰陽師の居住地があったとの話もある。

なお、遺迎院は天正年間に上京区の寺町広小路に移った後に昭和29年に鷹ヶ峯に移転され、元の地には祀堂が残されたが明治の廃仏毀釈の煽りで取り壊されたそうで、大正3年に南遺迎院として復されたそうだ。

また、現在の東山区の東福寺駅の付近で、かつては鳥辺山・今熊野・泉涌寺の辺りから小川が合流して伏見街道に至って鴨川に注ぐ「今熊野川」(一之橋川)が流れており、その「一之橋」と言う橋(本町十丁目と本町十一丁目に架かっていたと思われる)の西南に安倍晴明の別荘があったとの伝承もあると言う。

さて、現存する安倍晴明の史跡としては京都の観光地として知られる嵯峨野の地に「安倍晴明の墓」と言われる史跡が残されている。

嵐山の桂川に架かる「渡月橋」の北詰を東側に歩くと瀬戸川と言う小さな川があり「芹川橋」と言う橋が掛かっている。

その瀬戸川に沿って北に歩いて行くと「長慶天皇・嵯峨東陵」があるが、その手前(南側)の道を東に進むと「安倍晴明の墓」がある。

墓所の入り口には「陰陽博士安倍晴明公嵯峨御墓所」と書かれて石碑が建てられている。

もともとは同じ嵯峨野にある「天竜寺」の塔頭である「寿寧院」の境内に置かれていたそうであるが、長く荒廃状態にあったために先に書いた「晴明神社」が墓所を買い取って昭和47年に新しく建て替えたそうである。

また、墓所の隣りには「角倉稲荷神社」が祀られており、ここでも安倍晴明と稲荷との関わりを感じてしまう。

安倍晴明の塚や墓所、それに住居と言われる伝説や伝承のある場所は川や橋に近いところが多いように思われる。

これは川の氾濫に対する治水を陰陽師が担う事が多かったからと供に、橋があちらとこちらを繋ぐ境界であり、異郷からの出入り口に当たる所から陰陽師などによる護りや監視が重要な意味を持っていたからではないだろうか。

また、各地に安倍晴明に所縁とされる史跡が多いのは、有名な陰陽師となった安倍晴明の名前を利用し、安倍晴明を祖と仰ぐ弟子を名乗る市井の陰陽師などが活躍していた事と関わりがあるのかもしれない。

今でも安倍晴明は陰陽師の代名詞的に人気が高くて有名で、小説や漫画などにも多く取り上げられ、映画なども作られている。

その影響か、かつては荒廃していたという安倍晴明の墓所にも多くの人が参拝しているようで、献花が絶えることはないようだ。

安倍晴明の伝説の締めくくりにもう一つの史跡がある。

安倍晴明の人気を示す石仏が西京区の洛西ニュータウンに近い洛西東緑地にある「竹林公園」に置かれている。

この竹林公園の一角に多くの石仏が置かれているのだが、これらの石仏は京都市内の地下鉄工事のための発掘調査で発見されたものだそうだ。

発掘調査されのは、織田信長が足利義昭のために建てた旧二条城(今の二条城より東、二条新第とも言う)の跡であった。

信長は二条新第の石垣に多くの石仏を使い、都の人々に恐れられたとも伝えられているが、実際に発掘されたその石垣にも多くの石仏が使われていた事になる。

その中の一つに、「清明 ☆」という銘文が彫られている石仏があり「晴明石仏」と呼ばれているそうだ。

石仏群の中でガラスで囲われた石仏(かつて彩色されていたと言う)の隣りに置かれた石仏がその石仏である。

石仏の左腕の外側の部分に、刻まれた文字は見えずらくなっているが「清」の文字はうっすらと、そして「☆」の形は割とはっきりお見る事ができる。

「清明」は「晴明」のあて字であり、☆のマークは、晴明のシンボルである五芒星である。

石仏はおそらく鎌倉時代後期の物で、文字が彫られたのは室町時代と推測されているようだ。

陰陽師の安倍晴明と石仏の組み合わせは不思議ではあるが、安倍晴明が信仰の対象になっていた事と伴に、石仏に望む祈りを晴明の名と印によって増幅し、より強い力にさせようとしたのかも知れない。

このように陰陽師・安倍晴明は多くの信仰と高い人気を持ち、それは現在でも変わらずに続いているのは、実在の人物である事と陰陽師としての神秘性と呪術の力による信仰によるのかも知れない。
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稲住神社
京都の梅小路にある稲住神社へ行ってきました。

地図にも載っていないような小さな神社で、細い道を通ってようやくたどりつきました。

小さな神社ですが祭神が安倍晴明になっています。

この付近は、昔には近くに池がある広場で、農家が稲を積んでいたために稲積みとなっていたのが、稲住と変化したのではないかと言われています。

さて、この神社がなぜ安倍晴明を祭神としてるかですが、この付近が安倍晴明の子孫を自認する土御門家の支配する地域であったらしく、土御門家の菩提寺の梅林寺も近くにあります。

どうも、陰陽道の安倍晴明ではなく天文学者の土御門家の始祖として安倍晴明が祀られているようです。

神社の本殿には安倍晴明の他にも、龍王や弁財天などいろいろな神が合祀されていました。

本殿よりも目立つのが境内にある小さなお社ですが、魔王尊が祀られています。

中を覗くと、木の切り株のような上に小さな祠が据えられています。

魔王尊は天狗か猿田彦とかを連想するのですが何でしょうね?

調べてみましたがどうもよく判らないみたいでした。

社務所もありませんし、興味深い神社ではありますがよく判らないという所ですね。
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安倍晴明神社
大阪の阿倍野区にある安倍晴明神社へ久しぶりに行ってきました。

京都の晴明神社が安倍晴明の邸宅付近(実際はブライトンホテル近く)で祀られているのに対して、大阪の安倍晴明神社は阿倍野と言う地名からも安倍晴明の生誕地として祀られています。

そもそも、安倍晴明の生誕地には幾つか説があるのですが、大阪説・讃岐説・茨城説等があります。

この中で最も有力と言われるのが、大阪説だそうです。

「葛乃葉伝説」によると、晴明の父は大阪市阿倍野区阿倍野の出身とされています。

千年以上も昔に、阿倍野に「安倍保名」(あべのやすな)という男が住んでいました。

あるとき、安倍保名が和泉の信田明神にお参りをして帰ろうとした時に、狩りで追われた白狐が逃げてきたので、保名はこれをかくまってあげました。

その後、白狐は「葛乃葉」と言う女性に身を変えて保名のところへ来ます。

保名と葛乃葉はやがて愛し合い、結婚して阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれると「安倍童子」(晴明の幼名)と名付けました。

その後に、葛乃葉は白狐の正体がばれてしまい、有名な子別れで「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌を残して去っていくのですね。

その後に、安倍童子は成長して安倍晴明と言う天才陰陽師へとなるわけですね。

これは、安倍晴明の凄さを伝説化するために、普通の人ではなく白狐と人との間に出来た子で不思議な力を持っていたとした伝説でしょうね。

晴明が阿倍野の出身というのは、安倍晴明神社の記録としても残っているそうです。

安倍晴明神社に伝わる「安倍晴明宮御社伝書」には、安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、亡くなって二年後の寛弘4年(1007年)に完成したのが、安倍晴明神社であると記載されているそうです。


その安倍晴明神社は、阿倍王子神社の近くに鎮座する阿倍王子神社の境外摂社と言う位置にあります。

祭神の安倍晴明はこの地で生まれたと伝えられて祀られているそうです。

先にも書いたように社伝の「晴明宮御社伝書」によると創建は1007年(寛弘4年)で、代々に晴明の子孫と称する保田家が社家として奉仕し、江戸時代には代々の大坂城代が参拝にくるほど有力な神社であったそうですが、幕末には衰微し、明治時代には小さな祠と石碑のみになってしまったと言います。

しかし、明治時代末期になると復興計画が持ち出されて、1921年(大正10年)には阿倍王子神社の末社として認可されました。

やがて、社家の子孫である保田家より旧社地の寄進を受け、1925年(大正14年)に現在の社殿が竣工したそうです。

また、境内には泰名稲荷神社と安倍晴明の父の保名の名を付けた稲荷神社も祀られています、安倍晴明と稲荷社はその葛乃葉伝説との関わりもあり関連付けられて祀られていることも多いですね。

現在の境内には安倍晴明の等身大の銅像が建ち、「産湯井の跡」(晴明の産湯に使われた井戸)、「葛之葉霊狐の飛来像」、「安倍晴明誕生地の石碑」等が設けられています。

戦時中には、境内に空襲の焼夷弾が落ちたそうですが爆発せずに済んだために、本殿は被災をまぬがれたそうです。

このために、地元では「晴明さんが守って下さった」と評判になり、以来災難除けの神様としても信仰を集めていると言います。

最近は安倍晴明人気もあり、遠方からも若い方が参拝に来られることも多いようです。
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伏見稲荷
京都の伏見区にある伏見稲荷大社は全国に4万もあると言う稲荷社の総本社と言われている。

最近は外国人旅行者にも人気で連日多くの観光客で混雑している。

京阪電車の伏見稲荷駅やJRの伏見駅から参道が続いており、お土産物屋さんのお店が並び、狐の顔の稲荷煎餅や鯖寿司などのお店が並ぶが、なかでも目を引くのが雀やウズラなどの鳥をそのまま焼いた焼き鳥で、鳥の姿のままなので少し恐く思う人もいるようだが、鳥たちは米などの稲の収穫を荒らすので害鳥と言う事になるのかも知れない、伏見稲荷の名物として知られているが骨が多いので少し食べ難い。

伏見稲荷大社は本殿があり、その後ろにある稲荷山に多くの稲荷社が祀られており千本鳥居とも言われる無数の鳥居で作られた参道で山を周ってお参りするようになっているのだが、朱色の鳥居がどこまでも続く様子は赤い迷宮のようで神秘的でもある。

この稲荷山は、もとは古墳だったと言われており、神の山「神南備山」(かんなびやま)として古代から信仰を集めていたそうで、山の一ノ峰や二ノ峰・三ノ峰などのお塚は1600年ほど前の古墳で鏡などの出土品もあったそうだ。

さて、この稲荷山だが古代には伊奈利山と書かれたようで、渡来人の秦氏の一族により祀られたのが稲荷社のはじまりだと言われている。

和銅4年(711年)と言うからまだ奈良の平城京に遷都して間もない頃だろう。

秦中家らが伊奈利山の三箇所の峰の平らな所に蘇を植えて、秦の一族が春秋に祀ったのが始めとされ、霊験があり臨時の御幣を奉ったとの記録がある。

稲荷と言う名前は「稲が成る」から来たと言う説が有名であるが、それについて次のような伝説が「山城国風土記」にある。

「秦公伊侶具」(はたのきみいろぐ)は稲を蓄えて富み栄えていた。

ある時に、餅を弓の的にして矢を射ると、その餅の的は白い鳩に姿を変えて飛んで行くと山の峰に留まり、そこに稲が成り生えてきた。

その稲の成った事から社を「稲荷」と名付けたそうである。

その後、その子孫の代になり餅を的にした過ちを悔いると、社の木を根のついたまま抜いて持ち帰り、家に植えて祀ったそうだ。

それから、社の木を植えて根付けば福を授かり、枯れてしまうと福を授かる事ができないそうだ。

この伏見稲荷大社は京都の東側の伏見にあるのだが、対する西側には同じ秦氏でも血統の違うと思われる一族によって松尾大社が創られており、それぞれが農耕や養蚕などの技術の発展に貢献していくのは興味深い。


お稲荷さんと言えば狐で有名なのだが、狐はあくまで神様の眷族で神使であり、基本的に祭神は五穀豊穣の神でもある「宇賀御魂大神」(うかのみたまのおおかみ)であり、他にも佐田彦大神(さるたひこのおおかみ)・大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)等が祀られている。

それでは、なぜ狐が稲荷さんに関わってくるかと言うと、祭神である宇賀御魂大神の別称は「御饌神」(みけつかみ)なので、その「みけつ」がいつか「三狐神」(みけつねかみ)、さらに「御狐神」(みけつかみ)に転じたと言う説が知られている。

また、稲荷神がのちに密教の「荼枳尼天」(だきにてん)と習合されて、荼枳尼天は白狐に騎乗すると言われているので、そのまたがる狐がそのまま稲荷神の眷属とされたのだという説も流布している。

また狐については、空海の弟子の真雅僧正の著といわれている「稲荷流記」に面白い伝説が記されている。

平安初期の弘仁年間(810~824年)のこと、平安京の北にある船岡山の麓に、年老いた白狐の夫婦が棲んでいた。

この白狐夫婦は、心根が善良で、いつか世のため人のために尽くしたいと願っていたのだが、そこは畜生の身であっては、なかなかその願いを果たすことはできなかった。

そこで、白狐夫婦はある日に思い立って、五匹の子狐をともなって、稲荷山に参拝すると、「今日より当社の御眷属となりて神威をかりて、この願いを果たさん」と、社前に祈願したと言う。

すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神が現れて

「そなたたちの願いを聞き許そう。されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」

そう告げたそうだ。

こうして、狐夫婦は稲荷山に移り棲んで稲荷神の期待にこたえるべく日夜精進につとめることになり、男狐はオススキ・女狐はアコマチという名を神から授けられたとのことだ。


また、こういう伝説も残されている。

天長4年(827年)に淳和天皇は身体の調子がよくならないので占いで原因を調べようとした。

すると、東寺の五重塔を建てる時にお稲荷さんの山の木を切ったために祟りがあることが判った。

神の怒りをしずめるために天皇はお稲荷さんに対して「従五位下」と言う位をたてまつり、病気の治癒を願ったそうだ。

その後もお稲荷さんはだんだん上進していき、天慶5年(942年)には「正一位」にまでなったそうである。

他にも、あの「清少納言」の「枕草子」にも伏見稲荷に詣でる様子が出てくるが、昔の伏見稲荷は山の上にお社が祀られていた。

2月午の日の早暁に出発して稲荷社に詣でて中ノ社辺りで苦しくなり、それでも何とか上の社までお参りしたいと念じて登って行くと、もはや巳の刻(午前10時頃)になり暑く感じるようになってきて、涙をこぼしたいほどにわびしく思いつつ休憩してると40歳くらいの普段着の女性が、

「私は今日は七度詣でをするつもりです。もう三回巡りましたからあと四回くらいはなんでもありませんよ」

と往き合った知人らしい人に告げてさっさと行くのを眺めてはまことにうらやましく思ったものである。

私も年に一度くらいは伏見稲荷に参ってお山を歩くがなかなかハードで軽いハイキングくらいになってしまう、当時の清少納言にはかなりきつく思われたのだろう。

先にも書いたように稲荷山には千本鳥居と言われるほどに多くの鳥居が立てられて、赤い迷路のように道が分かれたりしており、迷いそうになることもたびたびである。

この赤い鳥居であるが、祈願した人が願い事が「通る」あるいは「通った」事の御礼の意味から、鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降に広がった結果だそうで、現在は約1万基の鳥居がお山の参道全体に並んで立っているそうだ。

伏見稲荷大社は関西でも1~2を争うほど初詣の人で賑わい、参道は身動きも出来ないほどの混雑で多くの人の信仰を集めている。

しかし、初めに書いたように最近は多くの外国人観光客などでいろいろな問題も起きてきて、私も含めて昔から参拝してた人間は避けるようになってきており、聖地とも言える怖いほども雰囲気も消えつつあるように思えるのだが、信仰の場所から観光地になってきているのがいかがなものなのだろうか。
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待賢門院
白河法皇には祇園女御(ぎおんにょうご)という一番のお気に入りの愛人がいましたが、祇園女御は、ある女子を養子にしていました。

この子が後に待賢門院(たいけんもんいん)と呼ばれる、権大納言(ごんだいなごん)藤原公美(きんざね)の子、璋子でした。

その子は非常に美しく、白河法皇は文字どおり目に入れても痛くないほど可愛がっていましたが、やがて璋子が少女に育つうち、ついに白河法皇と璋子は男女の関係に発展してしまいます。

いくら性におおらかな平安時代でも親子間(たとえ養子でも)の恋愛は御法度でした。

後ろめたさを覚えた法皇は、璋子を自分の実孫の15才の鳥羽天皇と結婚させますが、この結婚は、あまり上手くいきませんでした。

しばらくすると璋子と法皇は、また逢瀬を重ねるようになり、やがて二人の間に、後の崇徳天皇(すとくてんのう)が生まれます。

この時より璋子は待賢門院と名乗るようになります。

崇徳天皇が生まれた頃から鳥羽天皇と璋子の仲も良くなりはじめ、鳥羽天皇の実子として後白河天皇も生まれます。

さて、その祇園女御と白河法皇といえば、この祇園女御には子供がいなかったので、藤原公実の末の娘を養女にしたのですね。

この女の子が璋子と言う非常に美しい娘で、なんと白河法皇に愛されるようになってしまう。

それだけならまだしも、白河法皇はこの璋子を孫の鳥羽天皇に与えるんですね、そして男の子が生まれるのですが、この男の子が白河法皇の子なのでは言われています・・・そう、それが崇徳天皇になるんですね。

璋子は待賢門院と言うことになります。

あと祇園女御といえば清盛の母だと言う話もあるようですが、こちらの真偽はいかがでしょう。
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毘沙門堂の灯籠
京都の山科にある毘沙門堂門跡と言えば、現・天台座主を出している由緒ある門跡寺院である。

その本堂の前の左右に聖堂の灯籠が建てられている。

灯籠の銘文には享保6年に以前の天台座主であった公寛法親王が奉納したとされている。

公寛法親王は、輪王寺宮として江戸の寛永寺と日光の輪王寺の門跡を兼務して、江戸にも下向していた人物だそうだ。

毘沙門堂門跡は、輪王寺宮が兼ねる事になっていたので、彼の奉納であっても不思議はない。

灯籠の上には、徳川の紋である三つ葉葵が付けられているので、徳川家との関わりも深いと推測される。

しかし、この灯籠をよく見ると文字が擦って消されたような跡が残されている。

その消された文字をよく見ると、「大猷院殿」と彫られていたように推測されている。

この大猷院と言う言葉、実は徳川三代将軍の徳川家光の戒名であり、大猷院殿とは家光の御廟に付けれた呼び名である。

徳川家光の御廟の物である灯籠が、なぜ山科の毘沙門堂にあったのか。

徳川家光の御廟は日光の輪王寺に霊廟として祀られている。

しかし、寛永寺にも家光の霊廟が作られていた事があったと言う。

その寛永寺の家光の大猷院殿は火災によって消失してしまったそうで、そこにあった灯籠なども各地の寺社に移されたのだそうだ。

そう言う経緯で、山科の毘沙門堂門跡にも寄贈されていたのではないだろうか?

なぜ、文字が消されようとしたのかは不明である。

一対の灯籠にもいろんな歴史が秘められているのかも知れない。
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池田屋惣兵衛
京都の浄円寺の墓地にある入江家のお墓の横に、小さな石柱があり「池田屋惣兵衛之墓」と刻まれています。

池田屋惣兵衛こと入江惣兵衛は、幕末に京都三条小橋西に池田屋と言う旅籠を商っていた主人です。

そう、新選組で有名な池田屋事件の、あの池田屋の主人だった人物です。

本名は入江惣兵衛ですが、池田屋惣兵衛として知られています。

長州の出身とも言われていますが定かではないようです。

当時の旅籠の池田屋は同業の豊後屋と共に長州藩士の定宿となっていたそうです。

元治元年(1864年)6月5日の夜に起こった池田屋事件では、新選組の近藤勇らが乗り込んで来たのを見て、急いで2階への階段を駆け上がり、御用改めが入ったことを告げたと言われ、ここから新選組と尊攘派志士らとの斬り合いが始まりました。

池田屋惣兵衛は、その後は斬り合いを避けると妻子の手を取り屋外へ脱出しました。

そして親類宅へ妻子を預けると自分も一旦は身を隠しました。

しかし、翌日の6月6日には役人の捜索によって町奉行所へ捕らえられてしまい、厳しい詰問を受けて入牢する事になりました。

また、やがて妻子も町奉行所へ呼び出されると夜半まで詰問を受ける事になり、その後は町役人へ預けられ半年間入獄する事になったそうです。

そう言う状況で、やがて厳しい拷問もあり、惣兵衛は入獄中に熱病を発病すると、7月13日には衰弱して獄死したそうです。

獄死の翌日には、獄舎より町役人および妻たちの家族が呼び出されて惣兵衛の遺骸を引き取りましたが、なにしろ罪人の扱いであるので表立って葬儀を上げることも出来ずに、家族の嘆願により浄円寺に密葬されたそうです。

何でも惣兵衛は捕らえられて拷問されても耐えて、一切口をわらなかったと言われています。

やがて、惣兵衛の密葬から7ヶ月を経た12月になり、ようやく妻子は罪を許され帰宅したそうです。

池田屋事件は新選組にとっても、幕末の歴史にとっても大きな出来事で、新選組や尊攘志士の事は関心が深いですが、事件の現場となった池田屋の人々には知られていない事も多いですね。

浄円寺の入江家の墓や池田屋惣兵衛の石碑には気付く人も少なく、静かに眠っておられるのでしょうね。
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蹴上
京都で「蹴上」(けあげ)と言えば、東山を越えて山科に向かう市街の東側の地で、大きな浄水場がある場所である。

この「蹴上」と言う地名には「義経」の伝説が関わっていると言う。

京都市の地下鉄東西線の「蹴上」駅から、さらに三条通りを山科方面に行くと「日向大神宮」への参道があるが、それを過ぎてさらに山科方面へ向かって九条山の辺りの民家の隣りに小さなお堂があり、一体のお地蔵様が祀られている。

「蹴上の石仏」と言われているお地蔵様で、「牛若丸(義経)」に関わりのあるお地蔵様でもある。

話は、まだ元服前の「牛若丸」が、金売り吉次と供に京都を出て、奥州へ向かおうとしている時の事である。

牛若丸と金売り吉次は洛中を離れて粟田口を過ぎ、九条山の坂に差し掛かったところであった。

坂の上のほうから慌ただしい物音がすると思うと、馬に跨った武士が9人で急ぐのかすごい勢いで坂を下ってくるのである。

その武士達が牛若丸と擦れ違う時に、馬が水たまりの水を蹴り上げて牛若丸にかけてしまった。

ムッとした牛若丸が

「無礼者め!何者だ!!」

と声を荒げると、相手は謝るところか逆に怒鳴り返した。

「われは平家の武士で関原与市重治なるぞ、少しの水がかかったくらいで何を騒ぐか!」

そう言って馬上から高圧的な態度である。

牛若丸も元服前で若気の時期である、相手が平家の武士であることもあって無礼な態度に激怒した。

止めようとする吉次を振り払うと、牛若丸は太刀を抜いて武士達に斬り込んで行った。

小さな頃から剣法の修行も行っていた牛若丸である、相手が平家の武士と言えども怒りに任せて9人とも切り倒してしまった。

さて、事が静まると、そこには関原与市重治ほか家臣であろうか9人の死体が転がっている。

牛若丸もようやく怒りが収まり冷静になって自分の所業を見ると、激情にまかせて斬り殺してしまった事が恐ろしくもあり、武士達が不憫にも思われた。

そこで、殺した9人の武士の数と同じ9体の石仏を造らせると街道に安置し、武士達の菩提を弔うようにしたと言われている。

このお地蔵様は、後年に掘り出された物だそうで、その時の9体の石仏のうちの1体だそうである。

先に書いたように「蹴上」の地名も、この伝説の水を蹴り上げた事から名付けられたと言われている。

なお、牛若丸が平家の武士を切ったのは粟田口の「九体町」の辺りではないかと言う説もあるようだ。

また、残りの8体の石仏のち、途中にあった「日向大神宮」への参道を少し登った所にある「蹴上げインクライン疎水公園」の一角に祀られているのがそうだとも言われており、「義経大日如来」と名付けられて安置されている。

他の石仏の行方は不明だそうである。

さらに、さらに山科方面に進んだ所にある「京都薬科大学」のグラウンド内には、牛若丸が平家の武士を切った太刀を洗ったと言う「牛若丸血洗池」があるそうだが、今は小さな池が少し残るだけだと言う。

そして、同じグラウンドには、牛若丸が腰をかけて京都を偲んだと言われる「義経の腰掛石」もあるそうである。

今でも、雨後などに歩いて車に泥水を跳ねられると、かなり腹が立つものであり、私も酷く泥水を跳ねられてズブ濡れになったことがある。

史実は不明だが、これから奥州に向かうので血気に逸っていた牛若丸も、まだ少年と言える時期で激情にかられてしまったのだろうか。
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妙顕寺の特別公開
京都の妙顕寺の春の特別公開へ行ってきました。

お寺の桜も今が最盛期ですね。

特別拝観では、宝物庫で狩野元信作の文殊菩薩と普賢菩薩の水墨画が450年ぶりの公開されてました。

思ったよりも大きな水墨画でした。

お寺の中ではいろいろな龍や猫などの絵が飾られていました。

猫好きの私には面白かったです。

お庭には、カラフルな傘が置かれてて艶やかで良いですね。

いろいろと趣向も凝らされてて、楽しめた特別拝観でした。
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護王神社
京都御所の西側にある蛤御門から烏丸通りを隔てて、少し下がった所に「護王神社」(ごおうじんじゃ)と言う神社がある。

この護王神社の祭神は「和気清麻呂」(わけのきよまろ)と、その姉の「和気広虫」(わけのひろむし)であるが、この神社の神使は「猪」として有名である。

和気清麻呂を祀る神社が、神使いを猪にしているのには、ある伝説が関わっている。

「孝謙天皇」(こうけんてんのう)は女性の天皇であった。

「聖武天皇」と「光明皇后」との間に生まれた第一皇女で天平10年(738年)に女性として初めての皇太子になった、この頃が20歳くらいだと思われる。

その後、天平勝宝元年(749年)に健康を害していた父の聖武天皇の譲位を受けて天皇に即位し「孝謙天皇」となる。

しかし、実質的には母の光明皇太后と、その寵臣の「恵美押勝」(えみのおしかつ)が実権を握っていたと思われる。

聖武上皇が崩御すると、上皇の意思で皇太子にされていた「道祖王」(ふなどおう)を廃して、恵美押勝と親しい「大炊王」(おおいおう)を皇太子として立て、その後の天平宝字2年(758年)に退位して大炊王を「淳仁天皇」(じゅんにんてんおう)として即位させた、上皇となった孝謙上皇は40歳くらいではなかろうか。

そして、母であった光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇と淳仁天皇は近江の保良宮に御幸するのだが、この時に孝謙上皇が身体が悪いのを看病させるために呼んだのが東大寺にいた僧の「弓削道鏡」(ゆげのどうきょう)であった。

道鏡については詳しい事は不明であるが弓削の名前から弓削氏の一族かも知れない、ちなみに弓削は、その名のように弓を削ったり作ったりする氏族ではないかと推測される。

やがて、孝謙上皇が僧の道鏡を寵愛するようになり、淳仁天皇と孝謙上皇の関係が悪化し不和になっていく。

上皇と天皇は平城京に戻ると居を別にし、孝謙上皇が実権を握るようになると淳仁天皇と連携していた恵美押勝は力を失うようになり、やがて追い詰められたのか兵乱(恵美押勝の乱)を起こしたが孝謙上皇はこれを破り、道鏡を大臣禅師に任じると淳仁天皇を配して淡路に流すと、自らが再び天皇に就き「称徳天皇」(しょうとくてんのう)となる。

天皇の寵愛を受けている道鏡は信任され、やがて法王の地位にまで登る事になる。

そして神護景雲3年(769年)となった時の事である。

道鏡は思い上がり、やがて法王でも満足せずに自分が天皇の位につきたいと思い、太宰府の「阿曽麻呂」(あそまろ)に手をまわすと、宇佐八幡から「道鏡を皇位につかせたなら天下は太平になる」との御神託があったと奏上させるのである。

驚いた称徳天皇は、「和気広虫」(清麻呂の姉)に御神託が本当か確かめに行かせようとしたが、彼女は弟の「和気清麻呂」を代理として宇佐八幡宮へ勅使として向かわせる事となった。

しかし、それを知った道鏡は清麻呂を呼ぶと、自分に有利な報告をすれば、大臣にしてやろうと誘惑したと言う。

和気清麻呂は宇佐八幡宮に着くと、身を清めて御神前に進み祈願すると、神主から次のような御神託を受けるのだった。

「我が国は始まって以来、君主と臣下との区別がはっきりしている。臣下の者を君主とすることは未だかつて無いことである。天皇の後継者には必ず皇族の者を立てなさい。無道の者は早く追放してしまいなさい」

清麻呂は都へ帰ると、この事をと称徳天皇に報告するのだが道鏡の野望を阻むことになる。

これを聞いた法王の道鏡は激怒すると、清麻呂と広虫姫を死罪にしようと思ったが、称徳天皇になだめられて思い止まり、二人とも死罪にはせずに清麻呂を大隅国へ、広虫を備後へ流罪にすることにした。

この時に、道鏡は清麻呂の官位を奪い、名前も「別部穢麻呂」と改称させた上に手足の筋を切らせて歩けなくさせたそうだ。

清麻呂は、大隅国(今の鹿児島県)へ流されるのだが手足の筋を切られて歩けないので苦労も多かったと思う。

一方、道鏡はやはり清麻呂への怒りがおさまらずに密かに配下の者に清麻呂の暗殺を命じたのだった。

清麻呂は、大隈国に流される途中に、もう一度、宇佐八幡宮にお参りしたいと思い、宇佐郡しもとだ村に立ち寄っていた。

ここから宇佐八幡宮までは一里の距離である、清麻呂は歩けないので戸板のようなものを担がせて、その上に乗って宇佐八幡宮に向かっていった。

しばらくするとザワザワする物音とともに何かがこちらに近づく気配がする。

さては道鏡の手の者かと身構えると、なんと向かってきたのは300頭もの猪の大群であった。

猪達は、清麻呂の周囲を護るように取り囲むと、そのまま護衛するかのように宇佐八幡宮まで清麻呂を送って行ったのである。

こうして清麻呂は無事に宇佐八幡宮にお参りする事ができ、その霊験からか傷めた足も治って歩けるようになったと言う。

ちなみに、道鏡の放った刺客達は雷雨に悩まされて手を出せなかったそうだ。

こうして道鏡の野望は潰える事になるのだが、清麻呂は配所の大隅国で不自由な生活をしながらも治水事業に功績を残したと言われている。

それから一年が過ぎ、称徳天皇は53歳で崩御されると、道鏡も失脚することになる。

新しく即位された「光仁天皇」によって清麻呂と広虫は許されて都へ呼び戻されるのだった。

その後の清麻呂は豊前守や摂津太夫を歴任するなど活躍をしていき、桓武天皇の御世には長岡京から今の京都の地に遷都するように進言したとも言われ、造宮太夫として平安京の造営にも力を注いだそうである。

このような伝説から清麻呂を祀る神社の神使が猪となるのだが、この神社の境内には狛犬の代わりに猪の像が据えられており、境内にも猪に因んだ物が多く飾られている。

護王神社は元は高尾神護寺に清麻呂を祀って建立したのが始めであり、明治になって現在の地に移されたそうである。

また明治32年(1899年)の亥年に発行された10円札はこの神社の猪がデザインされていたそうで「イノシシ」の通称があったそうである。

そして、護王神社は先に述べた伝説から足の病気や怪我に御利益があるとされており、境内にある「座立猪」の像の近くの地面に「座立猪串」と言う串を奉納する慣わしがあるとされている。
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心の疲れた君へ
「天気のいい日に」

まいにちのイヤなコトに、ちょっとずつ染まってく・・・

だから今日はまとめて、どんどん洗濯!!

天気のいい日に空にほして、空気いっぱいとりこめば・・・

明日は・・・元気なキミに会えるよね・・・




「きもちの糸」

きもちの糸、からまってしまったら・・・

ひとつずつ、ゆっくりとほどいていこう・・

切れたトコロはむすんで、なおせばいいんだよ

まっすぐになったら、ホントのきもち聞こえてくるはず・・

だいじょうぶ、ちゃんと伝わる・・・




「キミらしく」

いつもニコニコがんばってるキミ

でも・・・ココロから笑ってる?

ちからをぬいて顔体操はじめ!!

ヘンな顔いっぱいつくっちゃえ!

ヘンな顔もニコニコ顔も、みんなみんなキミの顔

ちからいれなくていいんだよ

キミらしい顔でいこうよ



「ココロのとげ」

ココロにとげが生まれたら

いたいし、つらいし、にげたくなるけど

でもね・・・

なんとなく、とげをひとつずつ、つなげてみたよ

5つ、つなげたら、とげは星になってココロをてらしてくれた

たくさんの星をつくって、ココロをてらそう

明日のために・・・



「雨がふったら」

しとしと・・・

雨にさそわれて外にでかけよう

やさしい雨にであったら、ココロいっぱいひたして

イヤなコト・・・ぜんぶ流しちゃえ

雨がやんだら、ステキなコト

きっと・・・はじまる



「大きくな~れ」

キミの想いをタネにして、たのしみをつくりました

やがて芽がでて、つよく・・・たかく・・・

どこまでも、のびてゆくんだよ・・・

そして・・・

空のてっぺんで、たくさんの花がさくよ

つよくて、やさしいキミの花

だから・・・

はやく大きくな~れ


\(⌒0⌒)/
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因幡堂
京都市下京区の松原通りを烏丸通りを東に過ぎて、一つ目の通りを北に上がると因幡薬師と言われる「平等寺」があるが、「因幡堂」の呼び名で親しまれているお寺である。

このお寺が京都にありながら因幡薬師や因幡堂と言われるには一つの謂れが伝えられている。

長徳3年(997年)のこと、敏達天皇の子孫でもある「橘行平」(たちばなのゆきひら)は因幡国(今の鳥取県辺り)の国司の任に就いていたが、任期も終えて京都に戻る帰路につこうとしていた。

しかし夢の中でお告げがあり、因幡加留津(いなばかるつ)の海から一体の薬師如来像を引き上げる事になり、その薬師如来を仮堂を建てて安置すると

「自分は都に戻りますが、かならず都にお堂を建て、お迎えにまいります」

そう薬師如来像に約束して、行平は京都に帰って行った。

都に戻った行平は、薬師如来像の事を忘れていたわけではないが忙しさに紛れてそのままになっていた。

それから数年後、因幡のお堂に祀られていた薬師如来像は、なんと行平の後を追ったのか因幡から京の都まで飛んでやってきたのである。

驚いたのは行平である、これは自がいつまでたってもお迎えにあがらないので薬師如来様が自分から飛んで来られたのだと思うと申し訳なく思い、自分の邸宅の一部を改築してお堂として、この薬師如来像をお祀りしたそうである。

こうして因幡からやってきた薬師如来は因幡薬師として人々の信仰をあつめるようになり、高倉天皇の御世には天皇により「平等寺」の名前をつけられたそうである。

この薬師如来像は藤原時代の一木造りの木像で、日本三如来のひとつに数えられているそうで、普段は非公開だが特別な日には公開されているようである。

ところで、薬師如来に去られた因幡の人達は困惑したそうである、なにしろ後光と台座を残して薬師如来が飛んでいってしまったのだ。

しかたないので、残されたお堂を「座光寺」としたそうである。

この因幡堂の額は、幕末や維新で有名な「三条実美」の書であるそうで、幕末といえば新撰組にまつわる伝説も残されている。

幕末当時、因幡堂の境内には見世物小屋や建っていて人気をはくしており、特に「虎」が檻に入れてあるのが評判であった。

しかし、人々は檻の中の虎を見て、これは人が虎の皮をかぶって化けているのではないかと噂していたと言う。

そんな中、ある日に「新撰組」の局長であった「芹沢鴨」が酒に酔ってやってきた。

芹沢は、虎の噂を聞いていたので、本物かどうか確かめてやると刀を抜いて檻に近づいていった。

すると虎が大声で吠えたので芹沢は腰を抜かすほどに驚いたと言うことだ。

また、先に書いたように、このお寺は「高倉天皇」との縁もあるせいか、以前に書いた「小督の局」の遺品とされる琴や硯箱なども収められているようだ。

ところで、因幡堂と言うと、狂言の「因幡堂」の舞台になった所でもある。

その因幡堂とはどういう狂言かと言うと・・・

大酒飲みの妻を持っている男は、この妻と別れたいと思い、妻が里帰りをしているのを幸と妻に離縁状を送り付ける。

そして新しい妻をもらおうと妻乞いのために因幡堂にお参りする。

一方、妻の方は夫からの離縁状に腹を立て、因幡堂に向かうと薬師如来に化けて、お篭もりしている夫に「西門の一の階に立っている女を妻にせよ」と嘘の御告げを伝える。

そうして妻は被衣をかぶって顔を隠すと、夫に告げた場所に立って待ち構えていた。

夫の方は、新しい妻をもらえると喜んで西門に向かうと、そこに立っている女を、自分の妻だとは気づかずに連れて帰ってしまう。

そして祝言の盃になるのだが、女は被衣で顔を隠したままで、何杯もお酒を飲んでいる。

やれやれ今度の妻も大酒飲みなのかと失望するが、顔が見えないのが気になり、むりやりに被衣を剥ぎ取ると、そこには元の妻がいるのだった。

驚く夫に、妻は離縁状や妻乞いを咎めると、夫は言い訳しながら逃げていくのだった。

こういう狂言から、当時の風俗や夫婦のありようなど窺えて「わわしい女」と言われる強い女性もいた事が知れるのが面白い。

この因幡堂は狂言にもあるように縁結びや小授け、安産や病気の平癒にご利益があるとして今でも多くの人の信心を集めているようだ。
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七野神社
京都市の上京区、上御霊前通りを堀川通りから西に行った社横町に「櫟谷七野神社」(いちいだにななのじんじゃ)と言う神社がある。

このあたりは今は住宅に囲まれた地域であるが、かつては紫野と呼ばれた地域であり平安京の洛外となるが内裏からも地理的に近くて、平安前期には天皇の遊猟地となっていた場所だと言う。

この紫野の地には 賀茂斎王の御所「斎院」が置かれいたそうで、神社の境内には「賀茂斎院跡」の石碑が建てられている。

それは「卜定」(ぼくじょう・占いのようなもの)によって斎王に選ばれた未婚の皇女または王女が、宮城内にある初斎院での3年間の潔斎の後に、本院であるこの紫野の斎院に移られて 斎王としての日々を過ごす場所であったそうだ。

そして、賀茂両社に仕える斎王が住んでおられた「紫野斎院」(むらさきのいつきのみや)跡にあたるのが、櫟谷七野神社を含むこの付近だったようである。

斎王は、嵯峨天皇の皇女であった有智子(うちこ)内親王を初代として、それ以後は累代の未婚の皇女や王女が卜定により選ばれ、約400年続いた後鳥羽天皇の皇女の第35代礼子内親王を持って廃絶するまで続けられたと言う。

また斎院には斎王の他にも官人や女官が500人近くも仕えていたようである。

さて、そういう場所にある櫟谷七野神社であるが、この神社が出来た経緯は、文徳天皇の皇后で染殿后とも呼ばれた「藤原明子」(ふじわらあきらけいこ)は、清和天皇の母后にあたるのであるが、その明子が懐胎を祈願していた奈良の春日大明神であった。

嘉祥3年(850年)に、念願が叶って後に「清和天皇」となる皇子が誕生になり、清和天皇の勅願で 860年代に左京の内野檪谷に春日大神を奉祀したのがこの櫟谷七野神社の始まりだと言われている。

その経緯からか地元の人達の間では「櫟谷七野神社」よりも「春日神社」の名で親しまれているのだと言う。

また、そういう関係から、毎年行われる葵祭では、祭りに先立ち、斎王代はこの櫟谷七野神社にも参拝するようだ。

そういった櫟谷七野神社であるが、その本殿の前には一枚の紙が張られていて「本殿の前に砂や塩などを積むと本殿が傷むので禁止する」と言う意味の事が書かれている。

実は、この七野神社には密かに伝えられている行為があるのだ。

それは、本殿の前に白砂を手で積むと、「浮気封じ」の御利益が得られ、失われた愛の復活の願いがかなうと言われているのである。

その伝説の起こりは、「宇多天皇」の皇后で後に七条后とも呼ばれた「藤原温子」(ふじわらおんし)が、帝のご寵愛が薄れたことに悩んで櫟谷七野神社に参拝して祈られた。

すると、「社殿の前の白い砂を三笠山の形に積んで祈りなさい」という夢告を受けたと言う。

そこで、御神託の通りに本殿の前に砂で奈良の三笠山を築いて祈ったところ、天皇の愛が戻ったという故事が櫟谷七野神社には残っるのだそうだ。

この謂れから、社前に白砂を積むと「浮気封じ」の願いが届き、失われた愛の復活が叶うと言われているようだ。

私が訪れた時には砂山は築かれてなかったが、張り紙がしてあるほどだから現在でもそういう風習が続いていると言うことだろう。

愛する人の浮気を封じたり、愛を留めたいと言うのは時代に変わらず深刻な思いなのだと思う。

この白砂の山は人に見られずに積むのが御利益があるとも言われているが、人知れず白砂を社殿に積む姿は鬼気せまるものがあるのかも知れない。

それだけ、この願いが真剣で一途なものであるのだろう。
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弁慶石
京都の大繁華街である新京極だが、その新京極三条から三条通りを西に少し歩くと、あるビルの一角に大きな石が置かれている。

「弁慶石」と言われる石で、あの弁慶が五条橋(松原橋)から投げたとも、比叡山から投げたとも言われている石である。

いくら弁慶が力持ちでも、ここまで投げる事は不可能だと思うが、この弁慶石についても伝説が残されている。

この石は、むかし弁慶が幼少の頃に今の三条京極の辺りに住んでいたとされ、その地にこの石も置かれていて弁慶も気に入って可愛がっていたそうである。

時が過ぎ、弁慶はやがて義経を護って奥州に逃れ、平泉の高館で弁慶は、持仏堂に籠もる義経を守るため全身矢だらけになりながら、仁王立ちになり義経と共に最後を向かえることになる。

その豪傑・弁慶を慰めるためにか、この石は京極から奥州へ移されてしまったそうだ。

しかし、この石は奥州に移されたのが気に入らないのか、ある日から「三条京極に往かん」と大声で怒鳴るようになったと言う。

それと関連してか高館地方に熱病が蔓延するようになったので人々は、これは弁慶の祟りではないか、この石を生まれ故郷の京都に帰そうと言うことになったそうだ。

こうして室町時代の享徳3年(1454年)になってこの石を三条京極に移して、それからこの町内を「弁慶石町」と名付けられたそうである。

今でも、この辺りは弁慶石町と言う名であるが、その後に明治26年(1893年)にこの弁慶石は、弁慶石町の有志によって町内の物として引き取られて現在の位置に据えられたそうだ。

以来、この弁慶石は町内の守り神として祀られて、男の子が触ると力持ちになるとか、火事や病魔を防いでくれると言い伝えられていると聞く。

しかし、昭和9年(1934年)になって某銀行が当時の弁慶石の土地を持っていた呉服屋から石を買い取り、弁慶石を移動させて据え、比叡山から僧を呼んで祈祷させたと言う。

ところが、僧が祈祷を終えて帰ってしまうと突然の嵐となり、大雨が降り強風で瓦が飛んだり、家が潰れたりしたそうで、これが室戸台風だったとも言われている。

その後は、弁慶石は土地の持ち主は変わっても変わらずに据えられているようだが、ある行者が訪ねてきて祈祷して息を吹きかけると、弁慶石は「ピューピュー」と弁慶を恋い慕って泣いたとの話もある。

今の弁慶石は建物の敷地の三条通りに面したしゃれた場所に据えられているが目立たないのか、気がつかずに通り過ぎる人も多いそうである。
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