2018年06月の記事


お猿がんばる
今日は菅原道真の誕生日なので、吉祥院天満宮と菅原院天満宮と北野天満宮へお詣りして来ました。

北野天満宮では、天神さんの縁日が開かれて多くの人が訪れていました。

神域で、猿廻しが行われていました。

暑い中を、お猿さんがいろいろ芸をやらされてるのは面白い反面で、何となく可哀想に思えてしまいます。

けんめいに頑張るお猿さんがけなげでした。
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夏越し祓え
6月になり蒸し暑い日が続いているが、毎年6月晦日が近づくと各神社には茅萱(ちがや)の大きな輪が作られる。

これは夏越しの祓えと呼ばれ、1月から6月までの半年に積もった穢れや災いを祓い、暑い夏に向けて心身を清らかにして乗り切ろうと言う知恵なのだ。

この祀りは、奈良時代皇室が百官を集めて行ったのが始まりといわれ、これから後、夏を無事に過ごす願いをこめる祭りとして人々に親しまれてきたと言われている。

日本最古の宗教儀式の一つでもあるこの行事は、紙の人形(ひとがた)に自分の名前や年齢を書き自身の身代わりとして神殿に納めたり、川に流したりして災いや穢れを祓う物で、また、茅萱(ちがや)で大きな「茅の輪」を作って安置し、これをくぐると厄除・悪疫退散になると伝えられもので、京都では多くの神社でこの神事が行われている。

茅の輪をくぐり、紙の人型で身をぬぐって川に流す清めの儀式で、京都では上賀茂神社、貴船神社、北野天満宮、市比売神社などが有名だ。

この茅の輪をくぐる時にも少し作法があって神社や地域によって少し違いもあるが、「水無月の夏越の祓えする人は、千歳の命延ぶといふなり」と言う和歌を唱えながら、まず茅の輪を左側にくぐり、次に前に戻って右にくぐり、最後にもう一度左にと言う具合に8の字を書くように茅の輪をくぐっていくのが基本のようだ。

そして、この時のお決まりの和菓子が「水無月」と言うことになる。

水無月は白の外郎生地に小豆をのせた三角形の和菓子だが、それぞれに意味がこめられていると聞く。

水無月の白い三角形は氷室の氷を表しており、平安時代には宮中では貯蔵してある氷を取り寄せて臣下にも配る氷室の節句という行事が行われ、6月朔日に氷室の氷を口にすると流行病にならないと言われていたそうだ。

また小豆は悪魔払いの意味を表しており、魔除けの力があるという。

そういう意味で、もともとは京都で食べられてたそうだが、今では関西の和菓子屋さんでも有名なお菓子になり、頻繁に売られるようになったが、関東とかでは、まだ馴染みで無い所もあ多い。

私も京都生まれなので、子供の頃から6月になると親が水無月を買ってきて食べれるので楽しみの一つだった。

また、最近では本来の意味を離れて抹茶や黒砂糖で色のついた水無月も売られるようになり、冷やして食べると美味しいので、この時期になると楽しみにしていろいろと買っては食べている。

最近は京都以外でも関西の和菓子屋さんでも売られるようにようになったが、まだ知らない方も多いようだ。
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沙羅双樹の寺
今日は久しぶりに、妙心寺塔頭の東林院での娑羅の花を愛でる会に行ってきました。

東林院さんは、お庭に娑羅の花(夏椿)が咲くお寺で、昔は娑羅双樹の木があったので、娑羅双樹のお寺と通称されています。

普段は非公開のお寺ですが、沙羅の花が咲く時期には沙羅の花を愛でる会として特別公開がされ、抹茶と和菓子をいただいて、沙羅の花が咲くお庭を楽しむ事が出来ます。

以前は毎年訪れていましたが、最近は行けてなくて久しぶり行ってきました。

拝観前の受付が始まる前に、先に並んでられた方とお話したら、高槻に住んでられて、ほんとは先週に近くまで来たけれど、地震で家にお子さんもいるので慌てて戻られたと話してられました。

お子さんは無事だったそうですが、お宅も被害を受けて、判定で赤紙を貼られるレベルだったとか。

それでも、ようやく落ち着いたので、改めて来られたと言われてました。

やはり関西ではあちこちに被害が広がっていたりしますね。

今年は沙羅の花の開花が早かったそうで、お庭に散ってる花も少なく感じました。

久しぶりに、抹茶とお菓子をいただいて、お庭の沙羅の花を愛でて、気持ちのリフレッシュになりました。
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心のケア
昨日は、少し家の片付けを頑張って生活に支障がない程度には片付いています。

もっと大きな被害に遭われた方々は雨の被害は大丈夫でしたでしょうか?

電車で移動していると、屋根にビニールシートで被われてるお宅もたくさん見受けます。

屋根や壁に被害を受けたお宅も多いみたいですね。

建屋の被害もそうですが、被害に遭うと精神的な負担も大きいので体調を崩されたりしますよね。

不安や精神的なストレスから身体にも影響が出てきてしまいます、私でも当日は吐き気がしたり胃が痛くなったりして、少し体調を崩してました。

大きな被害で余震で心身に不調が出たり、ストレスや不安による体調不良や熱は出たり胃が痛くなったり、いろいろと出てきてしまいますね。

お年寄りやお子さんの心身の不調もありますし、これから心のケアも進みますよう祈っております。
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被害が広がりませんように
今日は大雨の予想ですから、大人しく地震で荒れた部屋の片付けをしたいと思います。

地震で被害に遭われた方には大雨は追い討ちになるかも知れないですね。

無理せず安全第一でぼちぼち頑張っていきましょう。

とにかく余震が治まりますように。
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大阪地震
昨日の地震で、私の住居付近が割りと被害も出てたようで、気にして下さってる方もおられ、ありがとうございます。

私は地震発生時は京都に居まして、私自身は無事でしたし、家の中がいろんな物が崩れたり落下したりありましたが、それほど差し迫るような被害は無かったのでご安心下さいませ。


さて、昨日の地震の話ですが、私は早朝から京都に出掛けていて、東山の安井金比羅宮へと歩いていて地震に遭いました。

普通の神社なら鳥居から入るのですが、安井金比羅宮は前から横の道を歩いて入るので、横の道を歩いている時に大きな揺れに遭いました。

あまりに突然の揺れで、初めは地震だと思わずに爆発かと思ったくらいでした。

そのまま神社に入って行くと後ろから女性が走って来られ、神社の方に石の鳥居の一部が壊れて落ちてるとの話でした。

見に行くと鳥居の端が割れて落下してました。

もしも、私が鳥居から入ってたら落下のタイミングだったかも知れないので驚きました。

それで、懇意にさせていただいてるお寺が心配になり、急いで駆け付けると、お寺は小さなお堂の扉が外れたくらいで大きな被害もなく、ご住職も無事だったので安心しました。

京都の実家や身内にも特に被害がないという確認をして、スマホのニュースで住居付近が震源地に近く被害が出てるみたいで気になりましたが、交通機関が止まっているのでどうしようもなく、始めの予定通り安井金比羅宮へと戻り、用事を済ませてから、歩いて七条の豊国廟や豊国神社や養源院などで時間を潰してそろそろ運行再開かと京阪七条駅に行きましたが、運行停止で再開の目処も立たないと言う事でした。

タクシーでとも考えて、タクシーを止めて聞いて見ましたが、大阪方面が混雑が凄くて会社から大阪方面は行くなと指示が出てると言われました。

駅に戻っても再開の見込みはなく、女子学生を中心に待ってる方も多かったです。

歩いてとも考えましたが、京都から寝屋川まではさすがに遠いので、いろいろ考えたものの、結局駅で待つしかないと思いました。

1時過ぎくらいから安全確認で回送電車が走り出したので、再開に向けて進んでる感じでした。

2時前くらいになり、電車が再開しますと言う事でホームで待っていて、2時半くらいにようやく電車が来て乗る事が出来ました。

電車は、平日の昼間だからもあり、普通の混雑くらいでしたが、電車の車両点検のために淀駅までしか行かないと言うアナウンスが流れて来ました。

ようやく運転再開で帰れると思ったら淀駅までかと困りました。

淀駅で乗客は降ろされて次の電車を待つことになりましたが、かなり人が多く、何とか次の電車に乗れましたが、なかなかの混雑でした。

何とか寝屋川駅まで帰れたらと思ったら、今度は道路の停滞でバスが来ません。

30分くらい待って、ようやくバスが来て帰りつきました。

家の中に入ると、部屋に積んでた本やDVDやいろんな物が崩れたり落下したりして散乱していました。

普段から山積みしてた酬いですから自業自得ですね。

でも、地震時に部屋に居たら、これらの下敷きになってましたから、京都に出掛けていて助かったのかも知れないですね。

そこから、何とか部屋を片付けて行き、トイレにも行けないないなかで、ようやく深夜になり何とか片付いて、シャワーでも浴びて寝ようとしたら、地震でガスが自動停止してました。

復旧方法をスマホで調べて復旧させ、シャワーを浴びてとりあえず寝ることが出来ました。

考えたら、個人的には阪神大震災の時より部屋の被害は大きいでした。

そう言う理由で、いろいろとありましたが、何とか無事にいています。


他にはもっと大きな被害に遭われた方や犠牲になられた方もおられるので、哀悼の意と供に、1日も速い復興をお祈りしております。
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送り付け商法
最近、中国などから一方的に荷物を送り付けて代金を請求するのがあり、先日にうちにも来ました。

不在配達があり、再配達を依頼してから伝票を見たら送り主が中国で海外からなので覚えがなく、特に中国からなのでヤバイと思い、配達の時に受取り拒否にしました(受け取り拒否を一筆書くだけで済みます)。

配達時に、まず送り主を確認し海外からなど覚えがないと受取り拒否にするのが無難です。

受け取ってしまっても開封前なら対応もあるので、まず開封前には必ず確認しましょう。
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呪い
京都には幾つかの「御霊」(ごりょう)を祀る御霊社があるが、なかでも知られているのが「上御霊神社」と「下御霊神社」である。

御所を挟むように北側の相国寺の北に位置するのが「上御霊神社」で、御所の東南の方向に寺町通りを少し下がった所にあるのが「下御霊神社」である。

今回は、上御霊神社に追祀された御霊について書きたいと思う。

上御霊神社は、もともとは、出雲氏の氏寺として平安遷都以前からその地にあったとされる出雲寺の鎮守とされていたと言う。

上御霊神社と言うのは通称で本当は「御霊神社」と言うことになっている。

その御霊社と言う意味だが、基本的に政争等によって犠牲となり、無念の思いを残して亡くなった怨霊を鎮めるために御霊として祀った社だと言えるだろう。

学問の神様として知られる各地の天満宮も、本来は雷神となった菅原道真を祀って鎮めるためのものであったと言う。

日本の神様の場合はこういうケースが多く、荒ぶる神や恐ろしい神、あるいは怨霊などを鎮護し、神として祀っている所も多いそうだ。

上御霊神社、つまり御霊神社では「八所御霊」と言われる八つの御霊をお祀りしているそうである。

この八所御霊については諸説あるようで、上御霊神社と下御霊神社でも少し異なるのだが、上御霊神社ではまず平安京を創った「桓武天皇」を祀り、その後に八所御霊として「早良新王」(さらわしんのう)「他戸親王」(おさべしんのう)「井上内親王」(いのうえないしんのう)「藤原広嗣」(ふじわらひろつぐ)「橘逸勢」(たちばなのはやなり)「文室宮田麻呂」(ふんやのみやたまろ)「菅原道真」(すがわらのみちざね)「吉備真備」(きびのまきび)を祀っているようだ。

ちなみに下御霊神社では、他戸親王と井上内親王に代わって謀反の疑いをかけられて幽閉された後に服毒自殺した「伊予親王」と母の「藤原吉子」が祀られている。

さて、上御霊神社では先に書いた八所御霊と併せて13柱の御霊が祀られているのであるが、明治14年(1881年)に明治天皇の意向で新たに5柱の御霊が増祀されたのである。

その5柱とは、「小倉実起」と息子の「小倉公連」と「小倉熙季(竹淵季件)」、娘の「小倉中納言典待局(小倉局)」、さらに和光明神として「菅原和子」の五人である。。

どうして明治と言う近代になって、それも明治天皇自らが増祀する事になったのだろう、そこにはどういう理由があったのだろうか?

はじめに、小倉実起と子息達、そして娘の小倉局に関する「小倉事件」と呼ばれる出来事である。


これは「霊元天皇」の時世(1664年~1686年)の話である。

「霊元天皇」には正妃である女御で鷹司房子がいたが男子には恵まれなかったが、「小倉実起」の娘である「小倉中納言典待局」(以後は小倉局)との間には第一皇子となる一宮が生まれていた。

それで、父で院政を敷いていた「後水尾法皇」や江戸幕府との間に、このまま鷹司房子との間に皇子が生まれない場合は小倉中納言典待局が生んだ一宮が皇位を継承するという話ができており、また摂関家や有力公家の間に了承も取り付けてあったのである。

しかし、松木宗子との間に第4皇子である五宮(後の東山天皇)が生まれると、霊元天皇は一宮よりも五宮に後を継がせたいと考えるようになったのである。

さらに、一宮の母でもある小倉局が皇子を出産後に体調を崩して実家に戻ったままになっているのも霊元天皇にとっては不満であったようだ。

霊元天皇は、何とか事を進めようと幕府に了承を得るための使者を江戸に送ったが、時の将軍である四代将軍の「徳川家綱」は後水尾法皇やその正妃東福門院(家綱の叔母)の意に沿わないとして反対を表明した。

しかし、その年に東福門院が死去し、3年後には後水尾法皇と将軍の徳川家綱が相次いで病死すると、霊元天皇は再び動き出した。

霊元天皇は、一宮を出家させ大覚寺にいた法皇の弟の「性真法親王」に弟子入りをさせようとしたのである。

そして新将軍となった五代将軍の「徳川綱吉」に、一宮の出家と五宮への皇位継承の承諾を求める勅使を出したのだった。

法親王は、当初は反対したものの強引に押し切られ、将軍である徳川綱吉も、就任早々で朝廷との関係悪化するのを避けようとこれを承諾する。

こうして、本来は皇位を継ぐはずであった一宮は大覚寺入りが決定してしまうが、外祖父に当たる小倉実起は、これに反発して一宮を自宅にかくまった。

霊元天皇は、決定にしたがうように促すが、小倉家側は従わない。

それで勅使として阿野季信を使わせて一宮を参内させて出家させるように勅命を伝えるが拒絶され、再び訪れた勅使の阿野季信は一ノ宮をだまして連れ出そうとするが、これも気づかれて失敗してしまう。

これに激怒した霊元天皇は失敗した勅使の阿野季信を閉門処分にすると、宮中警護の武士を小倉邸に派遣して小倉邸を制圧し、一宮を飛鳥井雅豊邸に幽閉した上、幕府に対し小倉実起への処分を要請したのだった。

将軍の徳川綱吉は、小倉家の勅命違反の事実を重視し、「小倉実起」と長男の「小倉公連」、次男の「竹淵季件」(養子に出ていた)を佐渡へと流刑を命じ、藪家や中園家といった小倉家の同族に対しても逼塞(ひっそく)を命じたのである。


ところが、この事態に後水尾法皇の側近であった左大臣「近衛基熙」と権大納言「中院通茂」が天皇に激しく抗議した。

特に以前に武家伝奏として皇位継承問題に関与していた中院は、霊元天皇の御前にも関わらず「後水尾法皇と前将軍家綱が死去してから1年余りでその意向をひっくり返した天皇と将軍綱吉」を公然と批判したのである。

更に性真法親王もこの事態に驚き、もともと反対だった事もあり、一旦は承諾した「一宮」の弟子入りの断ってきた。

こうして事は頓挫したように見えたが、年が明けて天和2年(1682年)になると霊元天皇は再び行動を起こしたのである。

2月14日になると、空席になっていた関白の後任に自分に批判的だった左大臣「近衛基熙」ではなく、それより下位である右大臣の「一条冬経」を任命してしまう。

続いて、3月25日には「五宮」の次期皇位継承者である儲君(ちょくん)としての治定と「鷹司房子」の中宮への擁立が発表された。

そして、8月16日に、とうとう「一宮」を大覚寺の代わりに「勧修寺」に入れて出家させたのだった。

12月2日には、五宮の親王宣下が行われて「朝仁親王」の名が与えられ、翌年の天和3年(1683年)2月9日には中世以来断絶していた立太子式が行われて朝仁親王が正式に皇太子に立てられた、後の「東山天皇」である。

こうして、霊元天皇の意思は反対を押し切り、また排除していく強引さで推し進められてしまったのであった。

一方、佐渡に流されていた「小倉実起」と「小倉公連」の父子が翌年の貞享元年(1684年)相次いで病死してしまう。

これにはさすがの霊元天皇も憐れみを感じたのか、同じように佐渡に流されて残された小倉実起の次男の「竹淵季件」を赦免して「小倉熙季」と改名させて小倉家を再興する事を許したと言う。

しかし、貞享4年(1687年)には以前の霊元天皇に対する暴言と皇太子への悪意の疑いで「中院通茂」が追放されてしまう(後年になり許されて霊元上皇と東山天皇の推挙で幕府から加増を受けている)。

こうして霊元天皇に反対するものがいなくなり、朝仁親王への譲位を行い「東山天皇」が誕生すると自らは上皇となり院政開始を宣言する。

そういう時代の流れの中で、一宮の産みの母であり小倉実起の娘でもある小倉局こと「小倉中納言典待局」は怨みを持ちながらも寂しく病死していたそうだ。

その小倉局が亡くなる前に呪詛の言葉を残したと言う。

「帝(霊元天皇)の御系統には、御世継ぎ御一方を残して、後は皆をとり殺してしまう。七代祟ってやる」

本来なら我が子の一宮が次期天皇になるはずだったのが、霊元天皇の思惑により、我が子は出家させられ、父親や兄は流刑にされたうえに病死し、自らも病に果てるのである、よほどの怨みや憤りを持ってしまったのだろう。

ここで、小倉局の怨念からいったん離れて、もう一人の女性について話を進めたいと思う。

小倉事件から120年ほど過ぎた文化年間の「光格天皇」の御世になり、始めに書いた増祀された残りの一人である「菅原和子」にまつわる事件が起きる。

時は光格天皇の世であり、時の将軍は11代将軍の徳川家斉の時代である。

菅原和子は、東坊城家の娘で光格天皇に仕えていた。

文化7年(1810年)に光格天皇との間に皇子を生み、磐宮(後の桂宮)と名づけられた。

その後に、再び懐妊すると翌年の産み月が近づいた4月に事件が起きる。

菅原和子は身重の身でありながら、宮中の縁側で転んでしまうのである。

普通に考えれば事故であろうが、何者かが菅原和子の慶事を妬んで縁側に蝋を塗って滑りやすくしたと言われているようだ。

菅原和子は、転倒のショックで女子を出産したものの、早産や転倒が影響したのか母子ともに亡くなってしまうのである。

さらに、残された忘れ形見の「桂宮」も二歳であったが、和子の死の翌月に親王宣下を受けて「盛仁」の名を授けられたものの、その翌日に原因不明の急死をしてしまったのだ。

菅原和子と女の子、それに息子の桂宮の死が突然であっただけに、そこに何かの恨みや謀略が語られるのも仕方ないのかも知れない。

また、菅原和子も幸福の絶頂にいながら、突然の不幸と死に突き落とされたのである、そこに怨念が残されるのも在るのかもしれない。

菅原和子の死後、和子が転倒した縁側では赤ん坊を抱いた和子の亡霊が目撃されるようになったと言う。

菅原和子の怨念は12年後に宮中を震撼させるのであった。

和子の死から12年が過ぎた「仁孝天皇」の時代となっていた。

その年に仁孝天皇の正妃である、前関白・鷹司家の娘である「鷹司繁子」が懐妊した。

しかし、4月になると難産のために母子ともに亡くなってしまう。

これが菅原和子が亡くなった12年後の同じ未年の4月であった事から因縁が囁かれた。

一説によると繁子母子の死因は難産ではなく、菅原和子と同じ縁側で転倒したためとも語られていると言う。

また、繁子が以前に生んだ「安仁親王」も、和子が生んだ「盛仁親王」と同じ2歳で早世しているのも因縁話に拍車をかけたのである。

菅原和子の亡霊の噂が出て鷹司繁子も亡くなり、繁子の霊の目撃談も出たそうで、その場所に霊社を建てて二人の霊を鎮めたと言う。

菅原和子母子は、ともに千本中立売の浄福寺に葬られたと言い、宮内庁管轄の陵墓となっているそうである。


さて、ここで小倉局の話に戻るのだが、小倉局と菅原和子は時代も隔てが有り、直接の関わりは見当たらない。

しかし、小倉局が残した「世継ぎ一人を残してとり殺す。七代まで祟る」と言う言葉で繋げると不思議な因縁が見えるそうだ。

小倉局は七代祟ると言ったそうであるが、「霊元天皇」を継いだ「東山天皇」から天皇の歴代で数えると七代目が「光格天皇」、菅原和子が仕えた天皇であり、父子相承の関係で考えると七代目が明治天皇になるのだと言う。

ちなみに光格天皇は、東山天皇の皇孫である「閑院宮典仁親王」の第六皇子で、東山天皇の曾孫と言う事になる。

そして、光格天皇は先代の「後桃園天皇」が跡継ぎを残さずに崩御したために、傍系の閑院宮家から即位した天皇となる。

つまり東山天皇からの本流は後桃園天皇で途絶えるのだが、傍系の宮家に継ぐ事で、皇統は守られて小倉局の祟りは終わったかに見えたが、そこで光格天皇に起きたのが菅原和子の事件で新たな祟りの系譜が繋がれたとも言え、祟りが更新されたとも言えるかも知れない。

さらに、光格天皇の後を継いだ「仁孝天皇」の皇子女は、15人中の12人が3歳までに早世している。

そこから、一人だけ育った皇子が後の「孝明天皇」であり、さらに孝明天皇の皇子女からただ一人育った皇子が「明治天皇」と言う事になる。

考えると皇統の危機がかろうじて繋がっていたと言えるかも知れない。

そして「明治天皇」である。

明治天皇も、皇子女の15人の中で10人が早世し、男子で成人したのが「大正天皇」だけだったのである。

さらに、明治天皇の祖父である「仁孝天皇」の第三皇女である「桂宮淑子内親王」も薨去されて「桂宮家」も断絶することになるが、桂宮家と言えば先に書いたように菅原和子の亡くなった息子の宮家でも有り関わりがあったとも言われている。

この後に、明治天皇は「上御霊神社」に小倉一族と菅原和子を増祀する事になる。

理由は述べられていないが、これまでの経過から考えて小倉局や菅原和子に対する皇統の危機を気にしていたのではないかと想像できる。

事が皇室の出来事だけに、公にされていない出来事や事件もあったのかと思われるが、小倉局や菅原和子の祟りや呪いが気になったからこそ、それを鎮める必要を感じて祀られるようになったのではないだろうか。

一説によると、菅原和子と鷹司繁子を宮中に祀った霊社は、明治天皇が東京に行ってからは祀られなくなり廃れたそうで、京都在住の旧公家達が霊社の祟りだと言い始めて祀るように進言し、その霊社の祀りを上御霊神社に移したのが菅原和子を祀る和光明神だそうである。

もしも、祟り話がまったくの作り話であるなら、なぜ急に小倉一族や菅原和子が祀られる様になったのか理由が不明なのも事実である。
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八坂神社例祭
昨日は、智積院での青葉まつりの後に祇園祭関連の調べる事があって、八坂神社へ寄ってきました。

八坂神社の本殿前の舞殿の周囲に人が集まっていたので何かと見てみると、何かの神事が行われていました。

調べてみると例祭が行われていました。

雅楽が演奏される中で、舞殿では神職の方々による舞うような神事が行われていて興味深く見ることが出来ました。

昔から舞や芸能などは鎮めの意味があると言いますが、こういう神事を見るとなるほどと実感しますね。

着てられる装束も平安時代を思わせて良いですね。

思わぬ神事を見れて良かったです。
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青葉まつり
6月16日は弘法大師の生誕日とされています。

生誕日を記念して、真言宗のお寺では、青葉まつりとして法要が行われたりします。

京都の智積院の青葉まつりへ行ってきました、雨降りで大変でした。

智積院の青葉まつりでは、限定の御朱印をいただけたり、お堂をお参りしながら集印してまわるのとかもされてました。

お堂の前に僧侶の方が勢ぞろいされたのは圧巻でしたよ。

いろいろと企画もあったようですが、雨で中止になったのも多かったみたいです。

雨に濡れた枯山水のお庭も風情があって良かったです。
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病院でのこと
昨日は、かかりつけの眼科の定期診断へ行ったのですが、女子高生の患者さんが待ち合い室からカップの飲み物を飲んでいました。

そのまま検査にもカップを持って飲みながら行き、検査後に診察室へも飲み物をもったまま入って行きました。

私としてはありえないと感じて唖然としたのですが、今の方はなんとも思わないのでしょうかね?

いろんな意味で問題あると思うのですが。
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明智藪
京都の伏見区にある醍醐の地、そこを通る地下鉄東西線の「石田」駅から北西に歩いて新小石橋を渡り、小栗栖北団地の北西にある「本経寺」の東側(伏見区小栗栖小阪町)に、ひっそりと「明智藪」の石碑が立てられている。

この辺りは、昔は栗栖郷と呼ばれていて草地に馬が群れていたそうで、山の中腹には藪が広がっていたのだろうか、今は土砂崩れ防止の工事の為に藪は刈り取られ、本経寺の管理地として僅かな藪の痕跡と石碑が立つだけである。

明智藪は明智光秀の終焉の地と言われている場所である。

天正10年(1582年)、秀吉の中国攻めへの応援を申し付けられ、戦地に向かうはずだった明智光秀は丹波から引き返して本能寺に駐留していた信長を討った、俗に言う本能寺の変である。

そうして光秀が天下を握ったかに思われたが、中国遠征から急遽引き返した秀吉と天王山で戦ったが敗れてしまう。

三日天下と言われるように、つかの間の夢で敗軍の将となった光秀は数人の近臣に守られ、居城のある滋賀の坂本へ落ちて再起を図ろうとしていた。

満身創痍の光秀一行は、淀川右岸を通り、伏見大亀谷を径て小栗栖の深い竹薮を通っていた。

光秀の心中はどうだっただろうか。

本能寺で信長を討ったものの信じていた人に背かれ、秀吉に敗れて多くの家臣を亡くし僅かな手勢で落ち延びていく。

無事に坂本に帰りつけた所で敗軍の将となった身では討手を差し向けられるだろう。

様々な思いが光秀の胸をよぎっていたのかも知れない・・・・

光秀の心のように、折からの冷たい雨が降り続き、風が藪を揺らしている。

ガサッと竹薮が大きく揺れたその刹那、光秀の全身に焼けるような痛みが走りぬけた。

付近の百姓である長兵部衛の竹槍が、光秀を貫いたのだ。

周りは、落ち武者狩りの農民に囲まれていた、光秀一行は目撃され待ち伏せされていたのだろう。

手負いの光秀らは疲れも大きく、多勢に無勢の中で敵うべくもなく討たれて行った。

やがて光秀の遺骸は京都の秀吉の下に運ばれて検分され、首と胴は粟田口にさらされたと言う。
 
光秀は享年55歳だったと言われている。

その後、あの竹藪を通ると、軍勢のおたけびが聞こえると言う噂が農民の間に伝わって行った。

さらに殺された光秀の怨みなのか、竹を切る農民がケガをしたり、震えが止まらなかったりと怪異が続いたようだ。

そうした事が続き、竹薮は光秀の祟りとして怖れられ、人々も避けて通るようになったと言う。

こうして、この竹薮は明智藪として恐れられたが、明治維新まではこの竹薮から緑にまじって赤い枝をつけた竹が無数にはえたそうだ。

また、以前はこの竹薮の一面に、ちょっとした空地があり近在の人たちは、「ワタ出」と呼んだと言う。

それは、光秀が竹槍で突かれた時に、最後の力を振りしぼって竹槍を抜いた弾みに、光秀の腹部から鮮血と内臓が飛び散ったそうで、そうした光秀の怨念が周辺の竹を腐らせたとされていたようだ。

そう言った明智藪についての伝説であるが、光秀の死については諸説があり不明な部分も多いと言う。

身代わり説や改名説や逃亡説などもあり、生き延びて「天海僧正」になったと言う説は有名である。

また死亡説でもいろいろな話が伝えられており、 光秀の墓と言われる物や塚と言われるものも各地に残されているようだ。

以前に「明智光秀の首塚」について紹介したように、光秀の首が晒されたと言われている粟田口に近い三条から白川沿いに下った梅宮町に首が供養されて祀られており、首塚大明神として信仰されている。

さらに、明智藪から小栗栖街道沿いに北に上がった山科区勧修寺御所内町には光秀の胴を供養したと言われる「明智光秀の塚」の石碑が立てられている。

これは小栗栖で刺された光秀の胴体が埋められた所とされているようだ。

光秀は、その出生や出自も諸説があり、その最後にも伝説の多い人物である。

光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのかも謎に包まれているが、私は割と好きな武将の一人でもある。
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ぬりこべ地蔵
京都の伏見区にある伏見稲荷大社と言えばお稲荷さんの総本山として知られているが、その伏見稲荷大社から石峯寺へと向かう南東方面に200メートルほど行くと、墓地のなかに「ぬりこべ地蔵」と書かれた小さなお堂がある。

小さな地蔵堂であるが、堂前には「ぬりこべ地蔵」と書かれた石標が建てられており、お堂の前には庇が造られておりたくさんの提灯が吊るされている。

「ぬりこべ地蔵」と言う不思議な名前であるが、この名前の由来は土壁で「塗りこんだ」お堂に安置されていたことから「ぬりこべ地蔵」と呼ばれていたからだと言われている。

そして、「ぬりこべ」が病気を「塗りこべる」から「封じ込める」の意味に取られて、病気を封じ込める御利益があると言われるようになったようである。

特に「歯痛」や歯の病気に御利益が篤いお地蔵様として、多くの信仰を集めていると言う。

この「ぬりこべ地蔵」の特色として、直にお参りしなくても葉書や手紙に祈願を書いて送るだけでも御利益があるとされ、国内各地から多くの子供達や歯の病で苦しむ人からの便りが奉納されているようだ。

嘘か本当か、宛先に「京都市伏見区 ぬりこべ地蔵様」と書くだけでも配達されると聞く。

また、お堂の前には紙で包んだ塗り箸が結び付けられており、歯痛平癒の祈願に訪れた人は、その塗り箸をいただいて帰ってその箸で食事をし、歯痛が治るとその箸を川に流して今後は塗り箸を使わないようにする。

そして、お礼に紙に包んだ塗り箸を新たに奉納する慣わしになっているそうだ。

ぬりこめ地蔵と言うことで、塗り箸に歯痛を「塗りこめる・封じ込める」と意味から生まれた風習だと思われる。

お地蔵様は、高さは1メートルほどで、右手に錫杖を持ち、左手には宝玉を置いた姿で、お顔は鼻が少し欠けているが親しみの持てる穏やかな表情である。

このぬりこべ地蔵は、元は違う場所にあったようだ。

明治3年(1870年)の深草村絵図には違った場所に記されていると言う。

現在の京都府警察学校の辺りの「そとわの墓地」にあったようで、絵図には「ヌリコヘ 墓」とあり、その後に移転されたと思われる。

実は、この移転には深草の地にやってきた旧陸軍第十六師団が関係しているそうで、明治末期から一帯には軍関係の施設が立ち並ぶようになった。

そして、警察学校がある場所に兵器庫を造るため、お地蔵様は墓地と供に「立ち退き」を迫られたのだった。

その際、地蔵を現在の場所に運んだ村人の一人が、故人となられた木村藤太郎さんだそうでお地蔵様を自ら背負って運ばれたと言う。

そういう縁もあって、木村家の人たちが現在もお地蔵様の世話を続けているのだそうだ。

京都にも歯痛に御利益のあるお地蔵様や神社なども多くあり、昔からそれだけ多くの人が歯の病気に苦しめられてきた証だと思う。

毎年6月4日には、法要が行われているようだ。
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永観堂
京都の左京区、有名な南禅寺の北側に紅葉の名所として知られる「永観堂」(えいかんどう)と呼ばれるお寺がある。

本来は、「禅林寺」と言う浄土宗のお寺であるが、通称である永観堂として知られている。

もともとは、真言密教のお寺であったそうで、弘法大師の高弟であった「真紹僧都」(しんじょうそうず)が、貞観5年(863年)に清和天皇から寺院建立の許可をもらって、「禅林寺」の名を賜ったのが始まりだそうだ。

その後、永観堂の名前の由来となった七代目住職の「永観律師」(ようかんりっし)の代になって大きく発展していくことになる。

永観律師(1033年~1111年)は、幼少より秀才の誉れが高く、三論宗の学匠として名声を得るまでになったが、地位も名声も捨てて東山禅林寺に隠遁することを選んだと言う。

そして18歳から日課として一万遍の念仏を称え、後には六万遍もの念仏を称えたと言われている。

その永観律師は、自らを「念仏宗永観」と名のるほど阿弥陀仏の救いを信じたと言い、念仏の道理の基礎の上に、当時で、南は粟田口、北は鹿ケ谷に到る東山沿いの広大な寺域を持った禅林寺の境内に、「薬王院」という施療院を建てて、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名づけて果実を施すなどの救済活動に努力したそうだ。

そういう永観律師の姿を慕う人が禅林寺を永観堂と呼ぶようになったと言う。

さて、この永観堂には境内の阿弥陀堂に「みかえり阿弥陀」と呼ばれる阿弥陀様が祀られている。

普通の仏像と違い、阿弥陀様が振り返るように少し顔を横に向けてられるお姿から、みかえり阿弥陀と呼ばれているのである。

この、みかえり阿弥陀について、永観律師にまつわる伝説が残されている。

時は、永保2年(1082年)の事だそうだ。

永観は、深く阿弥陀如来を信仰しており、その日も夜を通して、阿弥陀堂の阿弥陀様の前で一人で念仏行に励んでいた。

やがて、東の空が白み始めて永観もつい、うとうとしていたのであった。

うつらうつらとしていたが、ふと何かの気配を感じて目を開けると、自分独りのはずのお堂に誰かが立っていた。

誰だろう?

永観が目をこらして見ると、それはお堂の阿弥陀様だったのである。

永観は自分の見ている姿に呆然としていると、少し歩き出した阿弥陀様は、永観の方を振り返るとこう言われた。

「永観、遅し」(早く付いてきなさい)

おそらく、念仏行に励む永観のために阿弥陀様が姿を現して教えを説こうとされたのではないだろうか。

その時の、振り返られた阿弥陀様の姿を現したのが、みかえり阿弥陀だと言われている。

その、みかえり阿弥陀像は、先に書いたように首を左にかしげて、振り向くようなお姿である。

お口を少し開かれて微笑まれているようで、慈悲にあふれた優しい表情に感じられる。

その、他に例がないような見返られたお姿は、それは遅れる者を待ち、思いやり深く周りを見つめているように思え、また自分自身を振り返り、急がず正しく前へ進むお姿なのかも知れない。

永観堂は、鎌倉時代になると「静遍僧都」(じょうへんそうず)が住職となり、その静遍僧都は真言宗の高名な僧侶だった。

浄土宗の法然上人の「お念仏を唱えるだけで救われる」と言う教えに反発をいだき、自分の方が正しい事を証明しようと法然上人の著書を検証していったという。

しかし、いくら読んでも間違っているのは自分の方ではないかと思えるようになって、とうとう法然上人の教えに帰依して、永観堂を浄土宗に改宗して現代まで続いているそうだ。

永観堂は京都でも有名な紅葉の名所として多くの観光客が訪れるのであるが、他にも「臥龍廊」や「三鈷の松」や「悲田梅」など、見所も多いお寺でもある。
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元慶寺
京都の山科にある元慶寺へ行ってきました。

元慶寺は、桓武天皇の孫であり六歌仙の一人でもある僧正・遍照が陽成天皇の生誕によって建立した定額寺がもとになったそうです。

その後に、清和天皇の勅願寺となり「元慶寺」と改められました。

その後に、17歳で即位した花山天皇の代となり、寵愛していた女御が懐妊中に亡くなった事を嘆き悲しんだ花山天皇に、藤原兼家が外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らせます。

花山天皇に仕えていた息子の道兼が、悲しみに沈む花山天皇を出家するようにそそのかし、内裏から連れ出すと元慶寺で髪を下ろして出家させ、退位させたと言われています。

花山天皇はこうして元慶寺で出家して花山法皇となりました。

また、花山法皇は廃れていた西国三十三所観音霊場巡りを復興させたために、元慶寺は西国三十三所の番外札所となっています。

当時は、寺格も高く寺領も広かったそうですが、応仁の乱により多くが焼失したそうです。

鐘楼門の上には、菅原道真が勅命で元慶寺のために詠んだ漢詩が刻まれた梵鐘が再興されて納められているそうです。

お寺の境内には遍照が詠んで百人一首にも入っている「天つ風、雲の通い路吹き閉じよ。乙女の姿しばしとどめん」の歌碑が置かれています。

お寺の境内にあった石碑を背負った唐獅子が珍しいでした。

普通は亀に似た贔屓が背負う事が多いですしね。

少し交通の便がよくないですが、歴史的には大きな意味を持つお寺ですね。
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小倉餡
「小倉餡」と言えば、小豆の粒が残されたまま作られる餡子の事で、つぶ餡とも呼ばれて和菓子には欠かせないものとなっている。

その小倉餡の発祥の地が京都の嵯峨野だと言われている。

嵯峨野にある「二尊院」は、小倉山の東麓に位置し、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るために二尊院と呼ばれている。

小倉山といえば、有名な小倉百人一首の所縁の場所でもあり、藤原定家が百人一首の元となる色紙を作成したとされる時雨亭は、この二尊院の境内にあったとされ、今もその跡地が残されている。

その二尊院の境内に、近年になって「小倉餡発祥之地」の石碑が建てられた。

この二尊院や小倉山付近の地域が小倉餡の発祥地であり、小倉の地名から小倉餡と名づけられたと言う。

伝承によると、日本で始めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは、平安京ができて間もなくの嵯峨天皇の時世で、弘仁11年(820年)頃の事だそうである。

当時、京のこの付近の小倉の里に煎餅を作っている「和三郎」と言う人がいたそうだ。

しかし、この当時の煎餅は、小麦粉を油で焼いたり揚げたりしたものだったと言う。

さて、弘法大師・空海が遣唐使で唐に渡っていたおりに、順宋帝に唐の「煎餅」を賜わり、その味に感激した空海がこの製法を持ち帰り、山城国小倉の里の住人の和三郎に伝えたそうだ。

その和三郎は、その製法に基づいて「亀の子煎餅」と言う名の煎餅を作り、嵯峨天皇に献上して大いに名をあげたと言う。

そして、空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し、それに御所から下賜された砂糖を加え、煮詰めて餡を作りあげた、これが小倉餡の始まりとなる。

和三郎は、これを毎年御所に献上したそうである。

ちなみに、漉し餡は小豆などを茹でた物を漉し、それに砂糖を加えて煮詰めて餡にしたものである。

こうした菓子は、極めて高価で珍しい物であり、一般庶民の口には入らなかったが、この和三郎の努力で京都を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の菓子となり、また一方では祝飯としてハレの料理にも加えられるようになっていった。

京菓子の技術は日本の和菓子の源流となっていったとも考えられる。

ちなみに、砂糖が庶民の口に幾分なりとも入るようになるのは、徳川八代将軍の吉宗が糖業を奨励したことにより普及をみたと言われている。

しかし、一般的な調味料として使われ始めたのは明治末期頃からだそうだ。

さて、その和三郎は承和7年2月2日(840年)に亡くなりましたが、その子孫並びに諸国同業の人々が、その功績をたたえて小倉中字愛宕の「ダイショウ」の里に一社を建て朝廷の認可を得て、屋号が「亀屋和泉」であったので「和泉明神」として祀られるようになった。

その後、年月を経て明神の社は兵火に焼かれ子孫も絶えて、只、古老の伝承として小倉の地に和泉明神の社があったと伝えられてきたが、近年になって八ツ橋で知られる井筒屋八ツ橋本舗の六代目津田左兵衛等の尽力により、二尊院の境内に小倉餡発祥之地の石碑とモニュメントが建てられたそうである。

また、同じ嵯峨野の落柿舎近くの畑にも同様の意味の立て札が立てられている。

日本の和菓子の歴史に空海が大きく関わっているのも面白いし、それを苦労して開花させた和三郎も日本の和菓子のパイオニアと言っていい存在ではなかろうか。

普段から和菓子好きで京都に行くと和菓子を買っている私にとっては、空海も和三郎も恩人のような人かも知れない。
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宗論
最近は御朱印の関係もあり、お寺の法要や法話に参加する事も多くなりました。

お寺さんとも親しくさせていただく事もありますが、宗派もいろいろとありお念仏を唱えたり、お題目を唱えたり、般若心経だったりしてしまいます。

なるべく、お寺で他宗派の話は避けるようにしていますが、いいのかなと思う事もあります。

狂言の曲目に「宗論」と言うのがあります。

狂言らしい笑いと批判精神とがある名作です。



「宗論」


身延山から帰る法華宗の僧と、善光寺から帰る浄土宗の僧が出会い道連れになる。

二人は仲良く話しながら行くが、お互いの宗旨が判ったとたんに反発して喧嘩になる。

法華は情がこわいとか、浄土は愚鈍だとか貶し合いがはじまり、法華の僧は口実をもうけて別れようとするが浄土の僧は付いて来て、お互いの宗祖伝来と言う数珠を相手の頭上にいただかせあい、争いは過熱する。

やがて法華僧が宿に泊めると浄土僧も後を追って同じように泊まり宗論が始まる。

法華僧が「五十展転随喜の功徳」と芋茎にかけて説くと、浄土僧は「一念弥陀仏即滅無量罪」と無量の菜と解釈して説き、お互いにけなし合い勝負がつかないで寝てしまう。

朝になり、浄土僧が朝の経を読み始めると法華僧も勤行を始めて経を読む。

お互いに対抗して「なむあみだぶつ」「あむみょうほうれんげきょう」と経を読む声がだんだんと大きくなり、やがて「なもうだ」「れんげきょう」と拍子に乗って夢中で踊り出し、踊り念仏と踊り題目の張り合いになる。

そうこうするうちに、いつしかお互いの名号とお題目を取り違えてしまい、相手の文句を唱えてしまう。

間違った二人は、そこではじめて釈迦の教えに隔てがないことを悟り「法華も弥陀も隔てはあらじ」と歌い和解する。



なかなか面白い中で考えさせられる狂言ですよ。

でも終わり方は真理をついていたりしますね。
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明智光秀首塚
京都の地下鉄東西線の東山駅の近く、東山区の三条通りから白川に沿った道の東側を南に下って行くと「ペンション東山祇園」がある。

そのペンションの前の道を東に入ると「明智光秀首塚」と言われる小さなお堂がある。

明智光秀と言うと織田信長の家臣でありながら、中国攻めの秀吉の応援を命ぜられ、京都の老いの坂を越えた辺りで「敵は本能寺にあり」の言葉と共に、手薄になった信長の泊まる本能寺を攻めて信長を自刃に追い込んだ事で有名である。

なぜ、光秀が信長を討ったのか、さまざまな説があり判らない部分が多い。

信長の荒々しい部分が、光秀の繊細な部分が合わなかったのではとも言われている。

信長が丹波征討の折に降伏した敵の大将を殺したために、人質にされていた光秀の母親が殺されたのも恨みの根にあったのではとも言われている。

光秀は信長を本能寺で自刃に追い込んだ物の、中国攻めを片付けて急遽舞い戻った秀吉との山崎の合戦で破れ、近臣とともに近江の坂本城に逃れる途中の、山科の小栗栖付近で土民に襲われて殺されたと言われている。

そして、秀吉は三井寺で光秀の首実験を行い、翌日この首を京の粟田口にさらしたそうだ。

そのために、この光秀の首は粟田口黒谷通の東に埋められていたそうだが、後に、この地に住む能狂言の笛ふきをつとめる明田利右衛門と言う明智の縁者と思われる人物が、栗田口黒谷の五人組連中から首の骨をもらい受けて自宅の地に移し菩提を弔ったのが首塚になったと言われている。

ちなみに、滋賀県の坂本にある西教寺には光秀や一族のお墓が祀られている。

さて、この首塚は頭痛などの首から上の病気にご利益があると言われ、頭が良くなるとも言われてお参りする人も多いと聞く。
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小狐丸
京都の東山区の三条神宮道から三条通りを東に歩けば北側に小さな神社の鳥居が立っている。

「合槌稲荷」と言われるお稲荷さんで、その鳥居を潜って民家の間の細い路地を入っていった奥に小さな祠が祀られている。

むかし、平安時代の中期の後一条天皇の御世の事である。

京都の粟田口三条坊の近くに「藤四郎宗近」と言う刀匠がおり、天下に名を知られる名人であったが、三条に住んだので「三条小鍛冶宗近」呼ばれていた。

ある夜に後一条天皇は不吉な夢を見て不安になったので、橘道成を使いに立てて、三条小鍛冶宗近に天下鎮護の刀を打つように命じた。

宗近は、責任の大きさに一時は辞退も考えたが勅命とあれば引き受けるしかなく、精進潔斎をしては日頃から信心している稲荷大明神に願をかけて、見事な刀を打てるようにと祈願した。

やがて満願に近い日の事だった。

宗近の住まいを気品のある若者が訪れるとこう言った。

「私は立派な刀鍛冶になりたいと思い訪ねてまいりました、ぜひとも私を合槌に使って修行させてくださいませ」

刀を打つには合槌と言う鉄を打つ手伝いが必要であるので、宗近もこれはちょうど良いと若者の申し出を受ける事にした。

やがて、宗近と若者は白装束に烏帽子をつけると一心をこめて刀の制作に取り掛かった。

若者はうまく宗近に呼吸を合わせて向こう槌を打ち、宗近も良い合槌を得て懸命に刀を鍛え上げた。

こうして、素晴らしい出来栄えの見事な刀が打ちあがった。

宗近は、若者に

「我ながら見事な刀を打つことができた、これもお前の合槌のおかげだ、ところでこの刀の名前は何とつけようかのう」

そう言って若者を見ると、若者は

「この刀、できましたら小狐丸と名付けていただきとうございます」

そう答えると姿を狐に変えて、雲に乗って飛び去って行くのだった。

「さては、稲荷大明神が私の願いを聞いて手伝いを使わしてくださったか」

宗近はそう思うとあらためて稲荷大明神に感謝すると、言われたままに刀に「小狐丸」と名付けると天皇に献上したのだった。

この時の、宗近に力をかした神狐を祀ったのが「合槌稲荷」だとされていて、小さな社ながら火の用心の神様として付近の住民に大切にされているようだ、

さて、この宗近は実在の人物でやはり優れた刀匠だったと言われている。

宗近の作とされる太刀は三日月形の焼き刃があるので三日月宗近と呼ばれる国宝の名刀なども残されている。

また、ある時に宗近の娘が疫病にかかった折に、宗近は娘を可愛がっていたので「祇園社」(八坂神社)に娘の平癒を祈願し、治していただければ長刀を奉納すると誓った。

やがて、祈願のかいがあったのか娘は無事に回復すると、宗近はお礼にと長刀を打って奉納した。

この長刀が、祇園祭の長刀鉾に使われたとも伝えられているが、現在の長刀鉾の長刀は大栄2年(1522年)に三条鍛冶左衛門助長の鍛えた物だそうである。

現在も粟田口鍛冶町の名前が残っており、また付近には宗近が刀を鍛える時に使ったとされる井戸や住居跡などの遺蹟もあるようだ。

また、別に山科の花山神社の稲荷塚で、宗近が花山神の力を得て小狐丸を作ったとも言われており史跡も残されている。
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花山神社
山科にある花山神社(かざんじんじゃ)へお詣りして来ました。

花山神社は、お稲荷さんを祀るために花山稲荷とも呼ばれていますが、延喜3年(903年)に醍醐天皇の勅命で創建されたとされ、宇迦之御魂大神、神大市比売大神、大土之御祖大神を祭神としています。

特に神大市比売大神は、宇迦之御魂大神の母神にあたるとされ、「稲荷さんのおふくろ神様」として親しまれているそうです。

境内には稲荷塚と言うは弥生後期の古墳と言われる塚があり、三条小鍛治宗近が花山稲荷の神徳により名刀「小狐丸」を鍛えた跡と言われるそうです。

その稲荷塚があると言うので探してみましたが、なかなか見つからずに、達光宮のお社の中にようやく見つけましたが、達光宮が市杵島比売大神と共に、金山比古大神と金山比売大神と天目一筒大神と言う鉄鋼や製鉄の神を祀っている事と関わりが深いのでしょうね。

また、忠臣蔵で知られる大石内蔵助の隠棲地とも近いために、こちらにも信仰されていたようでいろいろな関連史跡も残されています。

他にも多くの稲荷社も祀られており、独特の雰囲気のある神社でした。
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