池田屋惣兵衛
京都の浄円寺の墓地にある入江家のお墓の横に、小さな石柱があり「池田屋惣兵衛之墓」と刻まれています。

池田屋惣兵衛こと入江惣兵衛は、幕末に京都三条小橋西に池田屋と言う旅籠を商っていた主人です。

そう、新選組で有名な池田屋事件の、あの池田屋の主人だった人物です。

本名は入江惣兵衛ですが、池田屋惣兵衛として知られています。

長州の出身とも言われていますが定かではないようです。

当時の旅籠の池田屋は同業の豊後屋と共に長州藩士の定宿となっていたそうです。

元治元年(1864年)6月5日の夜に起こった池田屋事件では、新選組の近藤勇らが乗り込んで来たのを見て、急いで2階への階段を駆け上がり、御用改めが入ったことを告げたと言われ、ここから新選組と尊攘派志士らとの斬り合いが始まりました。

池田屋惣兵衛は、その後は斬り合いを避けると妻子の手を取り屋外へ脱出しました。

そして親類宅へ妻子を預けると自分も一旦は身を隠しました。

しかし、翌日の6月6日には役人の捜索によって町奉行所へ捕らえられてしまい、厳しい詰問を受けて入牢する事になりました。

また、やがて妻子も町奉行所へ呼び出されると夜半まで詰問を受ける事になり、その後は町役人へ預けられ半年間入獄する事になったそうです。

そう言う状況で、やがて厳しい拷問もあり、惣兵衛は入獄中に熱病を発病すると、7月13日には衰弱して獄死したそうです。

獄死の翌日には、獄舎より町役人および妻たちの家族が呼び出されて惣兵衛の遺骸を引き取りましたが、なにしろ罪人の扱いであるので表立って葬儀を上げることも出来ずに、家族の嘆願により浄円寺に密葬されたそうです。

何でも惣兵衛は捕らえられて拷問されても耐えて、一切口をわらなかったと言われています。

やがて、惣兵衛の密葬から7ヶ月を経た12月になり、ようやく妻子は罪を許され帰宅したそうです。

池田屋事件は新選組にとっても、幕末の歴史にとっても大きな出来事で、新選組や尊攘志士の事は関心が深いですが、事件の現場となった池田屋の人々には知られていない事も多いですね。

浄円寺の入江家の墓や池田屋惣兵衛の石碑には気付く人も少なく、静かに眠っておられるのでしょうね。