2009年07月の記事


花笠巡行
今日は、会社をお休みして一休み。

ちょうど、京都の祇園祭の後の祭りになる「花笠巡行」の日なので、京都まで見に行って来たよ。

祇園祭といえば宵山や山鉾巡行が有名だけれど、ほんとうは7月の初めから月末まであれこれと行事があったりする。

山鉾巡行は、もともとは17日の前祭(さきのまつり)と24日の後祭(あとのまつり)に別れていたのだが、昭和41年に17日に統合されてしまって山鉾巡行は一度になってしまった。

それで、24日に行われる還幸祭に先立つ後祭が無くなってしまったので、後祭の意味を残すために行われるようになったのが「花笠巡行」である。

花傘は、山鉾の古い形態を現代に再現したもので芸術的な色彩が強いのが特徴と言われている。

傘鉾10基余、花車、舞妓さんの踊子屋台、獅子舞、雀踊り、祇園太鼓、六斎念仏などの行列がある。

この行列には4つの花街の綺麗どころを始め六齋、鷺舞、鉾、祇園囃子の曳山や山車など総勢1000人の行列が八坂神社を出て四条河原町などを練り歩き、八坂神社に戻ってくる巡行である。

やはり一番人気のポイントは出発点となる八坂神社石段下の交差点である。

花笠巡行が始まるのが10時からなので、私は8時半位には乗り込んでベストポジションをキープしていた。

9時過ぎくらいから人が集まり出して人も増えていく。

京都は晴れで日差しが痛いくらいだが、私は日焼け防止に長袖のシャツに首タオルのいでたちなので暑い、暑い・・・熱中症防止に塩梅の飴をなめながら待ってたよ。

私は一番前の良い場所だったんだけど、後ろに高齢の女性が来られて写真を撮りたいけど場所が無い風だったので、私は地面に座って上を空ける事にしたよ、まぁ態度の良い人にはお互い様です。

10時に花笠巡行が始まって、道路を封鎖するのかと思うと、車は信号で止めて、巡行の一区切り毎に車を通すやりかただった。

でも、30分くらいで巡行も通り過ぎて、写真もそこそこ撮れて満足な私。

ついでに、近くの祇園小石で「わがまま氷」を食べて帰りました。
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セミ
暑くなって、朝とかセミが鳴くようになったね。

特に昨日は朝からセミがうるさいくらいに鳴いてて、朝礼のじゃまになるくらいだったよ。

そのセミも日食の間は、まったく鳴かなかったみたい・・・何かを感じるのかな。

まぁセミが土から出てからの寿命は短いですからね、精一杯生きてくださいな。

お盆ごろになると並木道とかセミの亡骸がぽつぽつ落ちるようになってるのは何となく哀しいよ。
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ハリーポッターと謎のプリンス
今日はイオン大日に「ハリー・ポッターと謎のプリンス」の映画を見に行って来た。

ハリー・ポッターのシリーズは原作も全部読んでいるし、映画も一作目から映画館でずっと見ているよ。

こういうシリーズだと途中で俳優さんが変わったりするものだけど、ダンブルドア校長がリチャード・ハリスが亡くなられてマイケル・ガンボンに代わった以外はあまり変わらずに続いているのは凄いと思う。

ハリーを初め、ハーマイオニーもロンも成長の過程を追って見てこれてるのも親近感がわきますな。

このハリーポッターと謎のプリンスは、完結編の「ハリー・ポッターと死の秘宝」へと続く伏線やら謎とかが多い大事な章である。

ほんとうは昨年に完成していたけど興行的な面を考えて、今年の夏まで公開を遅らされてしまったんだよな。

それだけに待ち遠しかったよ。

ただ原作は上下二冊のボリームなので映画化に際してかなり削られた部分が多いのは仕方ないけど少し残念だね、原作を読んで無い人には判らない部分も多いのと違うかな。

この作品の核心でもあるスネイプの若い頃の逸話、特にハリーの母親のリリーへの思いとかそういう部分が削られてしまったのは死の秘宝に向けて判りにくくならないだろうか?

全体的に重いトーンになってしまってるが、それは仕方ないかな。

あと、今作ではハリー・ポッターの本当に好きな恋人がはっきりしてキスシーンとかもあるけど期待通り良い感じだったよ。

そうそう、私が一番お気に入りのルーナも可愛くて、演じてるイバンナ・リンチも美しいですな。

ただ、今回の映画にも出ているドラコの取り巻きのクラッブ役を演じているジェイミー・ウェイレットが大麻の所持や栽培で逮捕されてしまったのは残念であるし、次作で完結編の「ハリー・ポッターと死の秘宝」では割りと大事な役目もあったりするのでどうなるか心配だよ。

それでも死の秘宝は今から楽しみで、早く完成して欲しいよ。
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与市兵衛の墓
京都府の長岡京市の友丘二丁目、新西国街道と旧西国街道が分かれて行く地点から、旧西国街道を西に歩いていくと石塔が建っている。

この石塔は「与市兵衛の墓」と言われる供養塔だと言う。

「与市兵衛」と言うのは、「忠臣蔵」の登場人物の一人である人物で、「萱野三平」の妻の「お軽」の父であり、萱野三平にとっては義父に当たる人物である。

ただし、実際の赤穂浪士の物語とは違って人形浄瑠璃や歌舞伎でお馴染みの「仮名手本忠臣蔵」と言う物語での話である。

現在でも実際の事件や出来事を映画や芝居にする時には名前を変えたり、仮名にしたりするのはよくあることである。

江戸時代など実在の事件を扱った芝居など観客には受けるのだが、当局からのお咎めを避けるために名前や時代背景や設定を変更する必要があったそうだ。

そこで、仮名手本忠臣蔵では、実際は江戸時代の五代将軍綱吉の時代であるが、物語では時代背景を太平記の時代に変更し、登場人物の名前も少し変えているのである。

「役名」(モデルとなった人物)として少し書き留めてみた。

「塩治判官」=(浅野内匠頭)
「高師直」=(吉良上野介)
「大星由良之助」=(大石内蔵助)
「顔世御前」=(浅野内匠頭の妻・阿久里)
「斧九太夫」=(大野九郎兵衛)
「斧定九郎」=(大野九郎兵衛の息子・大野郡右衛門)
「お石」=(大石内蔵助の妻・理久)
「大星力弥」=(大石主税)
「早野勘平」=(萱野三平)
「お軽」=(二文字屋阿軽)
「原郷右衛門」=(原惣右衛門)
「千崎弥五郎」=(神崎与五郎)

この、仮名手本忠臣蔵での創作されたお話が忠臣蔵の中でのお話として取り込まれていったり、後年に作られた話とかも加わって忠臣蔵の物語として史実と創作の部分が混同して広まって行ったようだ。

さて、与市兵衛のお話の核となるお軽と勘平の物語である。

「塩治判官」(浅野内匠頭)の家臣である「早野勘平」(萱野三平)は、塩治判官のお供で鎌倉の御所(江戸城)に向かい、判官が登城したので勘平は門前で控えていた。

そこへ、かねてから恋仲である「お軽」が「顔世御前」(阿久里)の文使いとしてやってきた。

お軽と勘平はしばしの逢瀬を楽しむためにその場を離れてしまう。

しかし、その間に御所内では「高師直」(吉良上野介)に辱めを受けた判官が怒りに任せて刃傷沙汰に及んでしまう、忠臣蔵で言う松の廊下の刃傷事件である。

戻ってきた勘平は思わぬ事態に慌てて門内に入ろうとしたが中に入ることも出来ない。

主人の一大事に逢引で持ち場を離れていたとはなんと言う失態だろう。

早野勘平は責任をとって切腹しようとするが、お軽に止められて、二人はお軽の実家へと駆け落ちすることになった。

やがて、判官は切腹となり館も明け渡すこととなった。

一方、お軽の実家で猟師となっていた早野勘平は、山崎街道の松かげで雨宿りをしていた。

そこへ通りかかったのがかつての同輩である「千崎弥五郎」(神崎与五郎)である。

早野勘平は千崎弥五郎と再会し、昔のよしみで主君の仇討ちの計画と御用金調達の話を聞くと、何とか資金を工面するので自分も一味に加えてくれるように由良之助に取り成して欲しいと懇願する。

その頃、お軽の父親で勘平には舅にあたる「与市兵衛」は、娘のお軽との逢引のせいで勘平が武士を辞めることになった事を気にかけており、何とか元の武士に戻すために資金調達を考えていた。

そして、娘のお軽を京都の祇園にある一力茶屋で遊女奉公させようと考えた。

与市兵衛は話を付けると半金の五十両を受け取って山崎街道を変える途中に、山賊と成り果てた「斧定九郎」(大野九郎兵衛の息子の大野郡右衛門)に刀で惨殺されて所持金の五十両も財布と一緒に奪われてしまった。

ところが、早野勘平は猟師をしていたので猪を鉄砲で撃とうとして見間違えて斧定九郎を撃ってしまったのである。

「しまった、人を撃ってしまった」

勘平は慌てて介抱しようとしたが撃たれた人はすでに行き絶えている。

介抱するうちに懐の財布に気が付いて調べてみると五十両の大金である。

ふと悪心が心を過ぎり、このお金があれば仇討ちの資金調達に役立てて、自分も仲間に加わることが出来る。

勘平は懐の金を盗むと急いで千崎弥五郎の後を追いかけると五十両の金を渡したのだった。

さて、山崎村の百姓である与市兵衛の家では与市兵衛の女房の「おかや」と娘のお軽が帰りを待ちわびていた。

そこへ、祇園町の一文字屋亭主のお戈が駕籠でお軽を迎えに来たのだった。

お軽が連れて行かれようとした所に勘平が戻って来たが、ことの仔細を聞くと、半金を入れて舅の与市兵衛に渡したものと同じ縞の財布を見せられて顔色が変わる。

昨夜、死体から奪った財布と縞柄の財布が瓜二つなのである。

さては、猪と思って撃ったのは舅の与市兵衛であったのかと錯覚してしまう。

そうしているうちにもお軽は駕籠で連れて行かれてしまって家にはおかやと勘平とが残った。

そこへ、殺されていた与市兵衛の遺骸が運ばれてきたのである。

しかし、与市兵衛の亡骸が運ばれても目をそむける早野勘平の態度を不信に思ったおかやは、さきほどちらっと見かけた勘平の持つ縞の財布が気になり、勘平の懐から取り上げて与市兵衛を殺して財布を奪ったのではないかと責めるのであった。

ちょうど訪ねて来た「千崎弥五郎」と「不破数右衛門」は、おかやから事情を聞くと勘平から預かった五十両を突き返し、舅殺しを厳しく非難するのであった。

そして二人が立ち去ろうとする時に、進退きわまった勘平は刀を腹に突き立てて切腹する。

千崎弥五郎が念のために与市兵衛の亡骸を改めると死因は鉄砲傷ではなく刀の傷だったのである、

しかも二人が来る途中で「斧定九郎」が鉄砲傷で死んでいるのを見つけていたことから、与市兵衛を殺したのは斧定九郎で、勘平が間違って撃ったのが斧定九郎で、勘平は与市兵衛の敵を討った事になるのであった。

こうして早野勘平の与市兵衛殺しの疑いは晴れたのだった。

しかし、時すでに遅く切腹した早野勘平は、仇討ちの連判状に加えられて血判を押すとした息絶えて行ったのである。

以上が早野勘平やお軽や与市兵衛夫妻の大まかな物語であるが、身売りされて連れられていったお軽は大星由良之助と関わりあっていろいろあった後に身請けされる事になる。

先に書いたように、これは赤穂事件を元に創作された物語の仮名手本忠臣蔵での物語である。

早野勘平のモデルと言われる「萱野三平」はお軽と思われる女性の姿もなく、そういうラブストーリーとも縁がない。

萱野三平の父である萱野七郎左衛門は、旗本の大島出羽守に仕える家老格であったと言う。

萱野三平は、13歳のおりに大島出羽守の推挙によって浅野内匠頭に仕官することになった。

そうして浅野家に召抱えられて江戸詰めの中小姓として浅野内匠頭によく仕えたと言う。

やがて浅野内匠頭が江戸城「松の廊下」での吉良上之介への刃傷を起こしたのであるが三平は内匠頭のお供をして伝奏屋敷に詰めており、仮名手本忠臣蔵のように逢引してるどころか、その現場にいたわけである。

そして萱野三平は「早水藤左衛門」と供に、伝奏屋敷からそのまま事件のあらましを伝える第一報を持って第一の使者として江戸から赤穂へと早駕籠で飛ばしたのであった。

しかし、途中で実家の側を通った折になんと母が亡くなって葬儀が行われていたのである。

早水は寄って来いと勧めたが、三平は急ぎの使者であるので断って、しばし黙祷すると涙をのんで寄らずに通り過ぎて行ったと言う。

その後、故郷の萱野村に戻って母の供養をし、また浅野家の同僚や大石内蔵助とも連絡を取り同志として仇討ちの機会を待っていたのだった。

先に書いたように、大島家には父と供に兄も仕官していたが、その兄が三平の挙動に不審を覚えたのか詰問にやってきた。

「お主は浅野家の大石内蔵助らと供に吉良上野介を討つつもりではないのか、もしもそういう行動に出れば大島家や父や私にも迷惑がかかるのだぞ」

それを聞いて三平は

「それほどお疑いなら私を絶縁してくださいませ」

しかし兄は

「絶縁などとんでもない。お主には嫁をめとらせて新しい仕官先もさがしてやる」

そう言って三平に迫ったのであった。


こうして萱野三平は浅野家の同志と父や兄との板挟みになり進退窮まってしまった。

仇討ちの同志と交わした密約があるが父や兄を裏切ることもできない、もしも仇討ちに加われば、それを見抜いているであろう兄は大島家に迷惑を掛けないためにも公儀に訴え出るであろう。

思いつめた挙句に萱野三平は大石内蔵助に宛てて手紙を送った。

「春には江戸へ下るべきなのですが、父に強く静止されてしまいました。父に仇討ちの意思をすべて打ち明ければ喜ぶことはわかっていますが、たとえ父といえども打ち明けるわけにはいかず、どうにもなりません。これより自害いたします」

亡き主君への忠義や同志達との仇討ちの盟約、それに反して父への孝と兄への恩、さらに大島家への礼などが三平を追い込んでしまったのだろう。

そして、討ち入りに先立つ11ヶ月前の元禄15年(1702年)の主君の命日でもある1月14日の早朝、萱野三平は28歳の命を自刃して果てたのだった。

そのかたわらには辞世の句があった。

~晴れゆくや、日ごろ心の花曇り~

三平の死を知った父の嘆きは深く悔やんだそうである。

三平の亡骸は母の墓の側に埋葬されたそうだ。

また、萱野三平の死を知った大石内蔵助ら同志達も大いに嘆いたと言う。

討ち入り後に、細川家にお預けになっていた大石内蔵助は、もしも萱野三平が存命ならば必ずこの仲間に加わっていただろうにと語ったと伝えられている。

ちなみに、討ち入りの赤穂義士のなかに「横川勘平」と言う人物も居るが、この横川勘平と早野三平が混ぜられて仮名手本忠臣蔵の「早野勘平」のモデルになったとも言われている。


さて、早野勘平のモデルは萱野三平であったが、一方のお軽のモデルになったと思われる女性も存在するが、萱野三平とは関係は無い。

通称は「お軽」であるが「可留」や「於可留」と書いたようだ。

二文字屋と言う版木屋の二文字屋次郎右衛門の娘であったそうで大石内蔵助の妾であったそうだ。

元禄15年に京都の山科にいた大石内蔵助の元に呼ばれたそうで18歳であったと言う。

内蔵助が討ち入りで江戸へ向かう時には、お腹に内蔵助の子供を身ごもっていたのであった。

そして、お軽は内蔵助の江戸下向後に男子を出産する。

この男子は寺井玄渓の手によって里子に出され、幼名を石之助、長じて「大石良知」を名乗るが、九州平戸へ向かう途中、佐賀の伊万里で没したという。

なお、その後のお軽は29歳の若さで世を去ったそうである。


このように、お軽と勘平の物語は仮名手本忠臣蔵の中で、実在の人物をモデルとして創られたお話であり、お軽の父親とされる与市兵衛も架空の人物と言うことになる。

この与市兵衛の墓といわれる物も真偽には疑問が多い。

石碑の中央には「南無阿弥陀仏」と書かれ、その下に「到空清欣信士」と「清誉妙寿女」の戒名が記されているそうだ。

高野聖寄宿供養名号碑ではないかとも言われているが、真偽はともかく与市兵衛の墓として親しまれ、今でも献花が絶えないのは忠臣蔵の物語が広く愛されているからではないだろうか。
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怖い絵
中野京子さんの著作、「怖い絵」シリーズが3作目の「怖い絵3」が出ていたので買って読んでいる。

この怖い絵のシリーズ(朝日出版:各1800円)は様々な名画に秘められた歴史的な背景やその意味、あるいは作者の事や描かれた事情などを解説していくもので、今までなにげなく見ていた絵画が怖いものに見えたり、描かれている真実に戦慄したりする。

この3作目でも、誰でも見たことがあるボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を初め、ゴヤの「マドリッド。1808年5月3日」やダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」、フュースリの「夢魔」などなどたくさんの有名作家の作品が取り上げられている。

この本を読んでから改めて絵画を見ると見方や印象がまるで変わってしまったりする。

本を開いた時のページに分かれてしまうので、少し絵が見辛いのが残念ではあるがとにかく面白い本でワクワクしながら読めてしまうお勧めの本である。
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七夕伝説
7月に入って雨降りが多くて蒸し暑い日が続いているね。

そして、もうすぐ七夕ですな。

私が暮らす寝屋川市の近くにある枚方市や交野市は古代には交野ヶ原と呼ばれ、七夕に関する伝説や史跡が残っている。

ご存知のように、七夕とは天の川に隔てられた牽牛(けんぎゅう)と織姫(おりひめ)とが7月7日の夜、年に一度だけ逢えるという伝説だ。

もともと七夕伝説は中国の伝説で、春秋時代に書かれたと言われる「詩経」にすでに書かれているそうで六世紀には七夕の夜に瓜や茄子などの収穫物を供えたり。針に五色の糸を通して手芸の上達を願ったと言う。

やがて、日本にも奈良時代には七夕が伝わるようになり、和歌などにも多くの歌が残されているのだが、江戸時代になって庶民の間に手習い事が盛んになると、七夕の儀式が拡大されて短冊に願い事を書いて笹に吊るすと上達すると言う事になり、現在のように願い事を書くようになっていったそうだ。


枚方市内には「天野川」(天の川)と言う川が流れており、その名前の由来は諸説あるのだが、川の周囲で稲作が始まった頃に甘野川と言っていたのを後の平安の頃に大空の天の川になぞらえて「天の川」と呼んだと言う説や、川砂が白く光って見えるところから、天上の銀河になぞられて名付けられたと言う説があるようだ。

この交野ヶ原の地は、秦氏などの渡来系の人によって開かれて、大陸からの文化を伝えられた事も多く、秦(はた)や百済(くだら)や王仁(わに)などの地名や史跡も残されている。

また、平安時代には都から近い狩場として親しまれていたようで、桓武天皇などの皇族も御行などで関わりが深く、多くの古典文学にも交野ヶ原や天の川があらわれていて

~狩り暮らし織女(たなばたつめ)に宿からむ 天の河原にわれは来にけり~ 在原業平朝臣


~天の川秋の一夜の契りだに 交野に鹿の音を聞くらん~ 藤原家隆


~七夕の一夜の宿も幾夜寝ん 天の川原の飽かぬ仮庵に~ 後柏原天皇

などの和歌とか他にも多く残されている。

また、交野ヶ原には、この天の川にちなんでかこの辺りは七夕伝説の格好の舞台となり、七夕や星にまつわる史跡や地名も数多く残されている。

天の川が流れる交野ヶ原一帯には星田、星ケ丘、中宮、などの地名が残っており、また、天の川上流の磐船渓谷には物部氏の祖先神、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天上より天の磐船で地上に降臨したという伝説をもつ磐船神社があり「天の磐船」と呼ばれる高さ12m、幅12mもの巨大な岩座がご神体として残されているそうだ。

また、星田の郷と呼ばれる地域には、星田妙見宮・降星山光林寺・星ノ森の三ヵ所に北斗七星が降ったという降星伝説が残されているそうで、星田妙見宮では本殿の前に掲げられた白地の垂れ幕には北斗七星が描かれているのだが、これが柄の部分で二つに分かれていて「北斗八星」になっている。

これは、実はこの部分が二重星になっていて、これが正しいのだが望遠鏡も無い時代になぜこの二重星に気がついたのか不思議である。

さて七夕伝説だが、JR学研都市線の津田駅から南の方に向かった交野市の倉治の地に織姫と言われる「天棚機比売大神」(あまのたなばたひめおおかみ)を祀る機物神社(はたものじんじゃ)がある。

この機物神社は諸説あるのだが、だいたい4~5世紀の設立と言われ、この地を治めていた「秦氏」(はたし)に所縁の深い神社で、そもそもこの付近の「津田」の地は「秦田」、また神社のある「倉治」(くらじ)の地は「秦者」(はたもの)と読んでいた時代があるそうで秦氏が住んでいた地と言われている。

秦氏は渡来氏族で京都にも深い関わりのある氏族だが、様々な技術を日本に伝えており、養蚕や機織の技術も伝えたと言われている。

その秦氏である「秦者」の人々が祀る神社と言う事で「秦者の社」(はたもののやしろ)と言われていたのを、後に七夕伝説と結びついて「はたもの」の名を「機物」と置き換えて、現在の機物神社になったそうだ。

養蚕や機織を伝えた秦氏の神社が織姫の神社になるのはなるほどとうなづける部分もある。

機物神社の祭神は、「天棚機比売大神」(あまのたなばたひめのおおかみ)と「栲機千々比売命大神」(たくはたちぢひめのみこと)の二神なのだが、もとは「天棚機千幡栲機千々波比売命」(あまのたなばたちはたたくはたちぢわひめのみこと)だったのを長いと言うので二つに別けたそうだ。

普段は静かな古社であるが、七夕の時期には境内に笹の木を立てて多くの願いを書かれた短冊が吊るされて賑わうようだ。

また、境内には機織機が納められているのもそれらしくて良い。

さて、この織姫を祀る機物神社の天の川を挟んで対になる位置に牽牛石(けんぎゅうせき)と言われている岩が祀られている。

京阪電車の交野線の「郡津」駅の西の方、香里団地の藤田川の「けやき通り」を西に向かった香里ヶ丘4にある「観音山公園」(かんのんやまこうえん)の、東の端の少し高くなっている場所に牽牛石は鎮座している。

この辺りは、中山観音寺と言う奈良時代のお寺があったそうだが、南北朝の戦乱で焼けてしまって、今は小高い丘に石碑が残って観音山公園として親しまれているそうだが、牽牛石がいつの時代の物かはっきりしない。

牽牛石はそれほど大きくは無いが、牛と言われれば牛に似ていないこともないが、普通にあればただの岩と思うだろう。

横に牽牛石の立て札があるので、これが牽牛石で「ひこ星」の化身だと判るようになっている、高台になっているので見晴らしは良く、古代にはここから織姫のいる機物神社がながめられたのだろうか?

あと、余談になるが、この近くに「茄子作り」(なすづくり)と言う面白い地名がある、平安時代に交野ヶ原で鷹狩をしていた惟喬親王(これたかしんのう)がかわいがっている鷹を森の茂みのなかに見失うと言う事があり、そこで鷹の足につける名鈴(なすず)を作るよう村人に命じ、この地を名鈴作村(なすずつくりむら)と名付けたのが茄子作りに変化していったようだ。

そこで七夕伝説なのだが、機物神社の織姫と牽牛石のひこ星が年に一度、天の川にかかる「逢合橋」(あいあいばし)という名の橋で二人が逢い、愛し合うというロマンチックな伝説が伝えられているそうだ。

現在の逢合橋は普通のコンクリートの橋で、橋に付けられた「逢合橋」のプレートくらいしか往時を思わせるものは無いのだが、昔は木の橋だったそうだ、逢合橋は車の通行も多くて危険だが、隣りに歩行用の橋もかけられているので、七夕の夜に逢合橋で好きな人と星を見るのも素敵かも知れない。

他にも、天の川が流れる枚方市の京阪枚方駅の近くには、七夕の夜に、鵲(かささぎ)が羽根を広げて橋を作り、織姫とひこ星の二人が逢うのを取り持ったという伝説にちなんだ「かささぎ橋」や、天の橋という意味で織姫とひこ星が船で渡って出会うと言われる「天津橋」(あまつばし)など、七夕伝説にちなんだ橋がかかっている。

いろいろと古代からの史跡や伝説の残る交野ヶ原の地、七夕の日にそれらの伝説を巡りながら散策して見るのも楽しい物だし、恋人と思い出を作るのも良いかも知れない。

天の川や七夕伝説は現在で言う遠距離恋愛になるのかも知れない。

逢いたくても遠くて逢えない、でも、心は近くに感じていたい。

私自身、遠距離恋愛で婚約までしながら破れて、独りの生活を続けている身である。

今も多くの遠距離恋愛をしている恋人達の幸せを七夕に祈りながらこのお話を終る事にしよう。

~一年に 一夜と思えど たなばたの 逢い見む 秋の限りなき哉~(拾遺和歌集 紀貫之) 


七夕の夜に・・・

多くの愛が星になってあなたに降り注ぎますように

そして・・・あなたの愛の願いがかないますように・・・
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ウィキッド
グレゴリー・マグワイアの著書「ウィキッド」を読了した。

「ウィキッド:西の悪い魔女の生涯とその時代」と言うのが正式なタイトルだそうだ。

ウィキッドは、あの「オズの魔法使い」の中で西の悪い魔女として描かれた「エルファバ」を主役とし、その生い立ちを追いながら、どうして悪い魔女と呼ばれるようになったのか、本当に悪い魔女なのかを語りかける物語である。

ウィキッドはブロードウェイでミュージカルにされ、日本では劇団四季が公演していたし、またUSJでも短縮版が公演中で人気である。

ちなみにUSJ版はウィケッドであり劇団四季のがウィキッドとなったのは、USJ版の方が先にウィケッドと名付けて始まったので、劇団四季の方は一字変えてウィキッドとしたと言う。

さて、その原作であるが上下二冊もあるボリュームで、その内容はかなりハードであり重い内容なので、子供には不向きだと思う。

エルファバは緑色の肌で生まれてきたために、すぐに殺されそうになったり両親からもうとまれたり、いろいろな差別や偏見の中で育っていく。

たぶん人種問題とか階級社会とかいろいろな問題をはらんでいるのであろうし、性描写や殺人とかいろいろとあって、読んでいて気分が沈んだりしたものだ。

読んでいると、良い魔女のグリンダとか嫌な奴に思えてくるし、ドロシーとかも好きになれなくなるよ。

ミュージカル版の方は、おそらく原作がダークなのでをずいぶんと変えて親しみ易くしているのだろうと思う。

読み終えて心の中に何かしこりが残るような重い作品であった。
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