2013年03月の記事


円山公園の桜
京都の桜の名所でもある円山公園でも桜が見頃になってるよ。

円山公園と言えば、枝垂れ桜が有名だね。

カラスの害で一時は枝がかれて悲惨な様子だったけれど、ずいぶんと回復してきたように見えるね。

桜の花もたくさん開花して見事な枝垂れ桜に戻ってきたね。


円山公園には、他にもたくさんの桜の木があって見事な桜の木も多いよ。

坂本竜馬と中岡慎太郎の像の前にある桜の木もなかなか見事な桜の木で、お勧めの桜の見所だよ。

他にも大きな桜の木も多くて良いのだけど、公園のあちこちで花見してるのが景観を損ねてるように思うのは私だけかねぇ。
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宇治・・・
昨日は久しぶりに京都の宇治へ用事ででかけてきた。

しかし・・・

宇治川の中之島は工事中。

平等院も肝心の鳳凰堂が工事中で見ることが出来ない。

他にも工事や建て替えの所もあるので宇治はかなり観光客が激減してるそうだ。

これから桜の時期やGWもあるのにね。

仕方ないけど工事が終わるまでは観光関連は辛いわな。
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謎手本忠臣蔵
加藤廣さんの「謎手本忠臣蔵」を読んだ。

これは、あの忠臣蔵で知られる赤穂浪士事件を、幕府側の柳沢吉保と赤穂側の大石内蔵助の二人の視線から描いた小説である。

赤穂浪士物の作品も多いが、その中で一番の謎が浅野内匠頭がなぜ吉良上野介に刃傷に及んだかだと思う。

これについては様々な説があるが、この謎手本忠臣蔵では独特の説を採っている。

ここからは本の内容のバレになるので、読みたくない方は御遠慮ください。



この謎手本忠臣蔵では、将軍の徳川綱吉の母である桂昌院へ従一位の位を授けてもらうように朝廷に打診していた事が遠因になっていると言う。

綱吉は何とか母に従一位の位を望み、柳沢吉保も裏であれこれ工作していた。

高家筆頭として吉良上野介も京都に行き来していたので、手柄を得るために強引な工作をしていた。

浅野家は調停とも本意にしており内匠頭も朝廷と交流があったので、朝廷側から浅野へ吉良の事を何とかならないかと相談される。

こうして吉良と浅野の間に少し対立なような物ができ、勅使供応役を務める中で吉良から浅野への軋轢のような物も起きてくる。

そういう中で、再度朝廷からの意向を吉良へ伝えた浅野に対して「これは田舎大名の口をはさむ事ではない」と侮辱されたのが浅野内匠頭の心を深く傷つけてしまう。

そして、そういう思いが溜まって松の廊下での刃傷へと向かってしまったと言う。

刃傷後の内匠頭が取り調べに対して、吉良への遺恨を陳べながら、その内容については口を閉じたのは、もしも事実を話せば桂昌院への従一位への工作問題まで出てきてしまい、朝廷にも幕府にも問題となってしまうので、どうしても話すわけには行かずに胸に秘めたまま切腹となったと言う説である。

読んでいて「なるほど」と頷ける部分もあり、なかなか面白く読むことが出来たよ。
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鶯宿梅
先日の梅宮大社で「鶯宿梅」(おうしゅくばい)が咲いていた。

鶯宿梅は、端唄で「わたしゃ鶯、主は梅、やがて身まま気ままになるならば、サァ、鶯宿梅じゃないかいな・・・」と歌われたりしている梅の木だ。

鶯宿梅には次のような伝説がある。


むかし、村上天皇の御代の事、平安時代の初期の頃で和歌とかが盛んになった時期でもある。

ある年に春を前にして内裏にあった梅の木がとつぜん枯れてしまった、毎年のように鶯が遊びに来て声を聞かせるので村上天皇もお気に入りの梅の木でだった。

このままでは、楽しみにしていた鶯の声も聞かれない。

そこで、村上天皇は勅命で代わりの梅の木を探すように命じたのだった。

しかし、内裏に植える梅の木であるのでどれでも良いというわけにもいかず、なかなか、これといった梅の木は見つからない、天皇からは「まだか」と急かせれるようになるし使いの者も焦るようになってきた。

しばらくして、西の京の辺りのある家の庭にすばらしい梅の木があるのを見つけて、その家の女主人に訳を話して勅命だからと梅の木を譲るように話した。

その女主人も、これまでに大切に育ててきた梅の木である、簡単に譲りたくはないだろうが天皇の思し召しならいかんともしがたい、また使いの者もようやく見つけた梅の木であるので強引にでも持っていきたかったのだろう。

女主人も心ならずも承諾するしかなく、梅の木は内裏に運んで植え替えられることになった。

村上天皇は喜んで運ばれてきた梅の木を見に行って、見事な梅の銘木に感心していたが、ふと気づくと梅の木に短冊がつけてあり一首の和歌が書いてあるのを見つけたのだった。

~勅ならばいともかしこし鶯の、宿はと問はばいかが答えん~

(恐れ多くも天皇のご命令ですから、私はこの梅を献上いたしますが、この梅を住処とする鴬がまた今年も飛んできて『私のお家はどこ?』と聞いてきたら、私は何と答えればよいのでしょう)

村上天皇は、女主人が大切に育てていた梅の木をむりやり持ってきたのだと思うと自分の我侭を恥じ入り、梅の木を元の女主人の元へさっそく返させることにした。

そして、それにしても、梅の木に掛けてあった和歌は見事な歌だと思い、女主人の身元を探らせると、それもそのはずで紀貫之の娘の紀内侍だったのだった。

それいらい、この梅の木は「鶯宿梅」(おうしゅくばい)と名付けられたそうである。

今では鶯宿梅の梅の木も、他にもいろいろと植えられている所もあるそうだ。。

こうして、千年を越える時を経た梅の木が、今も愛されて植え継がれているのは素敵な事だと思う。
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和菓子巡り
今日も少し寒いけれど、お天気は良くて梅は見頃だし、京都の梅宮大社まで行ってきたよ。

どうせなら、梅を愛でるだけでなく美味しい和菓子も楽しもうと、こちらも兼ねる事にした。

始めに京都の桂離宮の近くにある「中村軒」の「麦代餅」(むぎてもち)。

もともとは、麦刈りや田植えの時期の間食として、農作業が終わる頃に代金を麦でもらった事から麦代餅と言われるようになったそうだ。

つきたての柔らかい餅でたっぷりのつぶ餡を包んで、上にきな粉をかけてある。

簡単な作りだけに、素材のよさや手間をかけた味が出るように思う。

厚手の白い餅につぶ餡の美味しさが良いね。

これは、なかなかのボリュームがあり食べ応えがあるが、小さいサイズのもあるようだ。


そこから、松尾にでて、梅宮大社に向かう。

梅宮大社では、梅も見頃を迎えて、たっぷり梅の花を堪能できたよ。


梅宮大社を出ると、松尾に戻って松尾大社の近くにある「松楽」へ。

松楽は、小さなお店だけ、店内に入ると有名人の色紙とかも飾ってある人気のお店。

ここは、「京おはぎ」で有名なお店で蓬のご飯に栗が入った12種類のおはぎが知られている。

南京芋・さつま芋・抹茶・紫蘇・さくら・黒胡麻などなどのおはぎが個数限定で作られて、午前中に売り切れることもあるとか。

私は、基本の大納言餡ときな粉をいただいた。

蓬のご飯に栗が美味しいよ。


また、松楽では「奥嵯峨」と言う銘菓もある。

こちらは、蓬風味の餅で、つぶ餡を包んできな粉でまぶしてある。

始めの麦代餅と同じ趣向であるが、こちらは小振りで一口サイズの食べやすい大きさである。

茶席でも合うようにと蓬の風味もつぶ餡もあっさり仕上げてあるそうだが、それだけにつぶ餡の美味しさがしっかり出ているように感じる美味しさである。

今日は、京都の有名和菓子をいろいろと堪能できて、ダイエット中なのが気になるが、それでも楽しい一日だったよ。
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東山花灯路
今年も、京都の東山周辺で「東山花灯路」が始まった。

冬の嵐山と春の東山の二つの花灯路はすっかり京都の風物詩のように親しまれるようになってきたね。

ほんとうは夜に行くのがきれいでイベントもあるのだけど、どうしても人も多いし帰りがしんどいのでなかなか行けないしね。

花灯路といえば、各華道の流派が出品する「いけばなプロムナード」とか「現在いけばな展」も活け花を見て周って面白いよ。

また、円山公園の小川に竹を並べた「竹灯り・幽玄の川」も風情があって良いですな。

今年から出品が始まったのが「粟田大燈呂」も面白い。

粟田神社の大祭で巡行した大燈呂で、京都造形芸術大学の学生さん達によって再現されたものだそうだ。

もともとは、青森のねぶた祭りの原型とも言われる歴史のあるもので、祇園祭が中断した時期とか、この大燈呂で代行したとの話があるくらい由緒のあったものだそうだ。

梅の花も見ごろを迎えたし、花灯路を見ながらのんびり散策するのも楽しいね。
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梅満開
ここ数日は暖かくて春らしい暖かさだね。

今日もお天気で気持ち良いのだけど・・・花粉で目が痒くて鼻がグズグズだよ、花粉さえなければねぇ。

ようやく梅も見頃になって来たので、今年も京都の城南宮の神苑に行ってきたよ。

神苑の中の春の山では、枝垂れ梅が満開の見頃で、まるでピンクの筆で凪いだような美しさ。

満開の梅にかこまれて息を呑むような艶やかさだよ。

ピンクの梅の合間に見える白梅も良いですな。

花粉で鼻をぐずりつつ、目もごしごししながらだったけど、梅の花と香りを堪能できたよ。
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ひな人形
3月3日は桃の節句だね。

桃の節句は江戸時代に定められた五節句(七草粥・桃の節句・端午の節句・七夕祭・菊の節句)のうちの一つで、女の子の成長と幸せを願ってひな人形を飾り、お祝いをするようになったそうだ。

また、桃の節句は 別名「上巳(じょうし)の節句」とも呼ばれ、悪日とされていた日に紙で人形を作り、穢れを払ってから川に流すという「流し雛」の風習と、平安時代の「御人形(ひいな)遊び」とが結びついて、江戸時代に現在のようなひな祭になったと言われている。

そのひな人形の並べ方に京都と関東では違いがある。

京都での本来のひな人形の並べ方は古来の伝統にしたがって、お内裏様が向かって右側で、お姫様が左側になっている。

一方、関東やその他の地域では、向かって右側がお姫様で、左側がお内裏様となっている。

これは、明治以降に西洋の風習を皇室が取り入れて左が天皇、右が皇后と変わったのを期にひな人形もそれに合わせる様になったからだと言う。

しかし、京都でも最近は関東に合わせたような並べ方が増えてきていて、京都本来の並べ方のひな人形が少なくなって来てるのは寂しいね。
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