毘沙門堂の灯籠
京都の山科にある毘沙門堂門跡と言えば、現・天台座主を出している由緒ある門跡寺院である。

その本堂の前の左右に聖堂の灯籠が建てられている。

灯籠の銘文には享保6年に以前の天台座主であった公寛法親王が奉納したとされている。

公寛法親王は、輪王寺宮として江戸の寛永寺と日光の輪王寺の門跡を兼務して、江戸にも下向していた人物だそうだ。

毘沙門堂門跡は、輪王寺宮が兼ねる事になっていたので、彼の奉納であっても不思議はない。

灯籠の上には、徳川の紋である三つ葉葵が付けられているので、徳川家との関わりも深いと推測される。

しかし、この灯籠をよく見ると文字が擦って消されたような跡が残されている。

その消された文字をよく見ると、「大猷院殿」と彫られていたように推測されている。

この大猷院と言う言葉、実は徳川三代将軍の徳川家光の戒名であり、大猷院殿とは家光の御廟に付けれた呼び名である。

徳川家光の御廟の物である灯籠が、なぜ山科の毘沙門堂にあったのか。

徳川家光の御廟は日光の輪王寺に霊廟として祀られている。

しかし、寛永寺にも家光の霊廟が作られていた事があったと言う。

その寛永寺の家光の大猷院殿は火災によって消失してしまったそうで、そこにあった灯籠なども各地の寺社に移されたのだそうだ。

そう言う経緯で、山科の毘沙門堂門跡にも寄贈されていたのではないだろうか?

なぜ、文字が消されようとしたのかは不明である。

一対の灯籠にもいろんな歴史が秘められているのかも知れない。