明智川
京都市の右京区、阪急電車の桂駅から西のほうに行った所に「樫原」と言う地域がある。

その樫原に民家の間を縫うように南北に流れる細い小川がある。

まるで用水路のような小さな川であるが、これが「小畑川」と言う川で、「明智川」とも通称される歴史のある川なのだそうだ。

天正年間、織田信長が全国制覇に向けて破竹の勢いで勢力を伸ばしていた時期である。

当時の樫原一帯は六百石の年貢を華頂宮に納める事になっていた。

しかし、土地は豊かではあるが水源がなく、土地のお百姓たちは何キロも先の池から桶で水を運んでいたのである。

日照りの時など水車を十数台も繋ぎあわせて池の水を徹夜で汲み上げたりしたと言う。

献米の時期など水さえあればと心のそこから願うばかりだった。

そんな天正10年(1582年)6月2日の未明のこと。

樫原に「こんにゃく屋伊平」と言う百姓がいた。

その伊平が田の見回りをしていると、薄暗がりの中に遠くから物音が近づいてくる。

何だろうと目をこらすと山陰街道を都のほうから騎馬武者の一隊が駆けてくるではないか。

驚いた伊平が木陰に身を隠して様子を窺っていると、馬が何かに驚いたのか騎馬武者の中の大将らしき一騎の馬が暴れて落馬してしまった。

武将は落馬で身体を打ちつけたのか動けなくなっており、その周りに他の武将達も集まってきた。

伊平もけがでもしたのかと心配になり、飛び出してくると声をかけて飲み水や薬を出して世話をした。

しばらくして元気を取り戻した武将は伊平に礼を述べると、東の方を見つめている。

伊平も釣られて同じように東の方を見ると、都のほうの空が火事でもあったのか真っ赤に燃え上がっている。

武将は伊平の方を見ると声をかけた。

「お百姓、今は都の方角が燃え上がっているが、あれがどこが燃えているか判るか、見事当てることが出来たら望みの品を取らせよう」

伊平はそう言われてじっくり方角を見定めると心を決めてこう言った。

「あれは油小路の方かと思います、ならば本能寺ではないでしょうか」

それを聞いた武将は

「うむ、見事じゃ。あれはまさしく本能寺である、よくぞ言い当てたな」

そう言って満足げな笑みを浮かべた。

実は、この武将こそ「明智光秀」だったのである。

光秀がなぜ本能寺に「織田信長」を討ったのかは諸説がありはっきりとはしない。

この天正10年6月2日こそ、俗に言う「本能寺の変」で明智光秀が織田信長を討った日であり、その後、光秀は領土である丹波へ急ぐ途中であったのである。

「見事言い当てた褒美じゃ、何でも望みの品を取らせてやろう。望みは何じゃ」

光秀は信長を討ち、気持ちが高揚していたのではないだろうか。

伊平は少し考えてからこう言った。

「水が欲しいです。この地は水源がないために百姓はいつも血の出るような苦労を重ねています。用水路でもあれば救われます」

光秀は、その願いを聞き入れてさっそく用水路を作るように手配したと言う。

こうして出来上がったのが嵐山一ノ堰・・・松尾・・・樫原・・・向日町へと続く小畑川だそうだ。

この用水路のお陰で樫原一帯は水不足から開放され、実り多い土地になったのであった。

しかし、この伝説には疑問や矛盾が多い。

俗に三日天下と言われるように、明智光秀は信長を討ったものの三日後の天王山の戦いで豊臣秀吉に破れて落ち延びる途中で土民に殺されたと言われている。

三日で用水路ができるわけも無く、また光秀も味方を集めなければならずそれどころではない状況だったと思う。

伊平と言う人物も実在の証が無い。

ただ、この付近のお百姓達が水に困っていたのは事実だし、用水路も必要があって作られたのも現実である。

推測として、明智光秀は丹波地方を平定して領地とし、一帯の道路や池などを整備していく中で、この樫原地域にも用水路を造ったのではないだろうか。

そして、この樫原地域が光秀に対して従属していたのだろうとも推測される。

また、この樫原周辺は五世紀ごろ朝鮮から帰化した秦氏が開墾し、古くから農業が盛んな地域だったと言われ、基礎になる水路はもともとは秦氏が造り、明智光秀が再整備したのではないかと言う説もあるそうだ。

いずれにしても、光秀が天王山で敗れてからは明智光秀の名前が付く物は問題視される恐れがあっただろうに、それでも明智川の名前が残されたのは地域と光秀との繋がりを感じさせる。

当時の人達が水不足に困っていたのは深刻な事態であったろうし、それが用水路によって救われたのも事実であろう。

明智川の別名を持つ用水路は現在でも付近の農家の田畑を潤して多くの恩恵をもたらせているのである。