花の生涯
京都の左京区の一乗寺の地に「金福寺」と言うお寺がある。

「松尾芭蕉」に所縁のお寺で、「芭蕉庵」という茶室もあるが、この茶室を再建したのが「与謝野蕪村」だそうで、境内には与謝野蕪村をはじめ一門の人達の墓が祀られている。

この金福寺の入り口の左側に、小さな弁天堂が祀られている。

NHKの大河ドラマにもなった、舟橋聖一さんの著作「花の生涯」のヒロインであった「村山たか女」(村山可寿恵とも言う)に所縁の弁天堂であるのだ。

村山たか女は、文化6年(1809年)に近江の国の多賀大社の尊勝院主の尊賀少僧都を父とし、母は多賀社般若院住職の妹(彦根の芸妓など諸説もある)であり、世間体をはばかって寺侍の村山氏にあずけられて育ったと言う。

村山可寿江と言う名前で呼ばれており、 幼い頃より三味線や和歌や舞、それに華道や茶道も仕込まれたそうで、当時の女性としては充分なたしなみを身につけていたようだ。

やがて18歳の娘へと成長した可寿江は、彦根藩主の井伊家に侍女として奉公したが武家勤めは性にあわなかったようで、しばらくすると井伊家を辞して京へ出ると祇園の芸者になったと言う。

彼女の芸達者と美貌が受けて売れっ子の芸者「可寿江」となり、金閣寺の僧に身請けされて北野の付近に囲われるようになった。

しばらくすると金閣寺の僧との間に「帯刀」(たてわき)と言う男子をもうけたが、やはりここでも僧が愛人に子供を産ませたとなっては世間体が問題となり、金閣寺の寺侍の多田源左衛門に譲られてしまう。

そういう境遇に嫌気が差したのか、たか女は息子の帯刀を連れて近江の彦根に戻って暮らすようになったと言う。

そういう日々の中で、ある歌会に出かけた「たか女」が出会ったのが、当時はまだ部屋住みの生活をおくっていた「井伊直弼」(いいなおすけ)、後の井伊大老である。

村山たか女と井伊直弼は惹かれるものがあったのか急速に親しくなり、たか女は直弼の愛人のような関係になる。

また、直弼とたか女の元へは後に井伊直弼の腹心となる国学者の「長野主膳」も出入りするようになった。

やがて時代は黒船来航によった開国問題と共に、尊皇攘夷の活動が激しくなってきたのである。

彦根藩の藩主となっていた井伊直弼は、将軍家の世継問題で、紀伊の「徳川慶福」(14代将軍、徳川家茂)を推して、攘夷派の「一橋慶喜」(15代将軍、徳川慶喜)を推す「水戸斉昭」との対立があったが、老中の堀田正睦らの要請もあり、大老職に就任した。

こうして井伊大老となった直弼は、朝廷に圧力をかけるなどして「日米修交通商条約」の調印を断行し、それに反対する水戸派や攘夷浪士らを大量に逮捕し処罰した、後に言う「安政の大獄」である。

また井伊直弼は、開国主義を進めていて、政局の中心となった京へ長野主膳を遣わして反対派の弾圧を行なっていた。

村山たか女も、京で長野主膳の手先となって、御高祖頭巾(おこそずきん)で顔を隠して働いていた、たか女は主膳に惹かれていたのだとも言う。

こうして京を舞台とした殺伐とした時代と変わっていく。

そういう中で、村山たか女は井伊大老の政策を助けるために、隠密として攘夷論者たちの情報を長野主膳に流していた。

しかし、井伊大老のそういう強引なやり方は恨みや敵をつくり、万延元年(1860年)3月、雪の降る江戸城の桜田門外で、井伊直弼は水戸浪士らによって殺害されてしまう。

こうした時流の変化により、たか女の身近にも危険が迫るようになってきて、井伊直弼の右腕として活躍していた長野主膳も藩によって斬罪に処せられて、たか女と一緒に情報収集していた仲間である九条関白家の島田左近も天誅として殺害されてしまった。

たか女は、息子の帯刀とともに京の北野の地に身を潜めて隠れ住んでいたが、文久2年(1862年)にとうとう浪士達に踏み込まれてしまう。

その時の浪士の中には、土佐の「岡田以蔵」や、人斬り新兵衛と呼ばれた薩摩の田中新兵衛も含まれていたと言われている。

たか女は捕らえられ、帯刀も一度は逃れたものの再び捕らえられて惨殺されたと言う。

そして村山たか女は、女だと言う事で命は助けられたが、寒風の三条河原において薄着姿で両腕と腰を荒縄で縛られて、三日三晩の生き晒しにされてしまう。

「村山かずえ、この女、長野主膳の妾にて戌牛年以来、主膳の奸計助け稀なる大胆不敵の所業をすすめ、赦すべからざる罪科にこれあり候えども、その女たるをもって面縛転の上、死罪一等これを減ず」

これが、村山たか女が生き晒しにされた時の高札書きである。

たか女は、我が子の帯刀を殺され、直弼や主膳も失い、女の身として生き晒しと辱めを三日三晩受けて、身も心もぼろぼろになって縄目を解かれることになる。

この当時で村山たか女は54歳くらいだったと思われる。

疲れ果てた村山たか女は、彦根の清涼寺に暮らすことになるのだが、ここでも平穏な生活は許されなかった。

その清涼寺には多くの雲水が修行していたので、そこに美しい女性がいたのでは男僧達の修行の妨げになってしまうのである。

そこで、たか女は知り合いの伝手を頼み、京の一乗寺にある「圓光寺」(えんこうじ)と言う尼寺に身を寄せて「妙寿」と言う名前をもらって尼僧になることになり、ようやく穏やかな生活が訪れたのである。

この圓光寺で、たか女は妙寿尼として修業を積み、その後、同じ一乗寺にある「金福寺」(こんぷくじ)に身を移して余生を過ごした。

金福寺には、村山たか女の遺品として位牌や筆蹟等が残されているが、始めに書いたように山門の横に「弁天堂」も建てられている。

たか女は、巳年の生まれで、巳は蛇として弁天様の使いであるために、弁天様を信仰していたと言う。

あの三日間の生き晒しの地獄に耐えられたのも弁天様の御加護があったから。

そう信じたたか女は、金福寺に弁天様を祀るお堂を建てようとして協力を求めた結果、芸妓の頃に贔屓してくれていた豪商などの寄付もあり、明治2年(1869年)に建立できたそうだ。

こうして、村山たか女(可寿江)は、妙寿尼として金福寺の寺守として穏やかに過ごし、やがて明治9年(1876年)に67歳で天寿を全うした。

しかし、その村山たか女の墓は、金福寺ではなく、尼となって修行した圓光寺に祀られている。

圓光寺の緑に囲まれた墓地の小さな墓に、妙寿尼こと村山たか女は静かに眠っており、墓石には「清光素省禅尼」の法名が彫られている。

波乱万丈とも言える人生を生きた村山たか女は、生き晒しの刑を受けるほどの奸婦だったのであろうか、それとも愛する男達のためには身命も辞さずに尽くした女性だったのであろうか。

時代の流れに翻弄され、愛する男や我が子さえも失った哀しい女性に思えるのは私だけであろうか。