弁慶石
京都の大繁華街である新京極だが、その新京極三条から三条通りを西に少し歩くと、あるビルの一角に大きな石が置かれている。

「弁慶石」と言われる石で、あの弁慶が五条橋(松原橋)から投げたとも、比叡山から投げたとも言われている石である。

いくら弁慶が力持ちでも、ここまで投げる事は不可能だと思うが、この弁慶石についても伝説が残されている。

この石は、むかし弁慶が幼少の頃に今の三条京極の辺りに住んでいたとされ、その地にこの石も置かれていて弁慶も気に入って可愛がっていたそうである。

時が過ぎ、弁慶はやがて義経を護って奥州に逃れ、平泉の高館で弁慶は、持仏堂に籠もる義経を守るため全身矢だらけになりながら、仁王立ちになり義経と共に最後を向かえることになる。

その豪傑・弁慶を慰めるためにか、この石は京極から奥州へ移されてしまったそうだ。

しかし、この石は奥州に移されたのが気に入らないのか、ある日から「三条京極に往かん」と大声で怒鳴るようになったと言う。

それと関連してか高館地方に熱病が蔓延するようになったので人々は、これは弁慶の祟りではないか、この石を生まれ故郷の京都に帰そうと言うことになったそうだ。

こうして室町時代の享徳3年(1454年)になってこの石を三条京極に移して、それからこの町内を「弁慶石町」と名付けられたそうである。

今でも、この辺りは弁慶石町と言う名であるが、その後に明治26年(1893年)にこの弁慶石は、弁慶石町の有志によって町内の物として引き取られて現在の位置に据えられたそうだ。

以来、この弁慶石は町内の守り神として祀られて、男の子が触ると力持ちになるとか、火事や病魔を防いでくれると言い伝えられていると聞く。

しかし、昭和9年(1934年)になって某銀行が当時の弁慶石の土地を持っていた呉服屋から石を買い取り、弁慶石を移動させて据え、比叡山から僧を呼んで祈祷させたと言う。

ところが、僧が祈祷を終えて帰ってしまうと突然の嵐となり、大雨が降り強風で瓦が飛んだり、家が潰れたりしたそうで、これが室戸台風だったとも言われている。

その後は、弁慶石は土地の持ち主は変わっても変わらずに据えられているようだが、ある行者が訪ねてきて祈祷して息を吹きかけると、弁慶石は「ピューピュー」と弁慶を恋い慕って泣いたとの話もある。

今の弁慶石は建物の敷地の三条通りに面したしゃれた場所に据えられているが目立たないのか、気がつかずに通り過ぎる人も多いそうである。