待賢門院
白河法皇には祇園女御(ぎおんにょうご)という一番のお気に入りの愛人がいましたが、祇園女御は、ある女子を養子にしていました。

この子が後に待賢門院(たいけんもんいん)と呼ばれる、権大納言(ごんだいなごん)藤原公美(きんざね)の子、璋子でした。

その子は非常に美しく、白河法皇は文字どおり目に入れても痛くないほど可愛がっていましたが、やがて璋子が少女に育つうち、ついに白河法皇と璋子は男女の関係に発展してしまいます。

いくら性におおらかな平安時代でも親子間(たとえ養子でも)の恋愛は御法度でした。

後ろめたさを覚えた法皇は、璋子を自分の実孫の15才の鳥羽天皇と結婚させますが、この結婚は、あまり上手くいきませんでした。

しばらくすると璋子と法皇は、また逢瀬を重ねるようになり、やがて二人の間に、後の崇徳天皇(すとくてんのう)が生まれます。

この時より璋子は待賢門院と名乗るようになります。

崇徳天皇が生まれた頃から鳥羽天皇と璋子の仲も良くなりはじめ、鳥羽天皇の実子として後白河天皇も生まれます。

さて、その祇園女御と白河法皇といえば、この祇園女御には子供がいなかったので、藤原公実の末の娘を養女にしたのですね。

この女の子が璋子と言う非常に美しい娘で、なんと白河法皇に愛されるようになってしまう。

それだけならまだしも、白河法皇はこの璋子を孫の鳥羽天皇に与えるんですね、そして男の子が生まれるのですが、この男の子が白河法皇の子なのでは言われています・・・そう、それが崇徳天皇になるんですね。

璋子は待賢門院と言うことになります。

あと祇園女御といえば清盛の母だと言う話もあるようですが、こちらの真偽はいかがでしょう。