2018年09月の記事


24時間不断念仏会
京都の清浄華院さんの24時間不断念仏会に参加しました。。

清浄華院さんでは、毎年の9月末に24時間不断念仏会を行われます。

これは、24時間を途絶えずに誰かが「なむあみだぶつ」とお念仏を唱えようと言う企画で、お堂には絶えず誰かが木魚を叩いてお念仏を唱えています。

今年も9月29日午後1時から、翌日の30日午後1時まで行われます。

参加は自由で、参加料金5000円の正式な参加から、参加料金500円の短い時間の参加まで自分の都合で選べます。

もちろん、途中で休んだり食事したり、一旦抜けて外出するのも大丈夫ですし、途中で辞めて帰っても大丈夫です。

インターネットでライブ配信もされてまして、自宅で自由に参加する事も出来ますし、世界の会場で行われている様子が会場のスクリーンに映されたりもします。

私は、500円の短い時間での参加を申し込みまして、開始から30分程度まで木魚を叩いて「なむあみだぶつ」と唱えていました。

30分と短い時間の参加でしたが、みんなでやっている事で一体感や連帯感も感じられて良かったです。

台風が来なければ、また30日も参加したく思っていました。
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寺リウム
京都の東福寺さんへ行って来ました。

前に行った、建仁寺さんで行われている苔朱印と寺リウムが東福寺さんでも展示されてるので見たくなりました。

東福寺さんも紅葉の時期になると大混雑になりますしね、今のうちの空いてる時期が良いですね。

それでも、東福寺さんが」外国人観光客に人気でたくさん来られてますね。

拝観して中に入ると、お堂の外に苔朱印と寺リウムが展示されていました。

苔朱印は、東福寺の御朱印を、苔で再現されてて良いですね。

立てても落ちないのが不思議です。

寺リウムでは、グラスの中にお庭や東福寺さんの建物とか再現されています。

グラスの中にお庭を造るのってやってみたくなりますね。

観光客も思ったよりも少なくて、のんびり見て楽しめました。
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永観堂
京都の永観堂さんこと禅林寺さんへ行って来ました。

紅葉の時期には混雑するので、ゆっくりお参りできる空いている時期に行くことにしました。

永観堂さんは、御本尊の見返り阿弥陀さんが知られています。

当時、住職だった永観が阿弥陀如来の周囲を行道していると、阿弥陀如来が須弥壇から下りて、永観と一緒に歩き始めました。

驚いた永観が立ち止めると、阿弥陀如来は振り返って「永観遅いぞ」と言ったと言います。

それ以来、阿弥陀如来の首の向きが元に戻らず、そのままの姿なので見返り阿弥陀と呼ばれるようになりました。

また、永観堂さんは紅葉の名所として有名で、毎年の紅葉の時期には多くの方が押し掛けてます。

まだ紅葉には早いですが、木々は色づき始めていました。

気温はまだまだ高いですが秋の気配は感じられますね。

紅葉はまだですが、ゆっくりと楽しむことが出来ました。
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苔朱印
京都の建仁寺さんで苔朱印を見て来ましたよ。

これは、JR東海が9月1日~11月末の期間で行われるキャンペーン「モシュ印・コケ寺リウム」の一環で建仁寺さんの御朱印を苔で再現されています。

苔朱印と書いてモシュ印だそうです。

他にも、京都の三千院・圓光寺・建仁寺・東福寺・常寂光寺で、こけ寺リウムが展示されています。


こけ寺リウムは、苔+寺リウムで、グラスの中に苔をモチーフにしたそれぞれのお寺のお庭や建物が再現された物です。

グラスの中の苔の世界が素晴らしくて、見ていて癒されますね。

秋の京都を楽しまれるのに、御朱印だけでなく、参加寺院を見て回られてはいかがでしょうか。
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晴明祭
京都の晴明神社さんへ行ってきました。

晴明神社さんは、有名な陰陽師の安倍晴明の住居跡(実際はもっと東辺)とされる場所に建てられた神社で、安倍晴明をお祀りしている神社です。

しばらく荒廃していた時期もありましたが、安倍晴明人気が高まって行く中で、神社も隆盛していきました。

9月23日は晴明祭が行われるので行って来ました。

神社のも門前には多くの露店が並んで賑わっていました。

また境内にはいろいろな神輿が置かれていて、お祭りの雰囲気が盛り上がり多くの方が参拝に訪れていました。

晴明神社さんは何度もお詣りさせていただいてますが、お祭りでいつもと違う雰囲気だったので楽しくお詣り出来ました。
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豊国神社にて
京都の豊国神社と言えば豊臣秀吉を祭神とした神社ですね。

秀吉の命日である9月18日には例祭が行われ、年の一度の限定の御朱印が出るので多くの人で行列が出来る人気です。

その、命日であり例祭で賑わう中で、因縁を感じてしまう事件が起きたそうです。

午後3時頃の多くの人で賑わう中で、宮司さんの子息が賽銭箱の現金を回収に行くと、年配の男が賽銭箱に棒を差し込んでお金を盗もうとしていました。

男が逃げようとした所を取り押さえて警察に連絡し、窃盗の容疑で逮捕されたそうです。

賽銭箱からは千円が盗まれたそうです。

豊国神社のさい銭箱から現金を盗んだとして、京都府警東山署は18日、窃盗の疑いで、住居不定無職の豊福秀次容疑者(64)を逮捕しました。

御存じのように、秀次は秀吉の甥で子供の出来ない秀吉に跡継ぎの地位を与えられますが、秀吉に秀頼が生まれると、秀頼に継がせるためには秀次がじゃまになり、理由を付けて切腹させ、妻子や一族まで三条河原で処刑させてしまいます。

秀吉の命日の例祭の日に、豊福秀次と言う一字違いの人が賽銭泥棒するって、出来すぎた話で、何か因縁を感じてしまいます。
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リハーサル
今日は嵯峨野にある大覚寺へ行ってきました。

台風の被害で、まだ拝観出来ない箇所もありますが、徐々に復旧も進んでいます。

10月には60年に1度の戊戌開封法会が始まるので、その準備も進められています。

お庭にはたくさんの僧侶の方が集まって、何か儀式らしきものをされてるので何だろうと思ってみてました。

どうやら戊戌開封法会の何かの儀式のリハーサルをされてたのでしょうね。

いろいろと打ち合わせされながらリハーサルされてるのもレアな光景ですね。

間違えたら叱られたりするのでしょうかね。

本番も見たい気がしますが、多くの人の混雑で見てられないでしょうね。

戊戌開封法会も落ち着いたら行く気ですし楽しみです。
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アート仏具にふれてみよう
京都の知恩院で開催された「アート仏具にふれてみよう!」のイベントに参加しました。

これは、普段は目にする機会の少ない大木魚やウルトラマン木魚などに触れ、実際に木魚を叩いてお念仏を唱え、教えを身近に感じてもらおうと言う企画でした。

参加者は、案内してもらいながら知恩院のお堂をツアーのように周り、工事中で普段は通れないところも歩けたりします。

観音堂では、三河仏壇職人兼デザイナーの都築数明さんがデザインして造られた、ウルトラマン木魚や和田アキ子木魚等が展示されており、実際に触れたり叩いたりも出来ます。

また、都築さんのお話も興味深かったです。

その後は、本堂にお参りした後に別の仏間で参加者がそれぞれ木魚を持ち、法話をうかがった後で、木魚を叩いてお念仏を唱えました。

割とがっつりお念仏を唱えたので足が痺れてしまいました。

最後は、別の部屋に移動してお菓子と抹茶をいただいて、アンケートを書いて特別御朱印をいただいて終わりです。

これだけ盛りだくさんで参加費は無料なのも良いですね。

お子さんからお年寄りまで幅広く参加されてました。

いろいろと楽しかったですし、また機会があれば参加したいです。
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復旧の歩み
先日の台風から1週間が過ぎました。

少しずつですが復旧も進んでいますが、まだ停電が続いているあるようです。

京都の寺社も大きな被害から復旧を進めていて、大覚寺や粟光明寺も拝観を再開されました。

しかし、まだまだ倒木など手がつけられない所も多く、大きな物など倒れたままになっています。

私もあちこちお参りしては、わずかですが寄付させていただいています。

京都は、秋には観光シーズンになりますし、復旧が間に合ってくれればと願っております。
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若冲忌
京都の石峰寺さんで、若冲忌にお参りしてきました。

石峰寺さんは、伊藤若冲が晩年を過ごしたお寺で、若冲のお墓があるお寺です。

また、若冲が下絵を描いた五百羅漢の石仏が有名です。

9月10日は、伊藤若冲の命日とされて、毎年に若冲忌の法要が行われて、若冲の特別展も行われます。

あいにくの雨降りでしたが、若冲忌に出掛けました。

先日の台風の被害でたくさんの倒木があり、山にある五百羅漢の石仏は拝観停止になっていて残念でした。

若冲忌の法要は、一般参拝者は本堂の外での参加になりますが、参列させていただいて焼香もさせていただきました。

伊藤若冲の関係で、伊藤若冲の菩提寺の宝蔵寺のご住職も参列されていて法要後にご挨拶させていただきました。

若冲のお墓にもお参りし、若冲の特別展も見せていただきました。

雨の中での法要でしたが、普段から何かと若冲と関わりがありますので、若冲忌に参列出来てお墓にもお参りして、若冲の作品もいろいろ見れましたし満足して帰れました。

倒木での五百羅漢の被害が早く復旧されるように願っております。
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乙訓寺
京都府の長岡京市今里弘野、長岡三小学校の南側に「乙訓寺」と言う古刹がある、聖徳太子の創建とも言われている。

今は「ぼたんの寺」として親しまれているが、いろいろな伝説を持つ歴史のあるお寺で、「早良親王」(さわらしんのう)の幽閉された寺として有名である。

「桓武天皇」(かんむてんのう)は平城京から長岡京への遷都を考えていた。

長岡京は、今の京都市の西南の向日市や長岡京市の辺りだったと言われている。

その長岡京の造営は延暦3年(784年)6月に始まったとされているが、まだ工事が続いている11月に早くも長岡京に遷都して移ってしまう。

平城京での旧勢力からの一新、あるいは皇位継承にまつわる政敵ら怨霊の祟りからの逃亡など、いろいろな理由があげられている。

長岡京の造営工事は、そのまま続けられていたが、一年後の延暦4年(785年)9月に、長岡京の造営工事の責任者とも言える「藤原種継」(ふじわらたねつぐ)が夜間視察中に何者かに2本の矢に射られて殺されると言う事件が起きる。

殺害された藤原種継は桓武天皇の股肱の臣であり、長岡京の造営責任者でもあるので、単に殺人と言うよりも桓武天皇に対する造反やクーデター的な意味も含まれ、桓武天皇はその日は長岡京を離れて大和の平城京にいたのだが、種継が殺害された報せを受けると急いで翌日には長岡京に戻ると、ただちに犯人を捜す捜査がおこなわれた。

そして捜査の結果、弓の名手と言われていた衛府の舎人である「伯耆桴麻呂」(ほうきのふまろ)「牝鹿木積麻呂」(めかぎのせきまろ)の二人が実行犯としてあげられ、さらに皇太子(早良親王)付きの役人である「大伴竹良」(おおともちくりょう)が現場の指揮者としてとして捕らえられた。

さらに厳しい取調べの結果、捕らえられた三人の自白により暗殺を命じたのは大伴竹良の他に、主税頭の「大伴真麻呂」(おおとものままろ)・左少弁の「佐伯高成」(さえきのたかなり)であることが判明し、さらなる取調べで事件の背後にある大物で左少弁の「大伴継人」(おおとものつぐひと)と春宮主書の「首多治比浜人」(おびとたじひのはまひと)らの皇太子の早良親王に近い人物が判明して捕縛される。

こうして大伴氏や佐伯氏らの人々が捕らえられたが、首謀者とされる大伴継人は遣唐使だった大伴古麻呂の子供で、「大伴家持」(おおとものやかもち)のいとこにあたり、家持と共に大伴一族の中心的な人物である。

やがて、首謀者として捕らえられた大伴継人は取調べで次のように自白したと言われている。

「故人の中納言大伴家持が謀り、大伴と佐伯の両氏に種継を除くように告げた。そして皇太子の早良親王に申し上げて種継の暗殺を実行した」

名前の出た大伴家持は歌人としても有名で、事件の起る少し前に亡くなっていた。

さらに関わったと言われた早良親王は、桓武天皇の弟で皇太子の立場であり次の天皇を継ぐ人物で、継人の証言により計画に連座したとして早良親王と側近の人間も数人が捕らえられる重大な事態になった。

早良親王の側近が関わってはいたが、早良親王がほんとうに関与していたのかどうか継人の証言だけではある、しかし家持も継人も早良親王と親しい間であるのは事実である。

事件の真相は不明な部分もあるのだが、桓武天皇が弟の早良親王よりも実子の「安殿親王」(あてしんのう)を皇太子にしたいと考えていたと言われ、そのためには早良親王を廃す必要があり、そのために藤原種継の暗殺を謀ったとも、その死を利用したとも言う説もあり、いずれにしても皇太子である早良親王は「乙訓寺」に幽閉されて廃太子となり、桓武天皇としては都合の良い事態になっていく。

早良親王は取り調べに対して無関係を主張し冤罪を申し立てて、潔白を証明するために物を食べずに絶食を続けた、怒りと抗議の断食だと言われている。

しかし、桓武天皇の側にとっては、我が子の安殿親王を世継にするには早良親王はこのまま排除するのが都合が良い。

早良親王の抗議の絶食も空しく、やがて淡路島への配流が決まってしまう。

そして、早良親王は淡路島への護送の途中の淀川の高瀬橋の辺りで、絶食を続けたために体力が落ちていたからか息絶えてしまったと言われている。

ほんとうに早良新王が事件に関わったかどうかは不明で真相は判らないが、死ぬまでに絶食を続けて抗議した早良新王は怒りと無念の壮絶な死だったと言われている。

さらに、死しても早良親王は許される事は無く、親王の遺体は船に乗せられて配流先の淡路島に運ばれて流罪とされ、その地でようやく葬られたとされている。

これらの仕打ちに対して早良親王の怒りや怨みはいかほどだったであろう、やがて、早良親王の怨念は「怨霊」となって桓武天皇や周囲の人々、あるいは長岡京に祟る事になるのだが、その話はまた他の伝説としていずれの機会に書きたいと思う。

ちなみに、殺害された藤原種継の娘が「藤原薬子」であり、安殿親王が即位した「平城天皇」(へいぜいてんのう)を巻き込んだ「薬子の乱」に繋がって行くのも因果だろうか。

やがて、長岡京は怨霊の祟りと言われる天災や疫病、桓武天皇の周囲の人間の死や病気などにより、わずか11年後の延暦13年(794年)に新たに京都に「平安京」を造って遷都してしまう。


その後、弘仁2年(811年)になり、遣唐使から戻った空海が乙訓寺の別当に任じられて乙訓寺に向かう。

平安京から、かっての長岡京の地の乙訓寺に着いた空海は荒れ果てた様子に驚いてしまう。

かっては奈良の東大寺と並ぶと言われたほどの乙訓寺も、垣は倒れお堂は雨漏りするほどの荒れようだったそうだ。

そこで、空海はまず早良親王の霊を慰め、民衆を救済しようと八幡大菩薩の像を自ら作ることを思い立つが、なかなか作りたい八幡大菩薩の姿が思い浮かんでこない。

あれこれと思い悩む空海が、ある夜まどろんでいると目の前に一人の老翁が現れて

「大師(空海)は、私の首を作りたまえ、私は大師の身体を作りましょう、それが世の守りとなるでしょう」

そう告げると姿を消してしまった。

空海は、これは八幡大菩薩が老翁に姿を変えて現れてくださったのだと思い、言われた通りに大菩薩の首を作ろうとすると、あれほど悩んでいた姿が脳裏に浮かぶようになり、やがて大菩薩の首から上が出来上がった。

すると、またもや老翁が現れると約束した空海の身体の像を渡すと立ち去った。

空海がその像を見ると、自分の作った大菩薩の像と一人の人間が作ったようによく出来ていた。

そして、空海が作った大菩薩の首と、老翁が作った空海の身体の像はぴたりと合わさり、見事な仏像が出来上がったそうだ。

この首から上が八幡大菩薩で、身体が空海と言う仏像は「合体大師」と呼ばれる、乙訓寺の秘仏になったと言われている。

その後、時が去り戦国の世になって長岡の地が兵火で焼かれ乙訓寺も本堂や宿坊も焼かれたが、この合体大師の像だけは焼け跡一つ着かなかったと言われている。

この合体大師の像は本堂に祀られて、江戸時代には33年に一度の御開帳だったそうだが、明治以降は秘仏として開帳されることはないそうだ。


さらに、時代が下り慶応年間で世情が勤皇か佐幕かで揺れている時期の事。

乙訓地域は日照りが続き、田植えの時期になっても田畑に水はなく旱魃に苦しんでいた。

乙訓寺は雨乞いの竜神も祀っていたので、この地域の雨乞いで知られており、お寺で櫓を組んで火を焚き、雨乞いの祈祷をして、その火を持って帰るのが慣わしだったそうだ。

そこで、この年も乙訓寺の竜神様に雨乞いをお願いしようと言う事になり、付近の村人は乙訓寺に集まって櫓を組んで火を焚き、僧正の雨乞いの祈祷が始まると、村人は竜神様の祠に手を合わせ、櫓の周りを周ってお百度を踏んだが、なかなか雨は降りそうにない。

雨乞いの祈祷は数日も続いたがそれでも日照りで雨が降る気配はない。

村人にも疲れの色が濃くなってきた時、ある村人が驚きの声を上げた。

村人達が声のする方を見ると、竜神様の祠の前にある不動堂の板の間に、体長が5メートルをゆうに越えそうな大蛇が身を横たえている。

「これは竜神様が大蛇に身を変えて姿を現したのかも知れない、乙訓寺には大蛇がでると雨が降ると言う言い伝えも残っているのじゃ」

村の長老がそう言って大蛇に近づくと、頭の方に向かって手を合わせて祈り出した。

始めは大蛇に恐がっていた村人も、やがて長老を真似て大蛇に祈り出すようになった。

しばらく祈りが続いても、まだ雨は降りそうにない。

やがて、祈りつづけた村人も疲労がたまってきて、一人二人と家に帰りだした。

そうした時だ。

憎いほどに晴れていた空に蛇の形に見える黒雲が現れたかと思うと、雲が空一面を覆いつくし、暗くなったかと思うと雨が降り出した。

「やはり大蛇は竜神様の化身だったか」

そう言うと村人達はそれぞれに田畑に向かうと、どしゃ降りの雨で水が溜まっていく水田で田植えを急いだ。

雨はその後も降り続き、降り過ぎて困る所もあったそうだが、概ねの田畑では旱魃から救われて、豊作の秋を迎えられたそうだ。

また、後日になって本堂の普請をした折に、大工が棟木に足をかけようとすると棟木が動いて驚いて逃げ出したと言う話もあったそうだ、大蛇が棟木に横たわっていたのだろう。

本堂の下の物入れの辺りには、時々に蛇の抜け殻が落ちていて、夏場は恐くて物入れを開けられないと言う話も噂されていると聞く。

竜神の祠は、以前は水のない所に祀ってあったので、住居の前に池を作り、今はそこに移されているようだ。

このように、古くから多くの伝説を持つ古寺だが、今も多くの人の信仰を集めている。
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閉鎖中
昨日は用事で桃山御陵へ行きましたが、道路に電柱が倒れたままで通行止めでした。

御陵の方も倒木が多くて閉鎖されてました。

台風の被害で京都の多くの寺社が被害を受けていて、拝観停止の所も多いですね。

各地で被害が出ててなかなか復興も進まないと思いますががんばってほしいです。
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祈ります
関西の台風に続き、北海道で大きな地震がおきました。

あちこちで様々な被害が出ているようですし、被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げますと供に、一刻も早い救出や救護を願うばかりです。

1日も早い復興をお祈りいたします。
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台風被害
昨日の台風は各地で大きな被害を出していますね。

京都の寺院でもお庭や樹木が被害がでていました。

毘沙門堂門跡さんは山のお寺なので、枝が折れ葉が散って地面を覆っていました。

また、奥の弁財天では横の大木が倒れて、お堂にのしかかってしまいました。

倒れた木を何とかするだけでも大変だと思います。

大徳寺さんでは、庭の木が横でポッキリと折れて倒れていました。

木を折ってしまう台風の強さが怖いですね。

他にも、多くの寺院でお庭やお堂に被害を受けて、拝観停止になっています。

小さなお寺とかいろいろと大変だと思いますが、早く修復できて復旧出来たら良いですね。

また犠牲や被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。
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台風
昨日は台風の風が凄かったですね、各地で被害が出ていますが、皆さまの所は大丈夫でしたでしょうか。

風で地震のように建物が揺れて、初めて風が怖いと思いました。

うちはアンテナが倒れたくらいでしたが、近隣ではいろいろ倒れたり落ちたりあったみたいです。

各地で大きな被害も出ていますね。

道路も倒木や崩れがありますし、まだまだ今日も気を付けてくださいね。

被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げます。
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田中神社
京都の下鳥羽にある田中神社へ行って来ました。

京都には田中神社と言う名前の神社は幾つかあるのですが、直接の関係はないみたいです。

この田中神社は、平安時代に祇園感神院(八坂神社)から牛頭天王を勧請して造られたそうです。

以前は別の場所にあったのですが、大洪水で社殿が流されて、現在の地に神殿は無傷で流れ着いたので神意として、この地に建て直したのだそうです。

馬の守り神となっているのがよく判らないのですが、神殿の左右に狛犬のように馬の木像が置かれています。

馬の木像を見ると雌雄ありそうですね(笑)

牛頭天王なら牛だと思うのですが、なぜ馬なのか考えてみますと、かつては交通の要所で馬に荷物を積んで往来していたり、付近の田畑に馬を使っていたりがあり、大事な馬の無事を祈願してたのではないでしょうか。

偶然なのか近くには淀の競馬場があるのですね、だから勝ち馬の祈願に来る方も多いみたいです。

また、境内には北向虫八幡宮のお社もあり、疳の虫封じなどに御利益があるそうです。

あまり有名な神社ではないですが、こういう静かで由緒のある神社を巡るのは楽しみですね。
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