2018年03月の記事


伏見大仏
京都の墨染にある伏見大仏こと欣浄寺さんへ行って来ました。

普段は予約しないと拝観できないのですが、今日は御開帳があったので拝観できました。

小野小町との愛憎で知られる深草少将の所縁のお寺で、所縁の史跡や深草少将像も祀られています。

本堂にある伏見大仏は黒い身体で傷みは目立ちますが、なかなかの大きな大仏像でした。

念願の伏見大仏をようやく見れて良かったです。。
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袈裟御前
むかし、平安時代の平家が全盛を誇っていた京都でのお話です。

院の御所を警備する北面の武士である遠藤左近将監茂遠の子息に盛遠と言う若者がありました。

盛遠は子供の頃に父母と死別し、父の繁遠の妹になる衣川に引き取られて養育されていました。

叔母の衣川は、京の公家に仕えた後に結婚し、夫と共に奥州の平泉に赴いて袈裟と言う女の子をもうけたのでしたが、夫に死別してから故郷の京に娘の袈裟と共に戻っており、孤児ととなった盛遠を引き取ったのでした。

盛遠は、一緒に暮らすうちに袈裟に対して恋心を抱いて慕うようになりましたが、思いを秘めたままに過ごすうちに袈裟も16歳の乙女に成長し、縁があって源左衛門尉渡の妻になると、盛遠もやがて家を出て父のあとを継ぎ、二人は離れ離れになりました。

それから3年が過ぎ、渡辺橋と言う橋が完成し、その完成を祝った橋供養の日に、りっぱな若武者に成長した盛遠が、配下の郎党を引き連れて警護にあたっておりました。

橋の上では多くの僧侶による供養が行われており、近郷近在の老若男女が集まるなか、橋のたもとの桟敷には身分のある女房たちも輿に乗って見物しておりました。

やがて、橋供養も終って人々が帰り始めた時に、盛遠は桟敷の女房たちの中に遠目にも美しい女を見かけて驚きました。

それは、あの袈裟だったのです、盛遠は身体に熱い思いが沸き起こり、その場に立ちすくんでしまうのでした。

その日から、盛遠は湧き上がる袈裟への想いで、もんもんと恋心を募らせて眠れぬ夜を過ごしましたが、袈裟は渡を夫とする人妻の身でどうにもなりません。

盛遠は、それでも自分の恋心を抑えて我慢してきましたが、とうとう苦しい思いに我慢できなくなり、やがて、意を決して叔母の衣川の家に押しかけました。

盛遠は、叔母の衣川に会うと

「袈裟が恋しくてならない、どうしても思いを遂げたい、それがならないなら、あなたを殺して自分も自害する」

そう言って叔母の衣川を脅します。

衣川は、幼い頃から盛遠を育ててますから、思い込んだら止まらない盛遠の性格も判っています。

思い悩み、怖れを感じた衣川は、やむなく仮病を使って娘の袈裟を呼び寄せると涙ながらにこれまでのいきさつを袈裟に打ち明けると

「やむなくお前を呼び出したが、どうにもならない事です、いっそお前の手で殺してほしい」

と袈裟に言うのですが、袈裟にはそんな事はできません。

しかたなく、袈裟はあきらめて盛遠の思いのままに従うのでした。

こうして無理やりに袈裟への思いを遂げた盛遠でしたが、ますます袈裟への思いは深まるばかりで、側から袈裟を放しません。

渡と言う愛しい夫を持つ身の袈裟は、自分の身を恥じると共にある決意を秘めると盛遠に言いました。

「私は夫のある身でこのままではどうにもなりません、そこで今夜、家に帰って夫の髪を洗い、酒を飲ませて酔いつぶして寝かせるから、濡れた髪を頼りに夫の首を刎ねてください、そうすれば一緒に暮らせます」

盛遠は喜んで袈裟を家に帰しました。

袈裟は、家に戻ると愛する夫と二人きりの酒宴を設けると、夫の渡を酔わせて袈裟の床に休ませると、筆をとり

~露深き浅茅が原に迷う身の、いとど闇路に入るぞ悲しき~

「露に濡れた浅茅が原に迷い込んだ私は、ますます暗い路に踏み込んでしまい、悲しい思いである」

そう辞世の歌を書くと、自分の髪を濡らした後に、燭台の灯りを消して、渡の床に代わって休みました。

夜が更けると盛遠は闇夜に紛れて渡の邸に忍び込むと、二人の寝所に入ると、暗闇の中に手探りで夫の床に濡れた髪を見つけると、これこそ渡だと思い、刀を抜いて首を刎ねると袖にくるんで持ち帰りました。

盛遠が、灯りのある所で首を見ると、それは渡ではなく恋焦がれている袈裟の首でした。

盛遠は自分の行いの結果を嘆くと共に深く悔い、頭を剃って出家すると仏門に入り菩提を弔いながら、やがて文覚上人となったそうです。
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滝口と横笛
京都でも人気の観光スポットに嵯峨野の地があるが、その嵯峨野の西北の辺りに平家物語に所縁の「祗王寺」と「滝口寺」と呼ばれるお寺が隣り合うようにある。

祗王寺が先にあり、滝口寺は奥の石段を登っていくからか滝口寺のほうが少し人が少ないように思う。

滝口寺は、元は往生院三宝寺と言ったらしいが、今では滝口寺で通っているそうだ。

そして、その滝口寺の名前の由来ともなった「平家物語」に所縁の滝口入道と横笛の悲恋の伝説の残るお寺である。

むかし、平家が全盛の頃の話しだが、平清盛の娘で安徳天皇の母である建礼門院に、「横笛」と言うたいへん美しい女性が仕えていた。

ある日、建礼門院の兄の平重盛の家臣で「斎藤滝口時頼」と言う武士が、清盛の西八条での花見の宴で、建礼門院に仕えている女官の横笛に一目惚れしてしまう。

それからというもの、時頼は横笛の事が頭から離れず、恋しい思いは募るばかりとなる。

そんな時頼の様子を不信に思った乳母が、時頼にどうしたのか訊ねてみると、時頼はこれこれと横笛への思いを打ち明けた。

乳母は、時頼に横笛への文を書くように勧めて、時頼は横笛への想いを歌にする。

~人はいざ 思ひも寄らじ わが恋の 下に焦がれて 燃える心を~

~君ゆえに 流す涙の 露ほども われを思はば うれしからまし~

こうして、時頼は、横笛への思いを綴った歌を詠むと横笛に届けさせた。

横笛は時頼から思いを告げられ驚いたが、

~埋み火に 下に焦がるると 聞くからに 消えなん後ぞ さびしからまし~

「灰の下に埋めた炭火のように、恋しく思ってくださると聞くにつけ、その火が消えた後はさぞかし寂しいことでしょうね」

そのように返歌を作って時頼に届けさせるのである。

それから時頼と横笛は文を交わして愛し合うようになり、硬い契りも結んで幸せな日々が続いていた。

しかし、やがて二人の事が時頼の父の茂頼の耳に入ると、父の茂頼ははげしく怒って二人の間を反対し、意見しても時頼が聞かないと、とうとう時頼を勘当することになってしまう。

時頼にはどうすることもできずに、ままならない世を儚み、横笛の所に向かい一夜を供にすると愛用の笛を残して立ち去っていった。

時頼は、世を捨てて髪を下ろして僧衣になると、滝口入道となって嵯峨の往生院というお寺に篭もって僧の修行をして暮らして行くことになる。

横笛は、事情も判らずにただ夕暮れになると恋しい滝口が訪ねてくるのをひたすら待ったが、滝口に会えないまま空しく月日が過ぎていくだけだった。

ところが、ある日、横笛は滝口が世を儚んで僧になり、嵯峨の往生院で修行をしていると耳にする。

横笛は滝口に会いたくてたまらずに、屋敷を抜け出すと滝口のいると言う嵯峨の往生院を訪ねて行ってしまう。

横笛が往生院につくと、草深いお寺の中から恋しい滝口の読経の声が聞こえて来た。

「おねがいです、滝口様に会わせてください」

横笛のすがるような声は滝口の耳にも届いたが、自分は世を捨てて仏門に生きる身、心は苦しく乱れるが、ここで会っては修行の妨げになると心を鬼にして姿を見せようとはしないのだった。

そして、別の僧に頼んで

「ここにはお訪ねのような人はおられません、何かの間違いではないでしょうか」

そう横笛に告げさせた。

そう言われては横笛も仕方なく、泣く泣く帰る事にするのだが、どうしても自分の真心を伝えたくて、自分の指を切って、その血で近くにあった石に歌を書いて帰ったと言う。

~山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に我を導け~

その歌石がお寺の境内に残されている。

滝口と横笛の伝説には幾つかの話が残されているが、ここからのお話が違っているので二つとも紹介したいと思う。

まず、お寺に伝わるお話では、滝口は横笛を帰したものの、やはり自分の中に横笛への思いが残っているのを思い知らされる。

横笛に住まいを見つけられたので、また訪ねてくるかも知れないし、自分の中の想いを断ち切るためにも居場所を変えようと思い、滝口は高野山に登って修行に励む事になる。

すると、横笛も思う事があったのか、その後すぐに法華寺で尼になってしまう。

滝口は、その話を聞くと一首の歌を横笛に送った。

~そるまでは 恨みしかとも梓弓 まことの道に入るぞ嬉しき~

それを読んだ横笛も歌を返して

~そるとても 何か恨みむ梓弓 引きとどむべき心ならねば~

しかし、横笛はまもなく法華寺で亡くなってしまう。

滝口は、横笛の死を伝え聞くとますます仏道に励んで高野の聖と呼ばれる高僧になったと言う。


さて、先に書いたように、この伝説にはもう一つのお話も伝わっているが、こちらは哀れな話しである。

滝口を訪ねて追い返された帰り・・・横笛には、滝口の心が判らなくなってしまう。

想いあってるはずなのに、どうしてつれないのだろう・・・

横笛は、仕方なく泣きながら嵯峨野を彷徨ううちに大堰川にでると世を絶望し

「どうかあの世では滝口様と添えますように」

そう呟くと、まだ十七歳の身を川に投げてしまう。

滝口は報せを聞くと駆けつけて横笛の身にすがって泣き伏すがもう取り返しはつかない。

横笛に会っておればと嘆き、自分を責めさいなむのだった。

やがて、このまま嘆くよりも自分の命のある限り、せめて横笛の菩提を弔おうと思い、その後、滝口は高野山に登ると横笛を弔いながら修行に励んだと結ばれている。

滝口寺の境内には、平家と滝口の供養のために供養塔が建てられている。

また、本堂には滝口と横笛の木像も祀られているが、昔は年を召された庵主さんが滝口と横笛のお話を訪れた人に語って聞かせていたのが思い出される。
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那須与一
東山区にある泉涌寺の参道にある総門の横にあるお寺で、「即成院」(そくじょういん)と言うお寺が「那須の与市さん」の通称で親しまれている。

即成院は、元は正暦2年(991年)に恵心僧都よって伏見に建てられた光明院がはじまりだと言われている。

その後、寛治年間(1087~1094年)に関白・藤原頼通の子で伏見長者とも呼ばれた「橘俊綱」が造った広大な山荘の中に光明院が移されて「伏見寺」となったそうであり、さらに「即成就院」(さくじょうずいん)とも呼ばれるようになったそうだ。

やがて荒廃していったが建久6年(1195年)に、後白河法皇の皇女である宣陽門院と、法皇の寵妃であった高階栄子が後白河法皇を追悼して再建したとされている。

しかし、応仁の乱の兵火などで焼かれたり、秀吉が伏見城を築城のさいの移転などで転々としながら廃寺や合併などにあうが、明治になって現在の泉涌寺の塔頭として落ち着き、昭和になって「即成院」の名に還ったそうだ。

このお寺は「京のポックリ寺」としても知られており、苦しまずにポックリとやすらかな往生を願う老人のお参りも多いそうである、先に紹介した「今熊野」がボケ防止のお寺だったので、同じ泉涌寺の塔頭でボケ防止とポックリ寺があるのも不思議な繋がりである。

鳳凰だろうか、門の上に付けられた鳥のような形が印象深い。

さて、この即成院が「那須の与市さん」と通称されるのは、あの平家物語での弓矢の名手である「那須与一」(なすのよいち)に関わりのあるお寺だからである、「与一」と表記される事が多いが、ここでは「与市」とされているようだ。

与一は通称で、本名は「那須与一宗高」あるいは宗隆だそうだ。

那須与一は下野国(栃木県)那須郡の領主であった那須資隆の子だとされているようだが生没年は不明である。

那須資隆には12もの子供がいたと言われ、与一は11番目に生まれた子供で、10よりも一つ余った、あるいは与えられた意味から名付けられたそうである。

早くから弓の名手として知られていたそうだが、まだ20歳前の若さだったと言われている。

平家が一ノ谷の合戦で敗れて瀬戸内に逃れて、水軍を擁して再起を図っていた。

那須与一は、源義経の求めで平家討伐に向かうのだが、途中の京都で病にかかってしまい、その時に伏見にあった「即成就院」の阿弥陀如来に参拝して病気の回復を祈願したところ、病は癒えて元気になったのでお礼として堂宇を寄進し、阿弥陀如来像を念持仏として小像に刻んで持ち、義経の元に馳せ参じたそうである。

そして、元暦2年(1185年)の讃岐国の屋島での戦になる。

寒さの厳しい2月、屋島へ逃れた平家を追って、義経ら源氏軍は海路を阿波に上陸すると陸路で屋島に迫り、背後から平家を急襲するのだった。

この奇襲に驚いた平家軍は、船に乗って海へ逃げたのだが、源氏軍が案外少数と知って応戦し激しい攻防が繰り返されることになる。

しかし、源氏と平家はいずれも劣らずに両軍は激しく戦ったがなかなか勝負がつかなかった。

やがて夕方近くになり、源氏はひとまず海岸へ集まって休息していた時だった。

ふと見ると、美しく飾りつけた一隻の船が浜辺へ向かって漕ぎ寄せてくるではないか。

船のへさきには高い柱が建てられ、そのてっぺんに赤地に金色で日の丸を描いた立派な扇がくくりつけてある。

そして、その横には美しい女官が立ち

「源氏に弓の名人はおられるか?どなたかこの扇を射ることの出来る方はございませんか」

とでも言うかのようにしきりに手招きして挑発するのだった。

ここで射られないと源氏の名折れである。

「誰か射れる者はいないのか!」

義経の問いかけに、畠山重忠は脚気を理由に辞退し、代わって推された那須与一の兄の那須十郎も負傷していたので、弟の那須与一が射ることになってしまった。

仕損じると自分だけでなく源氏の恥じとなってしまう、与一も辞退したが義経が許さなかったと言う。

義経の命を受けた与一は寒風が激しく吹きつける海上に馬を乗り入れた。

海上では平家が多くの軍船を並べてそのなりゆきを見つめており、また陸では義経をはじめとして源氏の一同が固唾を飲んで見守っている。

扇の的までは、40間余り(約70メートル)もあり、しかも北風が激しく吹いて海に浮かぶ小舟の扇の的は大きく揺れている。

与一は弓に矢をつがえ、弦も折れるかのようにキリキリと引き絞ると、扇の的に狙いを定めて目をつむり心の中で祈った。

「南無八幡大菩薩、日光の権現、那須の温泉大明神、願わくばあの扇の真中射させ給え、これを射損ずるならば、弓を折り自害して生きては那須へ帰りませぬ」

そう念じて目を開くと、今までゆらゆらと揺れていた扇の的がぴたりと止まって見えた。

「今だ!」

与一は息を止めて気持を整えると矢を放った。

ヒュンと風を切る音と供に、矢はみごとに扇の要を射抜ていた。

扇はぱっと空へ舞い上がると、ひらひらと風に舞うように海面に落ちていった。

これを見て、源氏も平家もみなが感心し、平家は船べりを叩き感じ入り、陸の源氏も箙(えびら・矢の入れもの)を叩いてどよめいて与一の腕前を誉め称えた。

その時に平家の船に年老いた武者が現れて、舞を舞い始めた。

義経が、あの者も射よと命じて、与一は心ならずも射てしまう。

平家方は、風流を解さぬ行いと怒り、悪七兵衛影清らが渚に上がると源氏方に攻めあがると乱戦となっていく。

こうして源氏と平家は激しく戦ったが、とうとう平家は負けてしまい、屋島を追われた平家は山口県の壇の浦の悲劇へと滅亡してしていくのである。

那須与一は、この折の功によって武蔵や丹波などの五州にに領地を得たそうである。

そして、朝廷にお礼に来た時に伏見の即成就院にも参篭したそうで、やがて、この伏見に小庵を造って出家したが病死して即成就院に埋葬されたと言われている。

与一は、なぜ地位を捨てて仏門に入ったのか。

平家の滅亡や義経の死など、心に無常を感じる事があったのかも知れない。

静かな療養の生活だったとも言われるが、享年は34歳の若さだったとの伝えもある。

その那須与一の墓と言われる物が即成院に祀られている、伏見の即成就院の頃から移転と供に伝えつづけられていた物らしい。

那須与一の墓は、本堂を抜けて墓地に建てられたお堂の中に安置されていたが、今はお堂はなくなって外に出された形になっている。

墓地からも行けるのだが門が閉められている事が多いので、一度本堂に上がってから、本堂を通り抜けて履物を借りて外の墓地に降りてお墓に向かう事になる。

墓は、大きな笠を持つ茶壷の形をした宝塔のようなりっぱな物である。

しかし、那須与一の墓とされているものは、橘俊綱のものではないかとの説もあるようだ。

病気の平癒に御利益があるとお参りする人が絶えないそうだが、的を射た那須与一にあやかって受験合格の祈願に訪れる学生や親御さんも多いと聞く。

那須与一の伝説も全国的な広がりを持つようだが、源平の争いの中で、弓矢で扇を射る名シーンで名を馳せた英雄でありながら、静かな後年が感慨深い人物でもある。
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御陵衞士のお墓参り
昨日は戒光寺さんの御陵衞士の方のお墓をお参りさせていただきました。

御陵衞士は元新選組の伊東甲子太郎や藤堂平助ら油小路事件で犠牲になられた方々で、戒光寺さんの墓地で眠られています。

最近は、伊東甲子太郎さんらを弔われている本光寺さんとも御縁をいただいているので、きちんとお墓もお参りさせていただきたく思い、お参りさせていただきました。

ただ、伊東甲子太郎さんらは新選組ファンの方々からは一部悪いイメージを持たれている方もおられてるようで、墓石や墓所に冒涜する行為をされる方もいたようで、今は厳しく予約しないとお参り出来なくなっています。

私は、予約した上で同意書にも署名した上でお参りさせていただきました。

墓石は年月や風雨による影響もあり、傷んでいる部分もあり心が痛みました。


私も新選組のファンですが、それぞれの思いはともかくも、墓所やお墓では静かに厳粛にお参りして手を合わせるのが人としての作法と心得ますし、それの出来ない方は墓所に来るべきではないと思います。

また、お墓に眠られている方々には親族や所縁の方々もおられる訳で、墓所での不埒な行為には心を痛められるのではないでしょうか。

静かに手を合わせ、御冥福を祈らせていただきました。

墓石などが傷んでいるのが気になって、何とか補修や保全に努めていただきたいと思いながら、またお参りに伺いたいと思いました。
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建礼門院
2008年5月7日に京都の東山にある「長楽寺」が失火によって炎上した、幸いにも仏像とかは無事だったようだが建物とかは被害に遭い、私の紅葉の隠れスポットとして大切にしていた場所だったので残念である。

この長楽寺は、平清盛の娘であり、高倉天皇の中宮(皇后に次ぐ地位)となり安徳天皇の母となった平徳子こと建礼門院に所縁のお寺でもあった。

そういえば、大原にあるやはり建礼門院に所縁のあるお寺の寂光院も2000年に放火による火災に遭っているから、建礼門院に所縁のお寺の二つが火災に遭ったのも因縁だろうか。

「平徳子」は、「平清盛」と正妻の時子との次女として生まれたのである。

父の清盛は、保元の乱や平治の乱に勝利したことにより、朝廷内で大きな力を持つようになると平氏による政権を形成するようになる。

そして仁安2年(1167年)には平清盛は遂に太政大臣にまで上り詰めたのである。

さらに、その権力を盤石にする手段として、天皇の外戚となることを画策する。

「高倉天皇」は、平清盛の妻である「平時子」の妹の「平滋子」(建春門院)と後白河法皇との間に出来た子であったのであるが、清盛は天皇家との結び付きをより強めるべく娘の徳子の入内を望むようになる。

そして、徳子をいったん「後白河法皇」の猶子としたうえで、承安元年(1171年)に17歳となっていた徳子は、まだ11歳の若さである高倉天皇の元に入内して「中宮」となったのである。

まだ11歳の少年とも言える年齢の天皇に、17歳の妻を与えてもなかなか普通の夫婦のようにはなれないのだろう。

それでも、徳子の入内から7年後の治承2年(1178年)になり、24歳になっていた徳子はようやく懐妊したのである。


清盛ら平家一門は男子の誕生を願って諸寺社に盛んに加持祈祷をさせたが、この時の安産祈願で安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀事件で鬼界ヶ島へ流されていた平康頼と藤原成経が赦免されるのだが、俊寛のみは許されず島で没することになる。

やがて、同年11月12日に徳子は男子の言仁親王を生み、翌月の12月には親王は立太子された、後の「安徳天皇」である。

こうして徳子は親王を生むことができたのではあるが、しかし高倉天皇より6歳も年上であり、必ずしも仲睦まじくなかったと言う。

高倉天皇は徳子付きの女官が使っていた女童である「葵の前」と言う女性を寵愛するようになったのである。

おそらく年の離れた徳子といるよりも年少の葵の前の方が気が楽であったのだろう。

しかし、いくらなんでも天皇と女童では身分が違いすぎて周囲の反対もあり、やがて女童は実家に戻されてまもなく亡くなってしまった。

高倉天皇は葵の前の死に悲嘆にくれる毎日を過ごすのである。

事情はどうあれ、夫である高倉天皇の嘆き沈む姿に徳子も心を痛め、天皇の気持ちを慰めようと、宮廷一の琴の名手と言われた「小督局」(こごうのつぼね)を招いて遊宴を催したのだった。

小督局は桜町中納言茂範の娘で、琴の名手であるとともに美女としても知られていた。

また、平清盛の四女を妻に持つ冷泉大納言隆房の恋人でもあったのである。

さて、遊宴の席での小督局の琴の調べと、その美しさに高倉天皇の心も慰められて、いつしか天皇は小督局に心を奪われるようになっていく。

高倉天皇の心は慰められたものの、自ら女性を与えた結果となった徳子の気持ちは痛んだのではないだろうか。

こうして高倉天皇と小督局の恋の物語が始まるのであるが、それは平清盛の怒りを買うことでもあった。

小督は、このままでは主上に災いが及んでしまうと思い、こっそりと宮中を抜け出して行方不明になる。

高倉天皇は源仲国に命じて小督の行方を捜させて、ようやく嵯峨野の地に隠れ住む小督を見つけ出して、何とか天皇の下に連れ戻してこっそりと暮らすようになり、姫君まで生まれるのであった。

しかし、やはり小督と高倉天皇の噂は清盛の元にも流れて行き、清盛は激怒して小督を無理やり出家させて尼にして二人の間を引き裂いたのである。

こうして、高倉天皇の悲しみは前にもまして深いものになってしまった。

また、後白河法皇と平清盛との対立も高倉天皇を悩ませるようになり、やがて近衛家の所領継承問題に不満を持った清盛が後白河法皇を幽閉してしまったのである。

こうして、政権を掌握し平清盛は高倉天皇を退位させると、高倉天皇と徳子との子供であり、まだ3歳の言仁親王を即位させて安徳天皇を誕生させてしまった。

これで、平清盛は、念願の天皇の外戚となったのであり、高倉天皇は上皇となり、徳子は皇太后となる。

そして、平家は京の都から福原に遷都までするのである。


しかし、栄枯盛衰の言葉もあるように、全盛を向かえた平家も斜陽の陰が射すようになっていく。

平家に対する反・平家とも言うべき勢力が力を伸ばしてきたのである。

そういう中で、高倉上皇は心労が祟ったのか治承5年(1181年)の正月に薨去してしまう、「平家物語」では、小督局との悲恋が原因で逝去したことになっている。

徳子の悲しみも深かったと思われるが、そういう中で徳子を後白河法皇の後宮に入れようという策があって、清盛も承知したが徳子がこれを強く拒み出家を願ったという説もあると言う。

そして、同年の11月に、徳子は院号宣下を受け、これにより「建礼門院」と称するようになる。

寿永元年(1182年)にはとうとう、あの平清盛が熱病で死去することになり、平家はますます各地の反平家勢力との戦いで苦戦して追い詰められていく。

やがて、寿永2年(1183年)7月になると、木曾義仲に敗れた平家は京都からの撤退を余儀なくされ、徳子は安徳天皇とともに三種の神器を携えて都落ちすることになる。

いったんは九州大宰府へと逃れるのであるが、しかしそこでも敵勢力に追われて、平家一門は苦しい船上での流浪を余儀なくされる中で、徳子の甥の平清経が絶望したのか入水自殺してしまう。

それでも、やがて平家は勢力を盛り返していき、讃岐国屋島に仮の内裏を置き、そして摂津国福原まで進出するくらいになってくる。

しかし、翌年の寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いにおいて源義経や源範頼の軍勢によって有名な鵯越えの逆落としの奇襲もあり、平家は大敗を喫して一門の多く人を失い徳子の兄の平重衡も捕らえらてしまい、平家一門は海に逃れて屋島などに本拠を移したのである。

やがて四国の屋島も追われた平家の一門は、壇ノ浦の合戦に望みを託したが、ここでも潮流の変化などもあり、源義経の軍勢に敗北してしまうのであった。

こうして壇ノ浦の戦いで敗れた平家は源氏の船に囲まれて絶望的な状況である。

我が子の安徳天皇と一緒の徳子の船も周りは敵に囲まれていた。

「波の下にも都のさぶろうぞ」

徳子の母にして安徳天皇の祖母である「二位尼」は三種の神器を携えると、まだ幼い安徳天皇とともに海に身を沈めたのだった。

そして徳子も、今はこれまでと決心を固めると懐に硯と石を入れて重石とし、海に身を投げたのであった。

しかし、周りには源氏の船が囲んでいるのである。

海に身を沈めたはずの徳子であったが、源氏の者に熊手で髪を引っかけられて引き上げられると、捕虜となってしまったのだった。

母や我が子も海に身を沈め、多くの平家の身内も亡くなったのである、自らも死ぬつもりで海に入ったのにも関わらず、捕らえられて命を助けられてしまった徳子の心境はいかがだっただろうか。


源氏の虜囚となった徳子は4月になって京へと送還されて行く。

徳子はいっそ死罪にされるのを望んだのかも知れないが、朝廷にも身内が多く、また女の身で武士ではないので罪に問われることもなく、洛北東山の麓の吉田にある庵に身を置かれたのである。

ちなみに、他にも多くの平家の女性で逃れたり生き延びた者も多かったようだが、生きるためのよすがとし身を売るものも多かったと聞く。

そして5月となり、徳子は東山にある「長楽寺」の僧である印誓上人を戒師として髪を下ろして尼になり、「直如覚」と名乗ったのであった。

なんでも、この時に印誓上人への布施として与えるものもないので、我が子の安徳天皇が御召になっていて形見として側に置いてあった御直衣をお布施としたと言う。

作法とはいえ、我が子の形見を布施とするしかなかった印誓上人は徳子の気持ちをさっすると涙ながらにこれを押し頂き、この御直衣を「幡」として縫い直して仏前に供えたと言う。

この「安徳天皇御衣幡」は現在でも長楽寺に伝わっており、初めに書いた火災でも無事だったようである。

長楽寺で、静かに菩提を弔う暮らしをする徳子のもとには、妹である冷泉隆房の妻と七条信隆の妻がしばしば訪ねて日々の糧を助けたり寂しさを慰めたという。

しかし、都に住むのは想い出なども多くて辛いのか、やがて徳子は都から離れた山奥の大原の里に移り、寂光院へ入ると小さな庵を結んで、先帝である我が子や一門の菩提を弔う日々を過ごしたのである。

その徳子の側には、安徳天皇の乳母であった「大納言の典侍」や藤原信西の娘の「阿波の内侍」が仕えていたようだ。

それからしばらくした、翌年の春の日の事である。

徳子にとっては夫の高倉天皇の父であり義父ともいえる後白河法皇が、大原の里に建礼門院を訪ねてみようと思い立ったのである。

しかし、まだ早春の時期では都の北にある山々は雪や氷が残る寒さであり、よわい60歳の老齢である法王には無理であるので、寒さも緩む4月になってから大原への行幸を行うことになった。

後白河法皇に付き従うのは、徳大寺実定などの公卿が6人、殿上人が8人、それに警護の北面の武士を加えた20人余りの一行である。

法王一行は、都を出ると鞍馬街道を北上して市原に至り、そこから静原に入って江文峠を越えて大原の里に出る御幸だったようだ。

やがて、一行は大原の里に着くとさっそく建礼門院のいると言う寂光院を訪ねた。

すると身には絹で布の分も見えぬようなものを着た一人の老尼が一行を出迎えたのである、阿波の内侍であった。

女院を訪ねてきたことを告げると、女院は仏の供花とする花を摘みに自ら山に入っていると言う。

「そのようなことまで女院自らなされてるとはお傷わしいことよ」

法王を初め、一行が女院の身を嘆いていると、山の上の方から花篭に岩躑躅を入れて濃い墨染の衣を着た二人の尼が岩をつたいながら降りて来るではないか。

建礼門院と大納言の典侍である。

二人は法王らの姿に気が付くと、いかに世捨て人の生活とはいえ、このような姿を見られるのは恥ずかしく思い、しばらくは泣き悲しんだのであった。

やがて気持ちが落ち着くと、庵の中で訪ねて来られた法王らをお迎えして様々なことを話し合って涙しあったのだった。

話はつきることはないが、いつしか別れの時が近づく。

夕暮れになり、法王ら一行も名残りを惜しみつつも大原の里を後にしたのであった。

建礼門院は法王らを見送った後に庵に戻ると一首の歌を障子に書き記した。

~いにしへも、夢になりにし事なれば、柴の編戸の久しからじな~

(柴の編戸の侘び住まいもすでに久しく、むかしの栄華も夢になってしまった)

一方、法王のお供で訪れた徳大寺実定も帰る時に庵の柱に一首を書き残したという。

~いにしへは、月にたとへし君なれど、その光なく深山辺の里~

(むかしは月の光にたとえられたほどの君なのに、いまは深い山里にひっそりと暮らしておられる)

滅び去った平氏に関わった人々への鎮魂歌だったのであろうか。
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舌切茶屋と忠僕茶屋
京都の観光名所である清水寺に行かれた方は多いと思う。

一般的な参拝コースとしては仁王門をくぐって本堂や舞台に周り、音羽の滝から十一重石塔の方へ帰っていくのが多いと思うが、音羽の滝から十一重石塔への帰路の間に二つの茶店があるのに気がつかれている方もいると思う。

その二つの茶店は「舌切茶屋」と「忠僕茶屋」言う名前なのだが、それぞれの特長のある名前に由来したお話があるのだ。

幕末に、京都清水寺・成就院の第24世住職であった月照は、攘夷論者であった。

清水寺を弟の信海にまかせると尊皇攘夷運動に身を投じ、西郷隆盛を始め吉田松陰・梅田雲浜・近衛忠煕らと親交があったと言う。

西郷隆盛が、薩摩藩主である島津斉彬が亡くなった折に、西郷が殉死しようとしたのを説得して止めたのが月照だと言われている。

しかし、安政の大獄で身に危機がせまったので、西郷隆盛の薩摩に身を寄せることになる。

ところが、薩摩では藩主の島津斉彬が亡くなってから、佐幕気運が盛り上がっており月照と西郷は流罪になってしまう。

流罪とは言うものの、実は途中で斬殺の場合もあり、錦江湾で西郷は月照を抱えて船から投身し入水自殺を図る。

西郷は助けられて息を吹き返したものの、月照は亡くなってしまったのであった。

月照の弟で清水寺を任されていた信海も、翌年には捕縛され獄死したそうだ。

その月照と信海の記念碑も清水寺の境内にひっそりと建てられている。


さて、「舌切茶屋」と「忠僕茶屋」のお話であるが月照と係わり合いのある人物に所縁のおはなしでもあるのだ。

音羽の滝からの帰路で「アテルイとモレの碑」の側にある茶屋が「舌切茶屋」である。

やはり幕末に清水寺の成就院(旧本坊)の役人であった栗山瀬平の子で「近藤正慎」という人物がいた。

この近藤正慎は、月照よりも3歳年下で月照と供に得度して「義天坊独一」を称して月照と親しく交友していたが、やがて還俗して「近藤正慎」を名乗るようになる。

そして月照が勤皇活動に従事するようになると、成就院に戻って役人になり清水寺を守って月照を助ける事になる。

やがて月照が西郷と供に薩摩に逃げると、近藤正慎は月照の逃亡を幇助した嫌疑で捕まり投獄されてしまう。

厳しい尋問の中でも黙秘を通して、ついに舌を噛み切って自害してしまうのだった。

その忠義に対して、近藤正慎の子孫に清水寺の境内での茶店の営業権を認めたのが「舌切茶屋」としてのお店であった。

ちなみに、この近藤正慎の孫に陶磁器の人間国宝である近藤悠三がおり、また曾孫に俳優の近藤正臣がいる。




もう一つの「忠僕茶屋」にも同じようなお話がある。

同じく幕末に「大槻重助」と言う人物も清水寺にいたのである。

この大槻重助は月照の下僕として忠実に仕えていた。

月照の勤皇活動にも忠勤し、安政の大獄での月照の薩摩行きにも同行して苦労を供にした。

この時に、重助は二十歳であったと言う。

しかし、月照の入水自殺により残された重助は月照を弔っていたが捕縛されてしまうが、月照の後を継いで清水寺の住職にとなっていた月照の弟の「信海」から生きて清水寺を守るように遺命(信海も獄死)を受けてしまう。

そして半年後に釈放されると、当時に清水寺の境内にあった「笹屋」と言う茶店を買い取って糧として、信海の遺命に従うように月照と信海の両師の墓を護ったそうである。

その後、西郷隆盛の陰ながらの助力もあり、清水寺の後任住職であった園部忍慶師によって重助の子孫へ境内での茶店の営業権を保証され、茶店の名前を「忠僕茶屋」と改めて今日まで営業されているのである。

清水寺の境内にある何気ない二つの茶店であるが、このように知る人ぞ知る秘話があるのである。

清水寺の多くの観光客で、この二つの茶店もそれぞれの子孫によって今も繁昌を続けている。
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みぶな法要
京都の壬生寺で行われたみぶな法要へ行ってきました。

3月27日とみぶなの語呂合せなんですが、どうなるのか興味があったんですよね。

境内では壬生菜や野菜、食べ物とかも売っていました。

本堂では読経されて法要が行われ私も参列してました。

法要が終るとお下がりで壬生菜と炮烙せんべいをいただきました。

しかし、いただいたけど生の壬生菜どうしましょう?

お漬け物でしか食べた事がないです。

それに、壬生菜と御煎餅でけっこうじゃまに・・いえいえお下がりでいただいたものをそんな思ってないですよ。

お下がりだけに捨てたら罰が・・なんてもったいないこと考えてません・・ほんとにです、お地蔵さま。

振舞いで壬生菜のお味噌汁をいただきましたが、これがあまり煮えてなく・・いえいえ歯ごたえあって良かったです、さすがは歯薬師さまですね、お味噌汁で歯を鍛えて下さるなんて、ありがたや。

壬生菜もありがたく電車でクシャクシャになっても持って帰って、お揚げと壬生菜を醤油味で炒めていただきました。

来年はもう少し量を減らしていただけるとありがたいです。
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清盛の楠
下京区の西大路八条、西大路の東側に道路に突き出したように若一神社(にゃくいちじんじゃ)の大きな楠が立っている。

あの平清盛が自ら植えた楠だそうだ。

平安末期の頃、権勢をほこる平清盛がこの地に「西八条殿」と言う豪勢な館を建てたそうだ。

しかし、何か物足りない物を感じる清盛は、日頃から信心している熊野権現を邸内に勧進して祀っていた。

ある夜、平清盛の夢の中に熊野権現が現れ「この辺りに若一皇子の御神体が埋まっている、その若一皇子の御神体を掘り出して祀れ」と信託があったそうだ。

そこで、清盛が命じて邸内や周辺を探させたがなかなか見つからない。

やがて夜になっても灯りを点けて捜索していると、庭の築山の辺りの土中がなにやら光っている。

もしやと思い、その場所を掘り起こすと若一皇子の御神体が出てきたので、若一皇子の像を御神体として社殿を建てて祀り、ご神体の出てきた築山には楠を植えて祀ったのが若一神社の始まりとされているようだ。

商売繁盛や金運、開運にご利益があるとして信仰を集めているが、境内には清盛の像や名水の地下水があったりする。

さて、この若一神社だが、神社の敷地の外に道が通り、道を挟んで築山のような場所に、その楠が植えられている。

楠のもう片側は西大路通りに突き出すように面していて、楠の部分だけ凸のように西大路通りに出る形になっている。

なぜそうなったかは昭和9年の話になる。

西大路通りに市電を走らせる事になったのだが、道路の真中に若一神社があって、そのままでは通すことができない。

そこで、神社を東側に移転する事になったのだが、楠が問題となった。

楠はしっかりと根を張り巡らせており移動させるのも難しい。

それでも、移動させようとすると枝をはらった男が木から落ちてケガをしたり、関係者に病気や不幸が続いたりして、これは神木の楠の祟りとして怖れられるようになり、誰も怖れて移転に手を貸そうとしなくなったそうだ。

交通の妨げにはなるが工事ができないのではどうにもならない。

仕方なく、楠はそのままにして市電の軌道を曲げるようにしたそうだ。

神木の祟りの話は各地にもあるようだが、この場所のように、神木の楠の祟りが都市計画を変更させたと言う事になり、昭和の現在でもそういう理由で現実に市電の軌道が変えられたのが興味深い。

楠は石垣に守られた築山のような形で、今も西大路通りに突き出すように祀られている。

さしもの楠も樹齢を重ね、一時は枯れ始めて葉をつけなくなっていたそうだが、樹木ドクターらの手によって若返りが図られて、また葉をつけるようになったそうだ。
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忠盛燈篭
京都の東山にある八坂神社は祇園さんの名前で親しまれている有名な神社である。

その境内に、「忠盛燈篭」(ただもりとうろう)と呼ばれる古い石の燈篭がある。

この忠盛燈篭は、「平忠盛」(たいらのただもり)に所縁の燈篭で源平の時代から、この場所に置かれていたと言われる古い燈篭である。

平忠盛は、平正盛の子で、検非違使・左衛門大尉・備前守などを歴任した人物で、父と共に平氏の基盤を作った武将であり、また、やがて清盛の父となるのである。


さて、忠盛燈篭のお話である。

ある夜、白河法皇は忠盛を伴に連れて、祇園の女御と言われる女性に会いに出かける途中だった。

祇園の女御は白河法皇が見初めた女性で詳しい事は不明だが、当時、中宮を亡くしたばかりの法皇は気に入って宮中に召して、八坂神社の近くに御所を設けて住まわせていたそうである。

法皇と忠盛はやがて八坂神社の境内に着いた時には、日が暮れて周りは暗くなり、小雨まで降りだして来たのだった。

どうも、何か嫌な雰囲気がする

法皇がそう思ったときに、北の森の方に不気味な明かりが灯り、顔が赤くて身体が銀色の毛に被われたような妖しい物が姿を表した。

「忠盛!!なにやら妖しい物が来るぞ!」

法皇はそう叫ぶと太刀を抜いて身構えた。

しかし、そこは胆の据わった武士の忠盛である。

少しも騒がずに

「法皇様、ここは忠盛にお任せください!」

そう言うや、妖しい物に向かって進んでいった。


忠盛が妖しい物に近づくと、それは何と神社の社僧であった。

社僧は、折からの雨で蓑をかぶっており、燈篭に火を入れた所だったのだ。

燈篭の火によって顔が紅く染まって見え、雨で濡れた蓑が光って銀色の毛に見えたのだった。

忠盛は、それを確認すると

「法皇様、何でもございませんでした、御安心くださいませ。さて女御の所へ参りましょう」

そう言って、法皇の先に立って女御の元へと案内して行ったのだった。

法皇は、自分が怖れて見誤ったのに対して、忠盛が冷静に見極めた勇気に感服すると、以前にもまして忠盛への信頼を深めたのだった。

これは永久年間の5月の事だそうだが、その後も忠盛は瀬戸内の海賊を相手に武勇を示すなど活躍するのである。

燈篭は、そんな昔話を伝える由緒書きの後ろで静かに立ち、様々な歴史を見てきたのだろうか。
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祇王
京都の嵯峨野と言えば京都の中でも人気のエリアである。

その中で、嵯峨野の奥の方にある「祗王寺」(ぎおうじ)は、秋になると燃えるような紅葉が美しくて人気のお寺である。

その、祗王寺にも、哀しい女人の伝説が伝わっている。

時は、平安時代の末期で、「平清盛」(たいらのきよもり)が率いる平家が、権勢の絶頂を迎えている時期の話しである。

平清盛は、都で評判の白拍子の「祗王」(ぎおう)を見初めて大変に気に入って、祗王と共に、妹でやはり白拍子の「祗女」(ぎじょ)と、祗王と祗女の母である「刀自」(とじ)の3人に別に屋敷を与えて世話をするようになる。

なにしろ平家の頂点にいる清盛の世話を受けるのである、祗王の一家3人は元からの家と清盛から与えられた屋敷とで、多くのお米や金銭を与えられて何の不自由も無い裕福な暮らしをおくることになる。

この「白拍子」と言うのは、昔の話とかにも良く出てくるのであるが、もともとは平安時代の末頃に起こった無伴奏の拍子で舞いを踊る遊女の事で、後に「今様」を歌いながら踊るようになり、今で言う歌舞の芸妓や舞妓のような物になっていく。

はじめは水干を着けて立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして今様を歌いながら舞ったそうであるが、後には水干に袴だけで舞うようになったようである。

また、今様は平安末期から鎌倉時代にかけて流行った、当時の流行歌のような物で、特に後白河法皇が愛されていて今様を集めて「梁塵秘抄」を編まれているのが有名である。

さて、祗王たちは、そうした裕福な暮らしが続いていたが、しばらくして都に「仏御前」(ほとけごぜん)と言う白拍子が現れて評判になっていく。

仏御前は、加賀の国の出身で、まだ16歳の若さだったが舞の名手として名を上げていった。

やがて仏御前は自分の舞と評判に自信を持つようになると、時の権力者である清盛に取り入れないかと考えるようになった。

「自分は遊女の身だから呼ばれてなくてお屋敷にうかがっても叱られはしないだろう」

仏御前は、そう思うと西八条の清盛の別邸に訪ねていった。

しかし、清盛は仏御前が訪ねてきたのを聞くと

「呼びもしないのに勝手に訪ねてくるとは無礼であろう、しかも、こちらには祗王がいると言うのに・・・仏と言う名を名乗ろうと許しはしない」

そう言って怒ってしまう。

ところが、祗王がそれを聞くと

「自分から訪ねるのは遊女のならいでもあります、それに、まだ年も若い彼女をすげなくしては私が恥かしくもあります。自分と同じ白拍子なのも何かの縁、どうか対面だけでも許してやってくださいませ」

そう言って取り成すのだった。

祗王にそうやって取り成されては清盛もすげなくはできなくなり、仏御前を召し出すと

「祗王が取り成すから対面してやったが、お前も評判の白拍子なら歌がうまいのであろう、一つ今様を歌ってみよ」

そう命じたのだった。

♪君とはじめてみるおりは 千代もへぬべし姫小松・・・・♪

仏御前が歌うと、その美声に清盛も喜んで

「なるほど、なかなかの歌声だ、その分なら舞いもうまかろう、ひとさし舞ってみよ」

そう命じると、仏御前も歌いながら美しく舞った。

その歌と舞の素晴らしさに清盛も今ではすっかり魅せられて、仏御前を屋敷に留めようとした。

仏御前は驚いて

「私が来た時は追い返されそうになったのに、祗王様のお心遣いでお召しえることがかないました。その祗王様の手前もありますのに、どうぞ帰らせてくださいませ」

そう言ってみたものの、清盛はすっかり心変わりしており

「帰ることはならぬ、祗王のことが気になるなら祗王の方を追い出してやろう」

清盛は、仏御前が懇願するのも聞かずにそのまま仏御前を帰さずに、祗王を帰して与えた屋敷からも出て行くように申し渡した。

祗王は、いつかはそういう日が来るのかもと思ってはいたものの、あまりに突然の清盛の心変わりに驚くもののいたしかたない。

急いで屋敷に戻ると掃除をして屋敷を片付けた。

しかし、永年住み慣れた屋敷を追い出されると思うと悲しみがつのり、せめてもの形見にと襖に一首の歌を書き残した。

~萌え出ずるも 枯るるもおなじ野辺の草 いづれか秋にあはで果つべき~

「春になって萌えだす草も、枯れていく草も同じ草なのだから、どちらが秋を向かえないで済むという訳でもないだろう・・・私も仏御前もいずれは同じ身の上なのだから」

祗王は、荷物をまとめると母と妹の祗女の待つ家に戻っていった。

家に戻ると祗王は倒れるように泣き伏すばかりで、母や妹が何を問い掛けても答えずに泣くばかりである。

供の者に話を聞いてようやく清盛に追い出された事を知り、親子3人で悲しみにひたるのだった。

やがて、祗王へ送られていた米や金銭も止められて、代わりに仏御前に所縁の者だけが恩恵を得るようになる。

また、祗王が清盛から屋敷を追い出された事は市中でも話題となり、あの祗王が追い出されたなら、代わりに呼び出して遊ぼうかと思う者もいたが、祗王は人にも会おうとせずに悲しみに沈むばかりであった。

年が明け春になると、祗王の元に清盛から使いの者が来て屋敷に来て舞を舞って仏御前を慰めるように命じた。

祗王にすれば、それは屈辱的な仕打ちである、返事もせずに無視していると、来ないならば理由を言えと脅してきた。

母の刀自は恐れて、せめて返事だけでもするように頼んだが、祗王は

「私は、参上するつもりが無いから返事もしないのです。罰として都から追放されるのかもしれませんが私はそれでもかまいません、もう二度と清盛様にはお会いしたくないのです」

そう堅く決意していた。

しかし母は泣きながら祗王にこう言った。

「この国で、今の清盛様に逆らえばどうなるかわかったものではないでしょ。もしや殺されるような事はないでしょうが都から追放されてしまうやもしれません。そうなれば、お前や祗女のように若い者はまだ耐えられるでしょうけど、この年老いた私はどうすればいいのでしょう。お願いですから見慣れぬ土地で心細く儚くなるような目には合わせないでおくれ」

母にこう泣いて頼まれれば、祗王も意地をはることができなかった。

つらい思いを胸に隠して、妹の祗女と供の者を連れて西八条の清盛の屋敷へ赴いた。

屋敷に着いた祗王達は前にいた時よりも、ずっと悪い座敷に通されて待たされる事になる。

部屋さえも下げられてしまうのかと情けなくなり皆で泣いていると、仏御前がそれに気が付いた。

仏御前は、自分が今居る部屋は祗王様が以前にお召しをうけていたお部屋です、どうぞそちらへ祗王様達をおよび下さいませ」

そう清盛に頼んだが取り合わずにいる。

やがて、祗王達は清盛と仏御前や多くの平家の人々の待つ座敷に呼び出された。

「その後は元気でいたようだな、仏御前を慰めるために、今様を一つ歌ってみよ」

清盛のそう命じられて、祗王はこうなれば覚悟を決めてと思い、涙を隠して歌を歌った。

「仏もむかしは凡夫なり 我等もついには仏なり いづれも仏性具せる身を へだつるのみこそ悲しけれ」

(お釈迦様も昔は普通の人間でした、私たち人間もいつかは仏になると申します。すべての人は仏となれる性質を持つ同じ人間ですのに、どうして差別や隔てをなさるのでしょうか。悲しゅうございます)

祗王は、泣きながら、この歌を二度も歌ったので、その座にいる人々も胸を熱くして涙を流したと言う。

清盛はそれでもこう言った

「なかなか良い余興だった。舞いも見てみたいところであるが今は忙しいのでまたの機会にする。これからは、いつでもここに来て仏御前を慰めるようにしろ」

祗王達は何も言う事ができなくて、そのまま家に帰って行った。

嫌だったのに・・・母の身を思い、気持を堪えて行ったのに、また辛い思いだけしてしまった・・・こんな思いをするくらいなら身を投げた方が楽だ・・・

祗王と祗女の姉妹はこれからの事について話し合っていた。

二人の話を聞いた母は

「二人の娘が亡くなるような事になれば私も生きてはいられないでしょう、そうなれば親をそのような目に合わせる仏教ではとても重い罪になってしまいます。この世で恥じを耐えて生きるよりも、後の世で地獄に落とされる方が悲しいのではないですか」

そう言って、二人の娘をなだめるのだった。

祗王と祗女も母にそうまで言われては死ぬ事もできない

「母様にそう言われては自害もなりますまい。その代わり都から離れて髪を下ろすことはお許しくださいませ」

そして、祗王と祗女の姉妹は髪を下ろして尼となり、嵯峨野の奥の山里に庵を結んで仏門に入ると、母の刀自も仕方なく髪を下ろすことにした。

この時、姉の祗王は21歳、妹の祗女が19歳、母は45歳であったと言う。

こうして母娘3人は、嵯峨野の静かな土地で仏の道の静かで穏やかな生活に親しむ日々を送っていた。

そうしたある夜のこと、3人が暮らす庵の戸を叩く者がある。

この山里の夜に何だろう?

怪しみながらも戸を開けると、そこには仏御前が一人で立っていた。

祗王は驚いてどうしたのかと問うと、仏御前はぽつぽつと語り出した。

「私は祗王様のおかげで清盛様にお目もじいたしましたのに、そのせいで祗王様がお屋敷を去ることになってしまいました。私も心苦しく思い憂鬱にしてましたところ、今度は祗王様がお屋敷に召されて今様を歌われました。その時の事を思うと自分もこうしていても明日の運命は判らないと思うと栄華も儚く思うようになりました。それで祗王の行方を探させていますと皆様が出家なさったと聞いて私も羨ましく思うようになり、清盛様にお暇を願い出ましたがお許しにはなりませんでした。しかし、思うにつけこの世の栄えも儚い泡沫で一時の富貴に奢るよりも仏門に入って静かな余生を送りたいと思い、思い切って今朝方にお屋敷を抜け出してまいりました」

そう言って仏御前が頭にかぶっている衣をとると、すでに髪が下ろされていた。

「どうか過去の罪をお許しくださいませ。もしもお許しがあれば私も御一緒に仏門の修行に励みたいと思います」

そう言って仏御前がしみじみと語ると祗王達も涙を流して

「あなたがそのようなお心でいらっしゃるとは存じませんでした。私たちが出家しましたとはいえ、あなたへの恨みが無かったとはいえないでしょうが、これで恨みも消えて静かに修行に励めそうです。どうぞ、御一緒にいたしましょう」

そう答えて仏御前を招きいれた。

それからは、仏御前を加えた4人で一つの庵に暮らして、仏道に励むのだった。

その後、仏御前はしばらく一緒に暮らした後に故郷の加賀に戻り小庵を結んだが、やがて18歳の短い生涯を終えたと聞いている。

また、祗王寺の境内には祗王・祗女・母刀自の供養塔があり、向かって右の五輪塔が清盛の供養塔で、左の宝筐印塔が祗王ら母娘の供養塔と言われている。
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祇園女御
京都の東山にある八坂神社は、祇園さんと呼ばれて親しまれているが、平安時代の末にこの祇園さんの近くに住んでいたので「祇園女御」(ぎおんにょご)と呼ばれた女性がいた。

時は、堀川天皇の御世で白河法皇が院政を敷いていた時代である。

白河法皇は祇園社(八坂神社)にお参りする事が多かったようで、その日も供の者を連れて祇園社に行く途中であった。

法皇がふと気がつくと道に佇んで法皇の一行を拝んでいる女性がいる。

よくみると、なかなかの美女である。

法皇は、この女性に興味を引かれたのか、この女性を連れて行くと宮中に召しあげられ、お側に置いて寵愛されたそうだ。

しかし、お側に置いた事で宮中の噂になってしまったので、宮中から出されて祇園社の近くに別宅を作ると、そこに女性を住まわせたことから、周りの者はこの女性をを「祇園女御」と呼ぶようになる。

そうして、白河法皇は祇園社に参詣に行かれると共に、祇園女御の所にも通われるようになる。

そに後、平忠盛をお供にして祇園女御の元へ通われる折に起こったお話が前に紹介した「忠盛灯篭」のお話しで、簡単に紹介すると、雨の日の夕刻になってから白河法皇が平忠盛を連れて祇園女御の元に通うために祇園社の境内を通る時に、法皇は遠くに怪しい光があるのを見つける。

法皇は怪しい物がいると忠盛に注意をうながすと刀を抜いて身構えた。

しかし、忠盛は恐れもせずに冷静に近づいていくと、その光は祇園社の社僧が燈篭に灯を入れようとしていた光だった。

法皇は、あぶなく神社の境内で社僧を傷つける所だったと安心すると共に、冷静に恐れもせず行動した忠盛に感心するのだった。

そこで、法皇は忠盛を誉められて、褒美として法皇が寵愛されてた祇園女御を忠盛に下賜されたのだ。

しかし、実はこの時には祇園女御はすでに法皇の子を懐妊されてたのである。

そして法皇は忠盛に

「もしも女の子が生まれたら私のの子としょう。しかし男の子であったら忠盛の子として育てるがよい」

と仰せられたと言う。

忠盛にすれば、すでにお手付きの女性を子供付きで賜ることになるのだが法皇からの仰せとあれば仕方もなく、ありがたくお受けするのみであった。

その後、時が過ぎると祇園女御は男の子を出産した。

忠盛は法皇に御報告したいと思いながらも、なかなか申し上げる機会が訪れなかった。

しばらくして法皇が熊野へ御幸されることになり、忠盛もお供の一人として随行することになったので、機会を見てお話しようと思う内に、紀伊の国の「糸鹿坂」(いとかさか)で法皇がしばらく休息されることになった。

法皇は、道のそばに薯蕷(やまいも)のつるに零余子(むかご)が玉を連ねたように生い育っているのを面白くご覧になると、忠盛を召してあの枝を折ってまいれと命じられた。

忠盛はその枝を折っての前に進み出て

「いもが子は這ふ程にこそ成りにけり」

と子供の事にかけて一首の歌を添えると、法皇は察しられて

「ただもり(忠盛)とりて養ひにせよ」

と返されたと言う。

そうして男子は忠盛の子として育てることになった。

ところが、この子供がよく夜泣きをすると耳にされた法皇は

「夜泣きすと ただもりたてよ末の世は 清く盛ふる こともこそあれ」

と歌を詠まれたので、その子は歌から名付けられて「清盛」とされたと言う。

そうこの男の子こそ、あの平清盛である。

そして、清盛は成長して12歳の時に兵衛佐となり、18歳の時には四品として四位の兵衛佐に昇進すると、20歳で肥後守、29歳で安芸守と出世を続け、やがて「保元・平治の乱」を経て、ついに従一位、太政大臣となると、それまでの藤原氏に代わって平氏政権を確立するのである。

それも清盛が白河法皇の子供だったからだと世間では噂されたそうである。

これは「平家物語」などに出てくる話であるが、祇園女御が清盛の母であると言うのには年齢的な差や矛盾もあり、今では違うと言うのが有力な説になっている。

そこで言われるのが、この祇園女御には「妹」がいて、同じように白河法皇の寵愛を受けたそうなので、この妹が清盛の生母であり、祇園女御は育ての親ではないかと言うのが定説になりつつあるようである。

さて、その祇園女御だが、この祇園女御には子供がいなかったので何人かの子供を養子にして養育したようであるが、清盛も上で述べたように妹の子であるのを養育したと言える。

その中でもう一人、ある女の子が歴史に重要な役割を果たす事になる。

話は、まだ清盛が生まれる前の「鳥羽天皇」の御世の事で、まだ祇園女御は白河法皇のお側で仲睦まじく暮らしていた。

しかし、祇園女御は子供ができない寂しさからか、権大納言の「藤原公実」の末の娘を養女に貰い受ける。

この女の子が「璋子」(たまこ)と言う非常に美しい娘で、なんと養父でもある白河法皇に可愛がられているうちに、とうとう愛されるようになってしまう。

いくら法皇でも、養子と言えど親子の仲での男女の関係は問題になる。

そこで白河法皇は外聞をはばかってか、この璋子を、当時まだ15歳だった孫の「鳥羽天皇」の皇后にしてしまう。

それだけでなく、白河法皇は璋子を忘れられずに、孫の嫁にもかかわらずに男女の関係を続けていくのである。

やがて、璋子は懐妊して男の子を産むことになるが、正式には鳥羽天皇の皇子と言う事になるものの、実際には白河法皇と璋子との間の子供と噂されるようになる。

それを裏づけるように、白河法皇は、この男の子を溺愛し、鳥羽天皇を退位させると、まだ5歳のこの皇子を天皇に即位させてしまう。

これが「崇徳天皇」になるのだ。

また、鳥羽天皇が退位により、鳥羽上皇となったために、璋子も「待賢門院」(たいけいもんいん)と院号を贈られることになる。

崇徳天皇も白河法皇が健在の頃は良かったが、やがて法皇が崩御されて、鳥羽上皇が院政を引くようになると冷遇されるようになる。

鳥羽上皇も、崇徳天皇が我が子と言う事になってはいても、祖父である白河法皇と、妻の待賢門院の子供である事は知っていたのではないだろうか。

やがて、崇徳天皇は父の鳥羽上皇によって退位させられ、代わって鳥羽上皇の寵愛する「美福門院」の産んだ子である近衛天皇が即位する事になる。

その後、退位により上皇となった崇徳上皇は、母である待賢門院と鳥羽上皇との間にできた「後白河天皇」の時に「保元の乱」を起こして敗れ、讃岐に流されることになるのである。

ちなみに鳥羽上皇は、崇徳天皇は嫌ったのか冷遇するのであるが、祖父の白河法皇の寵愛を受けて崇徳天皇までもうけた璋子こと待賢門院とは仲良く付き合ったのか後白河天皇となる子供までもうけているのである。

この時代の人それぞれの関係と言うか繋がりは複雑でもあり、様々な運命や因果を感じてしまう。

このように、祇園女御の養子となった璋子と清盛は歴史に大きな関わりを持つ事になるのである。

さて、祇園社こと八坂神社から円山公園に抜けて清水や高台寺の方に南に向いて歩いて行くと丸山音楽堂がある。

その円山音楽堂の道路を挟んだ向い側、ちょうど「大雲院」の北側辺りに「祇園寺」と言う新しいお寺があった。

かつて、この地には祇園女御に所縁の阿弥陀堂があり、その近くに祇園女御を祀った祇園女御塚があったのである。

しかも、その塚の隣りは空地となっていて、祇園女御の邸宅跡だとされていたようである。

しかし、その地は関わると祟りがあると怖れられて、ずっと空地にされていたのである。

特に祇園女御が祟るような事例は判らないのであるが、怖れられた地であったようだ。

話では、むかし近くにある双林寺の人がこの地にあった石を無断で持ち帰ったところ、その夜に、急に高熱をだして苦しみだした。

やがて、ここの地主の祟りであると言われて、あわててもとの場所へ石を返したので、間もなく病気が治ったということである。

しかし、時の流れか先に書いたように、その怖れられていた土地も今では開発されて「祇園寺」と言う祇園女御に関わるお寺が新しく建てられたようである。

元にあった阿弥陀堂や祇園女御塚は、遠く京田辺市に移されたと言うことである。

現在は祇園女御塚の宝篋印塔は再建されて、祇園堂と言うお寺になっている。


同じ祇園女御に関わる事だから何事もおきないのか、祟りが起きない事を願うばかりである。
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毛朱一竹塚
京都でも指折りの観光地である東山の清水寺から八坂神社へと続く坂道は、「三年坂」あるいは「産寧坂」と呼ばれる名所である。

三年坂については、この坂で転倒すると三年以内で死ぬと言う言い伝えが有名であるが、これは子安の塔や泰産寺へ参拝する産婦さんらに、転ばないように気をつけるようにとの警告から生まれた言い伝えだと言われている。

この三年坂は、多くの観光客で賑わっているが、この付近は平安時代には「鳥辺野」と呼ばれる葬送地でもあったのである。

そして、三年坂と呼ばれるこの坂の付近には、「毛朱一竹塚」(もみいつちくづか)と呼ばれる塚があったと言われている。

毛朱一竹塚の伝説は平安時代の末期、あの「平清盛」に関係した不思議な伝説である。

ある日の事、平清盛は清水寺に参篭して眠りに付くと不思議な夢を見た。

後日に、その夢を占ってもらうと、それは吉夢だという。

これは縁起の良い事だと思いながらもしばらくの日が過ぎた。

清盛が内裏の宿直に着いていた夜の事である。

最近、夜になると内裏に怪しげな鳴き声が響き、帝を悩ましていたのであった。

その夜も何となく不気味な夜であったが、深夜になってやはり闇の中に怪鳥とおぼしき鳴き声が響いた。

どうやら「鵺」(ぬえ)に良く似た鳴き声に思われる。

ちなみに鵺は頭が猿、身体は狸、手足は虎、尾は蛇と言う化け物であるが、源頼政が御所に現れる鵺を退治した伝説が有名である。

また実際には鵺はトラツグミの事だとも言われている。

清盛も武士である、意を決すると鳴き声を頼りに弓を射ると見事に怪鳥を打ち落とした。

獲物を良く見てみると、見たことも無いような不思議な鳥であった。

捕らえた怪鳥を博士に見せて占ってもらうと、これは「毛朱」(もみ)と言う中国の化け物で、年老いた鼠の変化したものだと言う。

この毛朱も一説によるとももんがの事ではないかと言われている。

これも吉兆だと言うので、この毛朱を大きな竹の筒に入れて、現在の三年坂の頂上付近の丘に埋めて塚とされたそうである。

これが「毛朱一竹塚」と呼ばれるようになった。

平清盛は、この功績もあって安芸守の地位に昇任したと言う。

なお、この毛朱一竹塚には、源頼政が退治したと言われる鵺も埋められているとも言われているそうである。

また、しばらくして帝が病になったときに占わせると、この毛朱の祟りだと占われた。

そこで勅使を遣わして、この毛朱一竹塚で病気平癒の祭祀を行ったそうだ。

それ以後も、帝が病気になると、この塚に勅使を遣わすことが恒例になったようである。

この塚は大正の頃までは三年坂の付近にあったと言われているが、いつの頃からか無くなってしまった。

また、毛朱一竹塚の石碑も近年まであったと聞いて探してみたのだが、見つけることは出来なかった。

今は、そういう伝説も思わせない観光地となった三年坂であるが、そういう怪異の史跡と観光地が同居しているのが、京都の魅力なのかも知れない。
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小督局
京都の嵐山と言えば、いつでも多くの観光客の訪れる京都の中でも有数の観光地である。

その嵐山の桂川にかかる渡月橋を北に渡って西に入った嵐山ホテルの西側に一つの塚が祀られている。

小督塚と言われる塚で、平安時代に生きた「小督」(こごう)と言う女性の悲恋物語を伝える塚である。

何でも、聞いた話によると近所に住んでおられた往年の名女優「浪花千栄子」さんが散歩されてて見つけられたと言う事である。

時は、「平清盛」が権勢をほこる平安時代の末期である。

平清盛は、当時にすでに太政大臣の地位にあり、その一門も多くは重要な地位を占めており、まさに平家の全盛期であった。

ところが、清盛はこの権勢を安定させ、より地盤を固めるために身内から天皇を出すことを望んでいた。

時の天皇は「高倉天皇」で、この高倉天皇も、後白河法皇と清盛の妻・時子の妹との間にできた子供で平家の血が流れているのであり、それゆえに8歳の時には皇位に即けられたのである。

しかし清盛は、よりいっそうの平家と天皇家の結びつきを画策し、清盛自身の娘である徳子(後の建礼門院徳子)を高倉天皇の中宮に据えたのである。

高倉天皇は11歳、徳子は17歳であった。

清盛の娘の子、つまり孫が天皇になれば清盛は天皇の外祖父になることになる、そう思っての政略結婚であったが、やがて7年の月日が流れてようやく徳子は妊娠することになり、やがて皇太子を産む事になるのが後の「安徳天皇」である。

高倉天皇はまだ18歳の若さである、清盛のやり方に反発を覚えるようになるもののどうにもならず、やがて徳子以外の女性を求めるようになっていった。

その中でも天皇が気に添ったのが徳子についていた女官が使っている女童の「葵の前」である。

高倉天皇にしても年上で年齢差のある徳子よりも、若くて自分より年下の葵の前の方が楽しかったのかも知れない。

天皇はしばしば葵の前を召しては時間を過ごすが、それが話題となり広がると身分が問題となってきた。

いくらなんでも天皇と女童では身分が違いすぎる、関白の藤原基房などは自分の娘と言う事にしてお傍に仕えさせてはと言ってもみたが、それでもどうにもならずに葵の前は宮廷を下がらされて実家に戻り、しばらくして亡くなってしまう。

高倉天皇は、その報せを聞くと深く嘆いて、うつうつと気持も沈んでしまった。

徳子は、このままでは天皇が病気になるのではないかと心配し、天皇をお慰めする宴を催して、「小督局」を天皇のお相手に選んだのである。

小督は、桜町中納言成範の娘で、その美しさは宮中一とも噂され、琴の名手としても知られていた。

しかし、小督は当時に冷泉大納言隆房と言う恋人がいたのだった。

この隆房は清盛の4女を妻に向かえていて、清盛に知られないように小督のもとに通う、いわば今で言う不倫であったのだ。

さて、高倉天皇は遊宴の席で当代一の美女で琴の名手である小督を傍に使わされて大いに気を良くしてしまう。

おりからの月夜に、笛の名手の「源仲国」(みなもとのなかくに)も呼びだして小督の琴と合わせて演奏させ、名人二人の演奏を楽しんだそうだ。

高倉天皇の心の傷も、小督が現れた事で癒されていき、いつしか小督を愛するようになっていく。

そこで残されたのが小督の恋人でもあった冷泉大納言の隆房である。

なにしろ小督をめぐる恋敵とも言うべき相手が天皇ではあきらめるしかない。

しかし、あきらめきれずに思いを残し、恋しさに小督のいる宮中を彷徨っていた。

小督も、隆房が気の毒に思うが、今では高倉天皇の寵愛を受ける身であれば隆房にあきらめてもらうしかなく、会う事はもちろん手紙を出すことも控えて、天皇の傍に仕えていたのである。

隆房は、せめて思いを届けようと一首の歌を詠んで小督のいる御簾の内側へ投げ込んだ。

~思いかね 心は空に陸奥の 千賀の塩釜 間近きかいなし~

「あなたを恋する私の気持は空に満ちています、その満ちるに通じる陸奥の千賀の塩釜の名のように、あなたの近くにいる私ですがそのかいもなく、お声させかけてもらえません」

ところが、小督は心を鬼にして、その歌を見もしないで外に投げ返させたのだった。

隆房も、そうまでされては仕方なく、歌を懐にしまうと家に戻り、それからは魂が抜けたようにぼんやりとしてしまったのである。

やがて、この事が清盛の耳に入ってしまう。

「高倉天皇も、隆房も、娘の婿殿ではないか、それが二人とも、一人の女に心を奪われるとはどういうことだ!その憎い女を召し連れて成敗してくれる!!」

そう怒ってしまったのである。

小督も、その話を聞き、清盛が自分を殺そうとしていることを気づくと

「自分の身はともかくも、このままでは隆房様と帝のお二人にまで難が及んでしまう、そうなる前に身を隠してしまおう」

そう思うと、宮中を抜け出して身を隠してしまったのだった。

高倉天皇は、溺愛していた小督が突然に姿をけしたので周りに者に探させたが見つからない。

葵の前を失った時よりも、なお深く心が傷ついて、重い気の病に伏せってしまった。

それを聞いた清盛は、帝の態度にも腹を立てて、帝のお世話をする者の出仕まで止めてしまったから宮中はすっかろ寂れたようになってしまった。

しかし、高倉天皇は、愛する人が消えてしまった悲しみに嘆くばかりであった。

天皇は、ある夜ふと見上げた月の美しさに感じるものがあり、誰か人はおらぬかと呼びかけた。

すると、その日には「源仲国」が殿中に来ていたので、急いで帝の元にまかりでた、あの遊宴の席で小督のことに合わせて笛を吹いたあの仲国である。

高倉帝は仲国を見ると側に呼び寄せ

「おお仲国、良い所に来ておった、その方は小督の行方を知っておらぬのか?」

こう聞くと、仲国は

「さて、いっこうに存じませぬ」

そう答えるしかなかった。

それでも帝がすがるように

「噂で嵯峨野の方に隠れ住んでいると聞いた事がある、その方、訪ねてきてはくれまいか」

そう言われると、仲国は

「さて、嵯峨野の辺りと申されても、せめて誰の所にいるのかくらいは判りませんと捜しようがございません」

と答えるしかなかった。

しかし、帝の悲しそうなお顔を拝見すると目には涙が浮かんでいる、それほどまでに小督を思っておられるのか、そう思うと仲国は

「ともかくも嵯峨野の辺りを訪ねててまいりましょう」

そう言うと馬に乗り嵯峨野に向かって行くのであった。

仲国は嵯峨野に着くが、なにしろ嵯峨野と言うだけで手がかりも無い、どうしようと考えていると、ふと思いついたのが、かつて遊宴の席で小督の琴の音に合わせて笛を吹いたことだ。

「もしや、こういう月夜の事だから小督も琴を弾いているやも知れぬ」

そう考えると琴の音色はしないかと嵯峨野を訪ねて周るのだった。

しかし、なかなか琴の音は聞こえてこないし小督の行方も判らない、このままでは帝に申し訳ないと思いながら、仲国はいつしか桂川の近くまで来てしまい、さて、ここまで来たなら近くの法輪寺を訪ねてみようかと思ったその時に、かすかに琴の音が聞こえたような気がした。

仲国は空耳かと思いながらも、わずかな手がかりにすがるように琴の音を頼りに近づいて行った。

「峰の嵐か、松風か、訪ぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒を速めて行くほどに・・・」と歌にも歌われた名場面である。

しだいに琴の音は近づいてきてはっきり聞こえるようになってくる、もはや空耳などではなく、間違いなく小督の琴の音であった。

仲国は何度か小督の琴を聞いているので間違いないと思い、よく聞くとその曲は「想夫恋」の曲である、小督も帝を忘れられずに琴を弾いて偲んでいるのかと思うと胸が熱くなるのだった。

そこで、仲国は、笛を取り出すと、小督の琴に合わせて吹き始めた。

この時の、仲国が小督の琴を聞きながら笛を吹いた場所が「琴聴橋」として残されている。

元は、渡月橋の北側に渡った東よりにあったらしいが、今は、やはり渡月橋を北側に渡り少し西の車折神社・嵐山頓宮の前の小さな石の橋がそうだと言われている。

さて、仲国が琴の音に合わせてしばし笛を吹いていると、琴の音はいつしか止んでいた。

仲国は、小督も自分に気がついたかと思うと、小督の屋敷と思しき庭先から声をかけた。

「小督殿、仲国でございます主上の命によりお迎えにまいりました」

しかし、屋敷からは何の答えも無い。

「もうし小督殿・・・」

仲国が声をかけながら足を踏み出すと屋敷から声がかかった。

「お待ちください、ここには帝からお迎えをいただくような者はおりませぬ、お帰りくださいませ」

その声はまぎれもない小督のものである。

「小督殿、お気持は判りますが、あなたがお姿を隠されてから主上はおやつれになり食もすすみません、このままでは御病気になられるほどにお嘆きになられてるのです」

そう仲国が言うと、小督は

「私がお傍にいては帝にご迷惑をかけることになってしまう、そう思えばこそ身を隠したのです、どうぞお察しくださいませ」

そう答えるばかりである。

仲国はそれでも

「しかし小督殿、このままでは主上は病に倒れてしまわれてしまいます、そうなれば御心使いもなにもなりますまい、どうかお戻りくださいませ」

そう言って小督を説得するのだった。

しかし小督の決心は固く

「琴を弾いたのも久しぶりでした、明日には大原の奥に身を引き篭もり髪を下ろすつもりでしたので、この屋敷の人に勧められてお別れのつもりで琴を弾いたのです。琴など弾かなければ良かった・・・どうか私の事はあきらめてくださいませ」

そう言って宮中で着る衣装さえ、もう不要だと差し出すのだった。

仲国はそう聞くと

「いえ、それはなりませぬ。大原で髪を下ろされるような事にでもなれば主上に申し訳がない。今から主上に御報告にまいりますから、せめてそれまではお待ちくださいませ」

そう言うと供の者に見張らせて、自分は馬を飛ばして内裏に急いだ。

仲国が御殿に上がると帝は眠れもせずに待っておられて、仲国の話を聞くやすぐに小督を連れてくるように命じた。

仲国は、これを知った時の清盛の仕返しも恐ろしいが、今は主命の方が大事である、さっそくに牛車を用意させると嵯峨野へ迎えに行くのであった。

しかし、小督は帝のお召しでも受けまいと固辞したが、仲国もいまさら連れて帰らないわけにはいかない、無理やりのように小督を牛車に乗せると強引に内裏へつれて行った。

天皇は、小督の顔を見ると大いに喜んで、そのまま小督を人目につかない所に隠すと片時も離さずに愛されたのであった。

やがて、小督は身篭って姫宮を産む事になる。

その事は、やがて清盛の耳にはいり、清盛は激怒してしまう。

清盛は部下の者に命じて小督を捕らえさせると、そのまま東山にある清閑寺に押し込めると無理やり髪を下ろさせて尼にしてしまう。

一度は出家を決心していた小督であったが、再び帝に愛されて子供もできたのに、それを強引に尼にさせられたのでは心残りばかりで仏の道にも身が入らずに引き裂かれた思いに悲しみがつのるばかりであった。

この時に小督はまだ23歳の若さであったのだ。

高倉天皇は、せっかく見つけた愛する小督と生まれた子供とも清盛の力で引き離され、しかも、むりやりに我が子の「安徳天皇」に帝位を追われるように退位させられて、悲しみと恨みとに沈んで病に伏せるとそのまま崩御されてしまった。

高倉天皇もわずか21歳であったと言う。

高倉天皇は、せめて死んでからは小督の近くにいたいと思って、「自分が死んだら小督のいる清閑寺へ葬ってくれ」と遺言を残していた。

その思いを汲んでか、やがて、高倉天皇の葬儀は清閑寺で行われ、御遺体は清閑寺の側に御陵を築かれて葬られることになる。

小督は、愛する帝が崩御された悲しみの中にも、もう引き離されることのないように、この清閑寺に庵を結んで、残りの生涯を帝の墓守をするかのように、高倉天皇の菩提を弔いながらすごしたと言う。

やがて、44歳で小督は世をさったそうであるが、高倉天皇陵の傍らにはひっそりと小督の墓と伝えられる宝篋印塔が築かれているそうだが、外からは見ることは出来ない、おそらく誰にもじゃまされずに仲良く寄り添っているのかも知れない。

なお、この清閑寺の境内にも小督の供養塔と言われるものが建てられており、二つ並んだ塔の向かって右側の塔が小督の供養塔だそうである。

その姿は、静けさの中にひっそりと高倉天皇陵を見守っているようである。

なお、高倉天皇と小督の間に生まれた皇女は、範子内親王と呼ばれ徳子などの世話を受けたそうで、成長して坊門女院となったとされており、また土御門天皇の准母の立場になったとも言われているようである。
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誰かどこかで
「誰かどこかで」

☆これは、「Yes,I Can」と言う本にある、作者不明の詩を訳された物です。


いま、この瞬間・・・

誰かが、あなたのことを考えている

誰かが、あなたをとても誇りに思っている

誰かが、あなたの強さに感心している

誰かが、あなたの成功を祝っている


誰かが、あなたの幸せを願っている

誰かが、あなたの気持ちを大事にしている

誰かが、あなたを信頼している

誰かが、あなたから信じてもらう必要がある


誰かが、あなたのことを気遣っている

誰かが、あなたが泣くために肩を貸したがっている

誰かが、あなたが困っていないことを願っている

誰かが、あなたを守りたがっている

誰かが、あなたのためなら何でもしたいと思っている

誰かが、あなたのことを神に感謝している


誰かが、あなたの支援を必要としている

誰かが、あなたの支援に感謝している

誰かが、あなたの助言や指導を求めている

誰かが、あなたに許してもらいたいと願っている

誰かが、あなたの許しを感謝している

誰かが、あなたのおかげで生きている


誰かが、あなたを愛してる

誰かが、あなたのことばかり考えている

誰かが、あなたを心配していることを伝えたがっている

誰かが、あなたがいなくて寂しがっている

誰かが、あなたに会いたくてたまらなく思っている

誰かが、あなたと一緒にいたがっている

誰かが、あなたのために時間を止めたいと思っている

誰かが、あなたの手を握りたいと思っている

誰かが、あなたを両腕で抱きたいと思っている

誰かが、あなたに両腕で抱かれたいと思っている


誰かが、あなたに贈り物をしたいと思っている

誰かが、あなた本人が贈り物だと思っている

誰かが、あなたのことを考え微笑んでいる

誰かが、あなたと一緒に笑いたがっている

誰かが、あなたと思い切り遊びたいと思っている

誰かが、あなたと夢を分かち合いたいと思っている

誰かが、あなたのことを考えて徹夜してしまった


誰かが、あなたに見つけられたいと思っている

誰かが、あなたが気づいてくれたらと願っている

誰かが、あなたの友達になりたがっている

誰かが、あなたと話したがっている

誰かが、あなたのことをもっと知りたがっている


誰かが、あなたが友達であることを喜んでいる

誰かが、あなたが与えてくれる気持ちを気に入っている

誰かが、歌を聴いてあなたを思い出している

誰かが、あなたの友情と愛を神に感謝している


誰かが、これを読んで泣くだろう

誰かが、あなたからこの「言葉」をもらう必要がある
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星田妙見宮あれこれ
星田妙見宮の紹介できなかったネタです。

境内に登龍の滝と言う小さな滝があります。

実は、この滝の場所が隕石が落下した場所だそうで、そう言えば大きく抉られてるように見えますね。

この隕石が北斗七星と同じ方角のペルセウス座流星群の母彗星のスイフト・タッフル彗星からの隕石と推測されています。

何でも日本でも2番目に大きな隕石だったとか言われています。

しかし、この隕石が御神体となって北斗七星神の降臨伝説になるのですが、北斗七星の方角から来た事が間違いでないのは偶然なのか、それとも判っていたのか不思議ですね。


本殿の上には羅針盤のような方位や干支などが記されて、方位磁石のような針のようなのもありますね。

見えにくいでしょうに、なぜ上に付けられているのか、面白いですね。


この星田妙見宮には鎮宅七十二霊符と、北斗七星霊符と言う二つのお札があります。

鎮宅七十二霊符は大きな物で5000円もするそうです。

この霊符は一生物だそうで、いただくには住所や名前を書かなくてはいけなくて、しかも額に入れて大切にしないといけないそうです。

興味はありましたが、値段も高いし腰が引けて諦めました。


北斗七星霊符の方は、価格は1000円だそうですが、生まれた年や誕生月、それに男女でも違うそうで、それぞれの干支と本命星を宮司さんに割り出していただく事になります。

こちらは、霊符を木製のお守りにされた物もあって、そちらをいただく事にしました。

しかし、鎮宅七十二霊符も北斗七星霊符もかっこいいから欲しくなってしまいますよね。

遠いのが辛いですが、見どころも多く興味深いので、また機会があれば訪れたいと思います。
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星田妙見宮
昨日は、古代史史跡めぐりの続きとして、交野市の星田妙見宮へ行ってきました。

前にも、かなり前に行ったことがありましたが、交通の便も悪くて遠いので久しぶりのお詣りになりました。


星田妙見宮は、小松神社と言うのが正式らしいのですが、星田妙見宮で親しまれています。

遥か2000年以上も昔に天から隕石が地域に降ってきて、大きな隕石が山に当たって山が崩れました。

それを、天から神が降臨されたとして物部氏が聖地として祀ったみたいです。

桓武天皇が長岡京遷都達成の神恩感謝の祭祀を行ったと言う記録もあるそうです。

その後に、弘法大師空海が交野で修業をしている時に、北斗七星の女神が降臨するお告げを受け、付近の三ヶ所に北斗七星の欠片が落ちたという伝説もあり神福寺と言うお寺になったこともあるそうです。

星田妙見宮の山頂の本殿には、この時の星石が御神体として祀られており、織女石として信仰を集めています。

また、星田妙見宮では本殿の前に掲げられた白地の垂れ幕には北斗七星が描かれていますが、これが柄の部分で二つに分かれていて「北斗八星」になっています。

これは、実はこの部分が二重星になっていて、これが正しいのだそうですが、望遠鏡も無い時代になぜこの二重星に気がついたのか不思議ですね。

宮司さんにもいろいろとお話を聞けたり教えていただけたりと、収穫の多いお詣りでした。

久しぶりに遠出になりましたが、古代のロマンに触れて楽しかったです。
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磐船神社
今日は朝から雨降りでしたね。

その雨の中を、久しぶりに大阪の交野市にある磐船神社へ行ってきました。

京阪電車の私市駅から天の川に沿って山の上まで1時間近く歩いてようやく到着です。

これまでに何度か来ているのですが、前に来たのは数年前でしょうかね。

磐船神社は、日本書紀などで饒速日命(にぎはやひのみこと)が天の磐船に乗って河内国に降臨したと言う伝説に基づいて、磐船とされる巨石を御神体としている神社です。

この一帯を支配していた物部氏との関わりが深い神社かと思われます。

磐船は高さが12メートルもあり、見る者を圧倒するような迫力があり、御神体とされるのも判りますね。

社殿はなくて、巨石の下に遙拝所があり、希望すれば拝観として磐船の下へ入る事も出来ます。

しかし、磐船の中に入る拝観は落下の危険もあり、過去には死者が出たこともあるので、希望者は神社に申し込んで用意されてる装束や装備を身に付けて、説明を受けた上での拝観になります。

私は怖くて中の拝観をした事はありません。

雨の中をここまで来たのはしんどかったですが、古代の神話の地や天孫降臨の伝説に触れられて良かったですよ。
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海宝寺
昨日は暖かでしたね、歩くと暑いくらいでした。

伏見の山手側をぶらぶらと散策してきました。

始めて行くお寺で思わぬ御朱印をいただけたり、珍しい物を見つけたり、いろいろと楽しかったです。

また、半年ぶりに海宝寺へも寄ってきました。

海宝寺は黄檗宗のお寺で、普茶料理の普茶開祖道場とされているそうです。

かつて「伊達政宗」が居館としていたそうで、境内には伊達政宗の手植えの木斛がありますが枯れたので今は二代目も植えられています。

また秀吉が愛用した手水鉢も置いてありました。

あいにくと室内は拝観出来ませんでしたが、お寺には「伊藤若冲」の群鶏図の障壁画が描かれた「若冲筆投げの間」があるそうです。

半年ぶりに御朱印もお願いすると親切に対応して下さりました。

のんびりとお寺とかを散策して、御朱印をいただいたり、お話をうかがえたりするのが本来の姿のように思っています。
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十五大明神
京都の祇園にある先斗町と言えば舞妓さんや芸妓さんの花街として知られている場所である。

その先斗町を四条から上がった、西側十五番路地と言う狭い路地の中ほどに、異様な物が置かれている。

薄暗い中で大きな赤い箱のような物が設置されているのだが、それにはたくさんのシールのような紙がベタベタと張りまくられているのだ。

実は、この赤い物は祠であり、貼られているのは千社札なのである。

「十五大明神」(そごだいみょうじん)と言われる神様である、貼られている千社札も場所柄か祇園の舞妓さんや芸妓さんと思われる名前ばかりである。

どうして、この先斗町の真ん中に祠が祀られているのか、それにはもちろん理由がある。

昭和52年の春の事だと言う。

深夜に少し南のお茶屋から火が出て、この一帯が火災になってしまった。

風の向きもあって火災は付近を焼きながら北の方に広がっていった。

しかし、強かった火勢が、この十五番路地で止まって類焼が抑えられることになる。

翌日に、その場所に類焼が止まった場所に行って見ると、そこにあった信楽焼きの狸が真っ二つに割れていたのである。

ちょうど火災が止まったところにあった「ますだ」と言うお店のおかみが、この狸が身代わりになって火事を止めてくれたのだという話になり、祠を造って狸をお祀りしたのが十五大明神の始まりだそうだ。

先斗町の真ん中と言うこともあり、舞妓さんや芸妓さんのお参りが多いのか、祠にはたくさんの千社札が貼り付けられている事から深く信仰されているのだろう。

さて、この十五大明神には怖ろしい都市伝説が語られている。

祠の下にはお賽銭箱があるのだが、このお賽銭箱にお金を入れると、テープが流れて京都言葉の女性の声で

「スッポコポコポン、スッポンポン、おおきにようお参りしておくれやした・・・今日のあんさんの御神籤は・・」

と音声が自動再生されて御神籤で占ってくれるのである。

ところが都市伝説では、時には不吉な御神籤を読む事があると言い

「・・・大凶どす、振り返ったらあきまへん。うち、もうそこに来てまっせ」

となり、思わず後ろを振り返ると顔の焼け爛れた舞妓さんが立っていて襲い掛かって来るのだと言う。

なんでも、火事で焼け死んだ舞妓さんだそうであるが、若い人の間で流行りそうなたわいない都市伝説である。

ちなみに、今はお賽銭箱は故障してるのか、お賽銭を入れても話さなくなっている。


また、この付近も狭い路地で暗くて恐い雰囲気なのもあるのだろう。

ただ、千社札を貼ってからお参りすると無事なのだそうだ。

でも、お祀りしているのは神様なんだから、そういう怪談にしてしまうのはいかがなものだろうか。
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山南忌
今日は、新選組の総長だった山南敬助さんの命日でした。

山南さんは、江戸へ向かうと書き置きを残して新選組から出たために、脱走とみなされて沖田総司を追ってに向けられて、大津に居る所を沖田さんに見つかり、そのまま隊に戻されました。

なぜ、新選組を抜けたのか

なぜ、遠くへ逃げずに大津にいたのか

多くの疑問が残されています。

また、山南さんを追うのも山南さんを慕っていていて、また山南さんも可愛がっていた沖田総司を一人で追わせたのか?

本気で捕まえたいなら数人で追うの所を、沖田さん一人で追わせたのは、もしかすると沖田さんが見逃すことを望んだのか、あるいは沖田さんなら山南さんも大人しく戻ると思ったのか、いろいろと推測派は広がります。

隊へ戻された山南さんには規則に従って切腹が言い渡されました。

山南さんと親しい人たちは、何とかごまかすから逃げるように言いましたが、山南さんはすでに切腹の意思を決めてたので断りました。

山南さんには愛し合ってた明里と言う女性がいましたが、急遽呼びに行って山南さんと今生の別れを惜しんだと言われています。

山南さんは介錯に沖田さんを選び、見事に切腹したと言われています。

山南さんの墓所である光縁寺さんでは、山南さんの命日である3月11日に追悼の法要が行われます。

また、新選組の屯所だった前川邸でも山南忌(さんなんき)と言う法要も行われます。

新選組も山南さんも大好きな私は、以前から時々に光縁寺さんに訪れては山南さんや亡くなられた隊士の方々のお墓参りをしていました。

命日である今日も、どうしてもお参りがしたくて静かにお参りして来ました。

ちなみに、山南さんのお墓の隣にある「沖田氏縁者」と言うお墓は、山南さんが最後に沖田さんに恋人の明里さんの今後を頼んだので、明里さんが亡くなった時に沖田氏縁者として山南さんのお墓の隣に葬られたとの説があります。

山南さんは謎も多いのですが、人柄も良くて多くの人に慕われていたそうです。

大好きな山南さんの御命日にお参りすることができて良かったです。
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鶯宿梅
京都御所の北方にある相国寺は多くの塔頭を持つ大きなお寺ですが、その中に「林光院」と言うお寺があります。

林光院は、通常は非公開のお寺ですが、京の冬の旅の特別公開で拝観できるので、「鶯宿梅」と言う梅の花を見に行ってきました。

少し前にも訪れたのですが、その時はまだ梅の開花の時期では無かったので、梅の開花を待って、もう一度出かけてきました。


その林光院の境内にある「鶯宿梅」(おうしゅくばい)と言う梅の木には伝説が残されています。

鶯宿梅は、端唄で「わたしゃ鶯、主は梅、やがて身まま気ままになるならば、サァ、鶯宿梅じゃないかいな・・・」と歌われたりしている梅の木です。

むかし、村上天皇の御代の事、平安時代の初期の頃で和歌とかが盛んになった時期でもありました。

ある年に、春を前にして内裏にあった梅の木がとつぜん枯れてしまいました。

毎年のように鶯が遊びに来て声を聞かせるので、村上天皇もお気に入りの梅の木でだったのです。

このままでは、楽しみにしていた鶯の声も聞かれない。

そこで、村上天皇は勅命で代わりの梅の木を探すように命じました。

しかし、内裏に植える梅の木であるのでどれでも良いというわけにもいかず、なかなか、これといった梅の木は見つかりません、天皇からは「まだか」と急かせれるようになるし、使いの者も焦るようになってきました。

しばらくして、西の京の辺りのある家の庭にすばらしい梅の木があるのを見つけて、その家の女主人に訳を話して勅命だからと梅の木を譲るように話しました。

その女主人も、これまでに大切に育ててきた梅の木ですから、簡単に譲りたくはありませんが天皇の思し召しならいかんともしがたく、また使いの者もようやく見つけた梅の木であるので強引にでも持っていきたかったのです。

女主人も心ならずも承諾するしかなく、梅の木は内裏に運んで植え替えられることになりました。

村上天皇は喜んで運ばれてきた梅の木を見に行って、見事な梅の銘木に感心していたが、ふと気づくと梅の木に短冊がつけてあり一首の和歌が書いてあるのを見つけました。

~勅ならばいともかしこし鶯の、宿はと問はばいかが答えん~

(恐れ多くも天皇のご命令ですから、私はこの梅を献上いたしますが、この梅を住処とする鴬がまた今年も飛んできて『私のお家はどこ?』と聞いてきたら、私は何と答えればよいのでしょう)

村上天皇は、女主人が大切に育てていた梅の木をむりやり持ってきたのだと思うと自分のわがままを恥じ入り、梅の木を元の女主人の元へさっそく返させることにしました。

そして、それにしても梅の木に掛けてあった和歌は見事な歌だと思い、女主人の身元を探らせると、それもそのはずで紀貫之の娘の紀内侍だったのでした。

それいらい、この梅の木は「鶯宿梅」(おうしゅくばい)と名付けられたそうです。

その後、時を経て紀内侍の屋敷跡に林光院が建てられて梅の木も残っていましたが、林光院が相国寺の塔頭として移転したのに伴って梅の木も植え替えられて今に至っています。

林光院の鶯宿梅は中庭にあり見事な梅の木できれいに花を咲かせていました。

しかし、中は撮影禁止で鶯宿梅の梅の木も撮影できませんでしたが、受付近くの二代目として植えてある鶯宿梅なら撮影しても大丈夫なので撮影してきました。

本木のように見事ではなくまだ小さいですが、それでもきれいに花を咲かせていました。

林光院でいただける御朱印にも鶯宿梅が書かれています。


また、今では鶯宿梅の梅の木も、他にもいろいろと植えられている所もあるそうで梅宮大社や北野天満宮とかにもあるようです。

こうして、千年を越える時を経た梅の木が、今も愛されて植え継がれているのは素敵な事ですね。
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御香宮
京都市伏見区の、京阪電車「伏見桃山」駅、あるいは近鉄電車「桃山御陵前」駅から道路を東に少し行くと「御香宮神社」(ごこうのみやじんじゃ)と言う神社がある。

創建年は不詳とされるが、当初は「御諸神社」と呼ばれていた由緒ある古社であり、神功皇后を主祭神として祀り安産守護の神社として、現在でも多くの信仰を集めている。

「御香宮」と言う名前であるが、平安時代の貞観4年(862年)に、この境内から清泉が湧き出して付近にふくいくたる「香」が満ち溢れた。

また、この霊水を飲むとたちまちどんな病気も癒されると噂になり、その御利益によって「清和天皇」より「御香宮」の名を賜ってから「御香宮神社」と呼ばれるようになったと言う。

この「御香水」であるが、ながらく出なくなって途絶えていたそうであるが、昭和57年(1982年)に地下を150メートル掘り下げて本殿の前に水汲み場を復活させたのだそうだ。

環境庁の名水百選にも認定されて、多くの人が水を汲みに訪れているそうだ。

この御香宮神社は、豊臣秀吉が天正18年(1590年)に、願文と太刀(重要文化財)を献じてその成功を祈り、やがて伏見城築城に際して、城内に鬼門除けの神として勧請して社領三百石を献じた言う。

その後、徳川家康も慶長10年(1605年)に元の地に本殿を造営し社領三百石を献じたそうだ。

また、御香宮神社の表門は秀吉が築城した伏見城の大手門を、江戸初期に水戸藩祖である徳川頼房(水戸黄門でお馴染みの光圀の父)が移築寄進したもので、表門正面の蟇股に彫られた中国の孔子説話の二十四孝にちなんだシーンの彫刻が見事である。

さて、この御香宮神社には拝殿の東側にりっぱな「絵馬堂」があり、かなりの年代物で傷みの激しい絵馬など多くの絵馬が掛けられている。

神社で絵馬と言えば、神社で社務所などで用意されている絵馬を買って、願い事を書いて奉納するのが一般的であるが、あれは小さな絵馬なので本来は小絵馬と言うそうだ。

もともとは、生きた馬を神様に奉納していたのが始まりであるそうで、その後に生きた馬から木などで作った馬に変わって行き、やがて絵に描いた馬へと変わって行ったことから「絵馬」と呼ばれるようになったと言う。

そして祈願のためや、願い事が叶ったお礼として絵馬を奉納するようになったのだが、大きなものだと2メートルを超える絵馬も珍しくない。

この御香宮神社の絵馬堂にも多くの絵馬が奉納されているのであるが、この絵馬についても幾つかの伝説が残されている。

絵馬堂に掛けられた絵馬の中で、ある一角に「猿曳」(さるひき)の様子を描いた絵馬が飾られている。

その絵馬は横は約2.5メートル、縦は2メートルほどで、古いものなので色なども落ちてしまっているが、鳥居のそばで芸を披露する帽子姿の猿と猿にかけられた紐を引く猿曳の姿が描かれているのである。

ちなみに猿曳は、今でいう猿回しのことである。

この絵馬の内容については、江戸時代の名所記「京童跡追」などに書かれているようだ。

ある日、諸国を巡っていた猿使いが、御香宮神社にようやくたどり着いた。

猿使いの男は、旅の疲れと空腹もあり、息も絶え絶えであった。

すると肩に乗っていた猿が駆け出して、神前に湧き出る霊水を両手ですくうと、猿使いの元に戻り男のの口に注いで飲ませたのである。

猿使いは喉が渇いていた事もあり、美味しい霊水を夢中になって飲み続けると、香り高い霊水の味わいに元気が回復して生き返った思いだった。

「この水の香りと美味しさはきっと神水に違いない」

感激した猿曳は、猿と供に一曲を舞って神に奉納し感謝を示したのだった。

この絵馬は、江戸時代の1646年に、願主が後藤庄兵衛、作者が前田六之丞として奉納されたものだと言い、伝説と奉納と、どちらが先かは定かではないようだ。

また、この絵馬には現在は金網がかぶせられていて、これにも謂れがあると言う。

この猿曳の絵馬の奉納された後、近くで夜な夜な作物が荒らされる事件が相次いだのだった。

せっかくの農作物が荒らされたのでは死活問題である。

たまりかねた住民たちは犯人を捕まえようと夜の番をすることになった。

ある夜のこと。

ついに、夜の暗さの中に田畑を荒らす一匹の猿を発見した。

こいつが田畑を荒らしていた犯人か!

そう思って、怒りもあって住民たちは猿を追い回して手にしていた鎌で猿に切りつけたが、そこは素早い猿の事で傷を負わせたものの逃げられてしまった。

明けて翌朝になり、住民たちが今度こそ猿を捕まえられますようにと御香宮神社に参拝し、ついでに絵馬堂を訪れて猿曳の絵馬を見て驚いた。

なんと、絵馬の猿の腕が斬られていたのだった。

さては、この絵馬の猿が抜け出して田畑を荒らしていたのか。

その事から、絵馬からサルが抜け出さないように金網がかぶせられたと言う。

そういう伝説も絵馬の出来の良さから生まれた話だと思われる。

その絵馬の完成度の高さからは、伝説的な彫刻師として有名な「左甚五郎」が作ったのではないかと噂されたほどだった。

ちなみの、その猿曳の絵馬は小絵馬として美しく復元されて社務所で求める事ができる。


このように絵馬堂には、神仏の姿や、馬や武士などの姿、当時の世相などが描かれた多くの絵馬が残っている。

また絵馬堂の絵馬とかは昔の人にとっては鑑賞の場でもあり、また人々が集う社交の場でもあったのだろう。

もう一つ、御香宮神社の絵馬堂を舞台とした怖ろしい伝説も残されている。

これは浅井了意の「伽婢子」に書かれた話である。

文亀年間の事である。

都の七条に、いつも奈良まで商売に通う男がいた。

その日も奈良まで商用で出かけたが、思ったよりも手間取って用を終えて都へ戻る途中の伏見の辺りで日が暮れてしまった。

辺りは暗くなり人影も見かけなくて心細くなった男は、通りかかった御香宮神社に入ると、拝殿で横になって夜を明かそうとしたのだった。

しばらくして男がまどろみかけた頃である。

枕元で呼びかける声がするので、男が何かと目を開けると枕元に直衣に烏帽子姿の男が立っていた。

烏帽子姿の男はこう言った。

「これより高貴なお方がこちらに来られて遊ばれる。少し脇にのいてお休みくだされ」

商人の男が不思議に思いながらも、場所を開けて脇に退くと二人の女性が現れた。

一人は高価な衣装をまとった美しい女性で、侍女を伴っている。

灯りがともると上品な敷物が敷かれ、そこに美味しそうな料理や酒が並べられた。

男は隅の方で隠れるように見ていると、女性が男に気がついて話しかけてきた。

「そこにおられるのは旅人のお方でしょうか、おそらく行き暮れて難渋されているのでしょう。どうぞ、こちらにおいでになって御一緒にくだされ」

女性に誘われて、男は恐る恐る近づくと、女性は高貴な顔の絶世の美女であり、また侍女のほうも初々しい乙女である。

男は美しさに見惚れていたが、お酒を勧められてお腹が空いてたこともあって、料理をいただいてお酒も呑み始めた。

やがて侍女が胡弓を弾いて、女性は琴を奏でて歌を唱和しはじめた。

その美しい調べと歌声に男はうっとりと聞き惚れるばかりである。

歌が終わると、男はお礼にと荷物の中から白銀花形の手箱を女性に献上した。

さらに侍女にも鼈甲の琴爪を贈り、その時に酒の酔いもありそっと侍女の手を握ってしまった。

すると、侍女も嫌がらずに微笑むと軽く男の手を握り返してきたである。

その時である。

侍女と男の様子を横目で見ていた女の表情がサッと変わった。

険しい眼差しになると、杯の並んだ台座を侍女に投げつけたのである。

杯が当たったのか侍女の顔から血が滴り、着物に赤い染みが付く。

男は意外な成り行きに驚き、おろおろとして立ち上がったその時に飛び上がったその時に、美女も侍女も何もかもが消えてしまっていた。

さては夢だったのか、男はただ呆然とするばかりだった。

男は、不思議な思いに眠ることもできず、やがて夜が明けてきた。

何となく嫌な気分にそうそうに帰ることにしようと神前にお参りした後で、ふと絵馬堂が気になって覗いて見ると、一枚の絵馬に目が奪われてしまう。

その絵馬には、昨夜の夢うつつに出会った琴を弾く美女と侍女、そして烏帽子姿の男の姿も見たままに描かれていたのである。

しかも杯を投げつけられた侍女の顔のあたりは大きく破れた傷がついていたのだった。

男は絵馬を調べて見たが誰の物なのか判らなかったと言う。

実際に、話に該当するような絵馬は無かったと言われているが、絵馬は願いや思いが篭められた物だけに不思議なことがあっても納得させてしまう雰囲気がある。

あるいは、絵馬に描かれた女性ですら、嫉妬に駆られると残忍になりと言う怖さと、だからこそ男性にはいい加減な行為への戒めで語られた話かも知れない。


もう一つ、絵馬堂には「算額」(さんがく)と言う特殊な絵馬が掛けられている事もある。

これは、数学の問題や回答を絵馬として奉納してあるもので、江戸時代中ごろから全国各地の寺社に算額を奉納するのが流行りだしたと言う。

当時の数学は現在の西洋数学ではなく、中国を起源とする「和算」と呼ばれる独自の数学だったようである。

その数学の問題の提出や解けた喜びを発表したものが算額とされ、当時は寺社の絵馬堂が公共の場所だった証なのかも知れない。

現在、日本各地に約820ほどの算額が残されているそうで、完全な形で現存するものは京都の北野天満宮の絵馬所にあるものだそうだ。

この御香宮神社の絵馬堂にも算額が掛けられているが、これは遺題と呼ばれる問題だけのもので、もとは天和三年(1683年)に山本宗信と言う人が奉納された物を昭和50年(1975年)に復元したものだそうだ。

なを、この算額の回答した絵馬が八坂神社に奉納されてるそうであるが、現在では絵馬堂が立ち入り禁止になっていて見れなくなっているのが残念である。

ちなみに、この御香宮神社と八坂神社の算額の絵馬が、山村美紗さんの「京都絵馬堂殺人事件」と言う小説のネタになっているそうだ。

これまでの話でも判るように、昔の絵馬堂は地元の人々の広告塔的な意味と、交流の場でもあったのかも知れない。
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秘仏
京都の清水寺の随求堂で222年振りの公開されてる秘仏の大随求菩薩を見に行ってきました。


日曜は混雑だったそうですが、平日だったので人は少な目でした。

秘仏は思ったよりも大きくてきれいな仏像でした。


それで随求陀羅尼と言うお札が千枚限定で授与されるのですが、印を押したので2500円もします。

買わないつもりだったのに、つい限定につられて買いましたがポスターなみに大きくて、筒はセットであるものの持ち帰りに苦労しました。

帰ってからも、どうするか困りますね。
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あきら兄ぃが・・・
夜中に寂しくなって、何となくあきら兄ぃを思い出してどうしてるか調べたらお亡くなりになってた。

諸口あきら、あきら兄ぃ。

私の若い頃に京都でラジオで大人気でずっと聞いてて大好きでした。

若い私が1番影響を受けたかも知れない人でした。

リターン・トウ・パラダイスで天国へ行かれたのかな。

かなりショック受けてます。

リターン・ツゥ・パラダイス

リターン・ツゥ・パラダイス


俺が生まれた あの町も

走り周った路地裏も

みんな昔のガキの頃

すねて流れて10余年

リターン・ツゥ・パラダイス

リターン・ツゥ・パラダイス

流れ者でも春はある

夢を見た日もあるけれど

どこでどうして躓いた

教えておくれよ影法師

リターン・ツゥ・パラダイス

リターン・ツゥ・パラダイス

俺が死んでも埋めてくれるな

空の果てまで駆けていく

きっと見えるさ故郷が

紅い夕日よ急ごうぜ

リターン・ツゥ・パラダイス

リターン・ツゥ・パラダイス



2017年9月10日

京都市内の病院で肺気睡で逝去されたそうでした。

享年81歳だそうです。

御冥福をお祈りいたします。
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吊り雛人形展
京都の法住寺さんで開かれてる吊り雛人形展へ行ってきました。

お寺のお部屋の方にたくさんの雛人形が飾られてて、中には豪華なのや貴重な雛人形が展示されてて素敵でした。

京都らしく、お内裏様が右側に置かれてるのも良いですね。

他にも、上から吊られた吊り雛やたくさんのお人形が飾られてて目を楽しませてくれました。
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