蹴上
京都で「蹴上」(けあげ)と言えば、東山を越えて山科に向かう市街の東側の地で、大きな浄水場がある場所である。

この「蹴上」と言う地名には「義経」の伝説が関わっていると言う。

京都市の地下鉄東西線の「蹴上」駅から、さらに三条通りを山科方面に行くと「日向大神宮」への参道があるが、それを過ぎてさらに山科方面へ向かって九条山の辺りの民家の隣りに小さなお堂があり、一体のお地蔵様が祀られている。

「蹴上の石仏」と言われているお地蔵様で、「牛若丸(義経)」に関わりのあるお地蔵様でもある。

話は、まだ元服前の「牛若丸」が、金売り吉次と供に京都を出て、奥州へ向かおうとしている時の事である。

牛若丸と金売り吉次は洛中を離れて粟田口を過ぎ、九条山の坂に差し掛かったところであった。

坂の上のほうから慌ただしい物音がすると思うと、馬に跨った武士が9人で急ぐのかすごい勢いで坂を下ってくるのである。

その武士達が牛若丸と擦れ違う時に、馬が水たまりの水を蹴り上げて牛若丸にかけてしまった。

ムッとした牛若丸が

「無礼者め!何者だ!!」

と声を荒げると、相手は謝るところか逆に怒鳴り返した。

「われは平家の武士で関原与市重治なるぞ、少しの水がかかったくらいで何を騒ぐか!」

そう言って馬上から高圧的な態度である。

牛若丸も元服前で若気の時期である、相手が平家の武士であることもあって無礼な態度に激怒した。

止めようとする吉次を振り払うと、牛若丸は太刀を抜いて武士達に斬り込んで行った。

小さな頃から剣法の修行も行っていた牛若丸である、相手が平家の武士と言えども怒りに任せて9人とも切り倒してしまった。

さて、事が静まると、そこには関原与市重治ほか家臣であろうか9人の死体が転がっている。

牛若丸もようやく怒りが収まり冷静になって自分の所業を見ると、激情にまかせて斬り殺してしまった事が恐ろしくもあり、武士達が不憫にも思われた。

そこで、殺した9人の武士の数と同じ9体の石仏を造らせると街道に安置し、武士達の菩提を弔うようにしたと言われている。

このお地蔵様は、後年に掘り出された物だそうで、その時の9体の石仏のうちの1体だそうである。

先に書いたように「蹴上」の地名も、この伝説の水を蹴り上げた事から名付けられたと言われている。

なお、牛若丸が平家の武士を切ったのは粟田口の「九体町」の辺りではないかと言う説もあるようだ。

また、残りの8体の石仏のち、途中にあった「日向大神宮」への参道を少し登った所にある「蹴上げインクライン疎水公園」の一角に祀られているのがそうだとも言われており、「義経大日如来」と名付けられて安置されている。

他の石仏の行方は不明だそうである。

さらに、さらに山科方面に進んだ所にある「京都薬科大学」のグラウンド内には、牛若丸が平家の武士を切った太刀を洗ったと言う「牛若丸血洗池」があるそうだが、今は小さな池が少し残るだけだと言う。

そして、同じグラウンドには、牛若丸が腰をかけて京都を偲んだと言われる「義経の腰掛石」もあるそうである。

今でも、雨後などに歩いて車に泥水を跳ねられると、かなり腹が立つものであり、私も酷く泥水を跳ねられてズブ濡れになったことがある。

史実は不明だが、これから奥州に向かうので血気に逸っていた牛若丸も、まだ少年と言える時期で激情にかられてしまったのだろうか。