葛原親王
京都府乙訓郡大山崎町の円明寺ヶ丘団地、そこから阪急電車京都線の線路を跨いだ地域に葛原(かづらはら)と言う地区がある。

葛原親王と言う人物にちなんだ地域から付けられた地名であるが、その中の「葛原児童公園」の中に一つの石碑が建てられている。

その石碑には「葛原親王塚伝承地 この付近」の文字が刻まれている。

つまり、この付近が葛原親王塚と呼ばれた古塚があったとされる地域なのだそうだ。

「葛原親王」(かづらはらしんのう)は、平安京を創った「桓武天皇」(かんむてんのう)の第三皇子とも第五皇子とも言われる皇子であり、嵯峨天皇の異腹の兄弟でもあった。

治部卿から大蔵卿、式部卿や中務卿など、当時の要職を経て、一品と言う第一級の親王の地位にまで昇進したと言う。

桓武天皇は子供が多く皇子も多く居たが、その中でも葛原親王はエリートだったようだ。

しかし、権力をカサにきる事も無くなく、それどころか皇族嫌いだったそうである。

葛原親王は、幼い時から聡明で史伝を歴覧し、生活を律し驕ることなく、旧典にことごとく練達し、朝廷に重用され、輦車に乗って内裏に入ることを許可されていたと言われている。

そして、自分の二人の子達には「王」の称号を辞めさせて、代わりに「平朝臣」の姓を貰い受けて臣籍降下したのである。

いわゆる「桓武平氏」がこうして始まったわけであり、葛原親王が桓武平氏の祖と言う事になるわけである。

やがて、葛原親王の孫である「高望王」は名実ともに「平氏」を名乗ることになり、またその孫が「平将門」であり葛原親王からすれば平将門は玄孫と言う事になるのである。

そして、葛原親王は仁寿3年(853年)6月4日に、六十八歳で逝去したと言うが、葛原親王の遺命により、朝廷の監喪・葬儀を辞退したそうだ。

この葛原児童公園の付近は、団地が出来る以前は竹やぶの中に「丸山」と呼ばれる古塚があり、それが葛原親王の墓とも火葬地とも伝えられてきた。

そういう曖昧な伝説でしか語り継がれなかったのは、先に書いたように葛原親王が死後は手厚く葬る事を断り、また朝廷の監督や保護を辞退からしたためだそうである。

皇族であることを辞退した葛原親王らしい話であるが、それでも伝説を通じて、その足跡はこの地に残されているようだ。

さらに、この伝承地である付近からは石棺の一部と見られる板石も密かに掘り出された事もあったようで、長い間に農道用として、あるいは近くを流れる久保川の橋代わりに使われて居たりしたと言う。

葛原親王の石棺であったかどうかは不明ではあるが、形や大きさから所縁の地を裏付ける物として、その板石を利用して「葛原親王塚伝承地」の石碑が建てられたのだそうである。