2014年10月の記事


奈良散策
昨日は奈良へ行ってました。

今の奈良は大きなイベントが行われてるみたいで、特別拝観とか秘仏の御開帳とかも多くて、私も頭塔の公開が目的で行ってました。

早朝から行って、東大寺の大仏殿と戒壇院を周ってから、歩いて高畑方面へ移動して頭塔を見学してから近くの新薬師寺へも行きました。

それから春日大社の森を歩いて抜けて、東大寺の二月堂へ。

東大寺の各お堂も御朱印をもらいながら周ると興福寺へ。

秋の特別公開に加えて正倉院展も開催されてるので、この付近は観光客でいっぱいですね。

正倉院展も見たいのですけど、時間がないのでパスです。

興福寺の北円堂も特別公開されてたので拝観してきました。

各所で鹿がいて心和ませてくれますね。

大きな鹿はさすがにビビリますが小鹿は可愛くて目が澄んでていいですね。

東大寺の付近も前と比べると露店がずいぶんと少なくなりましたね。

歩き回ってさすがに足がガタガタで帰宅してから夜に足が攣って激痛だったです。

紅葉はまだでしたが、奈良も紅葉や銀杏も綺麗ですし、これから良い季節になりますね。
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頭塔
今日は奈良の高畑方面にあるにある史跡の「頭塔」(ずとう)へ行って来ました。

前から行きたいと思いながら、拝観するには予約が必要だったのですけれど、今は特別公開で予約なしで見れるそうなので思い切って行って来ました。

頭塔は奈良時代の史跡で、段々を重ねたような構造でピラミッドのような感じです。

発掘前は円墳のような小山に木が生えた森のような感じで木々の間から石仏が見えていて「頭塔の森」と呼ばれていました。

昭和61年から発掘がはじまって、土の中から石積みの石段が現れてきたそうです。


伝説では、頭塔は奈良時代の僧で興福寺所縁のの玄ボウ(漢字表記不可)の頭を埋めたとのも言われています。

僧の玄ボウは奈良時代の興福寺所縁の僧(興福寺宝物館に木像あり)で、吉備真備らと供に遣唐使の一員として唐へ渡り20年近く過ごした後に一切経の経文(興福寺へ奉納)や仏像などを持ち帰りました。

その後、文武天皇の皇后である宮子が気の病であるのを玄ボウが指導して快方に向かい、宮子の姉である聖武天皇の光明皇后などの信任を得ました。

しかし、あまりに皇室と深く結びついたために宮子や光明皇后との関係が噂されるようになったのでした。

そういう中で大宰府に就かされていた藤原広嗣が、吉備真備と玄昉の罪と追放を訴えて九州で兵をあげたのでした、いわゆる広嗣の乱です。

しかし、広嗣軍は徐々に脱落者が増え敗色が濃くなると五島列島付近まで敗走してきましたが、広嗣と弟の綱手は捕らえられて唐津付近で斬首されてしまいました。

その後、僧玄ボウは広嗣に指弾されて乱の元となったこともあり、財産や役職も取り上げられて、筑紫へ左遷されてしまいます。

そして玄ボウは、筑紫の地で筑紫観音寺の落成法要の導師を務めているときに、広嗣は悪霊となって現れると弦ボウを掴むと天空に舞い上がり、玄ボウの身体はバラバラにされて落ちてきました。

胴体などはその場に落ちたのですが、頭は奈良の興福寺の庭に落ちてきたと言われています。

その玄ボウの頭を埋めたのが頭塔だと言われていたのです。

調査の結果、本来は土塔(どとう)と言うのが頭塔(ずとう)へと変化したのだと言われています。

頭塔の土の中には三段の土塔があり、これは孝謙天皇が母の光明皇后の病気平癒を祈願して造営したものとされています。

しかし造営がずさんで崩れてきたために東大寺の僧の「実忠」が塔身を崩して補正し、七段の姿に作り変えたのだそうです。

また、頭塔の石段には石仏が彫られており、1段目には5体、3段目には3体、5段目が5体、7段目には1体の石仏が彫られていましたが風化で損傷も激しくなっています。

現在は石仏の上には屋根が付けられていますが、これは当時の物の様子が不明なので劣化防止の便宜上に作られてるみたいです。

石仏の屋根の紋や石仏の様子には、東大寺の影響が大きく出ているのは東大寺の実忠が造営したからでしょうね。

もしかすると立体的な曼荼羅のような感じだったのかも知れないですね。

石仏は現在は28体が確認されていますが、そのうちの22体が重要文化財に指定されています。

今でこそ、民家に囲まれてぽつんとある感じですが、古代においてはピラミッドのように周囲から目立った存在だったのではなかったかと想像できますね。
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一年
職場に復帰して一年が過ぎました。

復帰した当時は安全靴を履くのも痛くて靴に切れ目を入れたり、歩くのもびっこを引いたりしていましたがそういう部分では良くなってきたと思います。

でも足はまだ悪くてズボンをはくのもしんどい時もあるんですし体力もかなり落ちてしまいました。

でももう少し何とか頑張るしかないですね。
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皿屋敷伝説
少し前に皿屋敷の本を読んでから、皿屋敷の伝説に興味を持ち、あれこれ調べたり本を読んだりしていた。

それで、伊藤篤さんの「日本の皿屋敷伝説」と言う本も読了した。

これは日本各地に伝わる皿屋敷に類する伝説を訪ねて紹介している本で、こうしてまとめると改めて日本各地に皿屋敷伝説が広がり伝えられている事が判る。

皿屋敷と言えば、家宝の皿を割ったお菊さんが井戸から亡霊となり現れて「一枚、二枚」と皿を数えるのをご存じの方も多いと思うが、それにも各地で様々な違いや物語があったりする。

特に作者が福岡出身なので福岡の皿屋敷伝説に踏み込んで調べられてるのが面白い。

さて、皿屋敷で有名なのが江戸は牛込の番町皿屋敷と、姫路の播州皿屋敷ではないだろうか。

どちらが元かは諸説あるようだが、歴史的には姫路の播州皿屋敷の方が古いようである。

簡単に紹介すると、


江戸の番町皿屋敷は、将軍徳川吉宗の頃の事。

牛込御門内五番町に旗本御小姓の屋敷があった。

その番頭を吉田大膳亮と言ったので吉田屋敷と呼ばれたが、後に他へ移されて空き地となっていた。

そこへ三代将軍の徳川家光の妹で豊臣秀頼の妻であった千姫の御殿が建てられた。

千姫は大阪城から助けられて姫路城主本多忠政の長男の本多忠刻に嫁いだが死別し、江戸に戻って天樹院を名乗っていたのである。

しかし、その後(千姫が次々と男を引き込んでは行為の後に虐殺したとの嘘説あり)千姫が亡くなると屋敷は取り壊されて更地となっていた。

そして御手先を勤める千五百石取りの旗本である青山主膳(播磨守)の屋敷が建てられた(更地に建てられたので更屋敷との説あり)。

青山主膳は火付盗賊改の役を勤めたが残忍で悪評が高く、盗賊として死罪となった向崎甚内の娘の菊を下女として奉公させていた。

承応二年正月の事。

菊は主膳が大切にしていた家宝の十枚組の皿の一枚を過って割ってしまった。

主膳の奥方はもともと菊に嫉妬していた事もあり、激しく怒って責めさいなんだが、主膳はさらに皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落としてしまう。

そして松の内が明ければ手討ちにするつもりで、それまでは一室に監禁して食事も与えなかった。

このまま苦しむよりはと考えた菊は、夜中に縄付きのままで部屋を抜け出すと裏の古井戸に身を投げて自ら命を絶ってしまう。

その後、夜になると井戸の底から「一つ、二つ」と皿を数える女の声が屋敷中にこだまして屋敷の者は怖ろしさに怯えていた。

やがて奥方が子を生んだが菊の祟りか右の中指がなかったと言う。

屋敷に仕えていた者たちも重なる怪異に怯えて一人一人と去って行ったのである。

やがて、公儀にも事の話が耳に入り、青山主膳は所領を没収されて親類預かりの身になったのだった。

しかし、その後も屋敷内では皿数えの怪異が続くので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経をを依頼した。

上人が夜に井戸端で読経を続けると、井戸から皿数えの声が聞こえだし、「七つ、八つ、九つ」と数えたところで、上人はすかさず「十」と付け加えると菊の亡霊は「あら、うれしや」と言って消え去り、その後は現れなくなったと言う。


この伝説が世間に知られている形に近いが、それでも偽説や矛盾や間違いも多く、お話として創られている部分が多いと思われる。


また牛込の他の伝説では

ある武士がいて嫉妬深い妻がいた。

武士は若い腰元を妾として寵愛していたが、武士が役目でしばらく留守にした折に妾が過って十枚揃いの皿の一枚を割ってしまった。

激怒した妻は、妾を折檻したあげくに一室に閉じ込めて水も食べ物も与えずに飢え死にさせようとした。

しかし、妾はなかなか死なないので妻は妾を絞め殺して、中間たちに命じて死骸を入れた棺桶を山に埋めさせようとした。

ところが妾は途中で息を吹き返して、棺桶の中から「着物の中に二百両を隠し持っているので、それをやるから助けてくれ」と中間たちに頼み込んだ。

中間たちは驚いたが、棺桶の蓋を開けると妾を助けて金を受け取ったが、このままではやはりまずいと金だけ取って、もう一度妾を絞め殺して埋めてしまったのだった。

数日後、妻は喉に腫れ物が出来て食事どころか水も飲めなくなった。

医者を呼んだが治療の手立ても無く困っていると、そこに妾の幽霊が現れると「私はこの妻に殺された。手を貸した中間の一人は川に沈めて殺した。もう一人の中間も首に腫瘍が出来て死んだ。この妻もやがて苦しんで死ぬから治療しても無駄である。このまま帰れ」と言い、医者は逃げ帰ったと言う。

この話は怖ろしく皿数えや井戸もでないが、江戸での皿屋敷に近い原型のような感じである。


続いて、もう一方の播州皿屋敷である。

姫路城主の小寺則職はまだ若く、執権の青山鉄山は、同じく置塩城主の赤松義村の執権の浦上村則と通じて、それぞれに置塩家と赤松家の乗っ取りを画策していた。

青山鉄山は、一味の町坪弾四郎らと謀って花見の宴で城主の毒殺をしていた。

しかし、忠臣の家老一派はお菊と言う女性を女中として住み込ませて情報を探らせていた。

やがてお菊は鉄山一味が花見の宴で毒殺を企んでいる事をツカムト家老一派に通報し、あわやと言う時に家老一派が駆けつけて逆臣達を切り伏せたが青山鉄山はいち早く逃げ出して青山の居城に立て籠った。

鉄山に通じている浦上村則は、自分の主君の赤松義村を殺すと鉄山に援軍を送ったので鉄山と浦上の連合軍の前に城主側はやむなく姫路城を捨て八島の飯森山城に避難し、姫路城は青山鉄山の手に落ちてしまった。

得意になった鉄山は慰労の宴を開いて家宝の十枚揃いの皿を出して接待し、宴が終わるとお菊に命じて皿を片付けさせたが皿が一枚無くなっていたのである。

実は、かねてからお菊に懸惣して言い寄っては拒絶されてきた町坪弾四郎が仕返しに一枚を隠してしまったのだった。

鉄山は、お菊に対して疑念をもっていた事もあり、家宝の皿を無くした事も重なって激怒してお菊を手打ちにしようとしたが、そこへ弾四郎が言葉巧みに鉄山をなだめるとお菊の身柄を引き受け、自分の屋敷の裏庭の松の木に縛り付け言いなりになるように折檻して責め立てた。

しかし、お菊は拒否して応じないのでとうとう切り殺して井戸の中へ投げ込んだのだった。

やがて夜になると井戸の中から「一枚、二枚」と皿を数えるお菊の声が聞こえてくる怪異が起こるようになり、世間では皿屋敷と呼ばれるようになったと言う。

その後、姫路城を追われていた小寺則職らは他の援軍を得る事ができると反撃に転じとうとう鉄山らから姫路城を奪い返すと、鉄山一味が逃げ込んだ青山城をも責め立てて青山鉄山らを打ち負かして成敗したのだった。

しかし、捕らわれた町坪弾四郎は隠し持っていた皿の一枚を出して赦しを請うたが赦されず、その後に身を隠していたお菊の二人の妹が出てきてお菊の仇討ちを願い出た。

仇討ちの願いは許されて、妹たちは見事に町坪弾四郎を討ちお菊の怨みを晴らしたのだった。

また小寺家ではお菊の忠義を讃えて城外の十二所神社の境内に祠を建ててお菊神社(三菊大明神)として祀ったと言う。


これが姫路城に伝わる皿屋敷の伝説だそうだが、史実と違う所や矛盾も多く、また謀反や仇討ちなど話を創られた部分もかなりあると思われる。

また、姫路には他にも違った皿屋敷伝説を伝える地域もあり、そちらの方が一般に知られている皿屋敷の話に近かったりもするのである。


他に、姫路を中心に語られる話にお菊の怨念がお菊虫と言う虫になったと言う話もある。

お菊虫と呼ばれたのは、実はジャコウアゲハの蛹の事で、これはその姿が後手に縛られたように見えるかららしい。。

寛政7年には、播磨国・姫路城下に、この後ろ手に縛られた女性のような姿をした虫の蛹が大発生し、城下の人々は「昔、姫路城で殺されたお菊の幽霊が、虫の姿を借りてこの世に帰ってきているのだ」と噂したという。

この事から蛹はお菊虫と呼ばれたそうで、兵庫県姫路市ではジャコウアゲハを市の蝶に指定していると言う。

ちなみに戦前まではお菊虫を姫路城の天守やお菊神社でも売っていたそうである。



始めに書いたように他にも皿屋敷については各地に伝説が語られ、中にはすでに流布している伝説が大きく影響していて話を変えられたり創られたりしている物も多い。

主な要素として


主人の皿を過って割った。

嫌がらせで皿を隠されて濡れ衣を着せられた。

主人と愛する関係にあり、気持ちを試すために皿をわざと割った、あるいは隠した。

主人に言い寄られていたが、夫あるいは恋人(三平)がいるので拒否して逆恨みされていた。

折檻されて、斬り殺され井戸に捨てられた。

折檻から逃げ出して自ら井戸へ身を投げた。

皿を割った責任から井戸や川へ身を投げた。

事件後に主人の家は祟りで滅んだり死に絶えた。


などなどの事例が形を変えたり合わさったりして伝説として語られたりしているようだ。

ただ、これだけ全国に類似の伝説があると言うのは、後世の創作や変更はあったとしても、奉公に出た娘が粗相などにより折檻されたり処罰されたりする事件は、各地で多く起こっており、それを核にして皿屋敷の伝説として語られるようになったのではないだろうか。

弱い立場の者が権力者へ復讐するには亡霊となって祟るくらいしか無かったのかも知れない。
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保津川
今日はお天気もよくて、また京都の嵯峨野へ行ってました。

嵐山から鳥居本まで歩いて、愛宕念仏寺・化野念仏寺とお参りして御朱印をもらいました。

あだしのまゆ村で少し休憩しましたが、来年の干支の未の繭人形があれこれ作られてましたよ。

それから常寂光寺で御朱印(書置きだった)をもらい野々宮神社の前を通るとアジア系外国人の団体旅行が何組も集まっててすごい混雑でした・・・もう少しばらけたら良いのに、なぜ同じ場所で固まる?

そこから、嵐山へ戻ってから本日の最難関の大悲閣千光寺へ向かいました。

保津川沿いの道を30分近く歩くのですけど、学生の頃にバイクで行ったような記憶がありますが、大人になってからは遠いのでほとんど行った事はなかったです。

保津川沿いに歩くのは景色も良いし気持ち良いのですけどね、紅葉の時期なら良いでしょうね。

ようやく千光寺まで行くと、今度は石段をかなり上がらないといけなくて、お寺についた時にはかなりバテバテでした。

拝観料取るのかって思うようなお寺ですが、まぁそこは喜捨だと思い、御朱印をお願いすると書置きで・・・まぁ良いですけどね。

景観を楽しもうと思っても展望閣は先客が占めてて、退いてくれそうもないので景色もあきらめて帰る事にしました。

遠くまで歩いて御朱印もらいに行っただけですな。

戻りも保津川沿いをぶらぶら歩くと保津川下りの船や星のやの船とかが行き来して楽しそうでした。

今の時期の保津川下りも気持ち良さそうでいいですね。

他にもいろいろとあって何かちぐはぐでイマイチの一日でしたが、こういう日もありますね。
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法界寺
昨日は、午後は枚方へ狂言を見に行ってましたが、午前中は暇なので京都の醍醐方面を散策してました。

地下鉄の小野駅で降りると、勧修寺で御朱印をいただくと小野髄心院へお参りする。

小野小町に所縁のお寺で梅で有名だが、今は花の時期ではないけれど、それでも割りと観光客はいました。

御朱印と御朱印帳もいただきました。

そこから歩いて、次は世界遺産でもある醍醐寺へ。

はじめに醍醐三宝院へ拝観しましたが、ここは境内はいっさい写真撮影禁止なのであまり面白くないです。

そこから醍醐寺へも拝観しましたが、ここは観光客が多くて人が絶えないですね。

三宝院と醍醐寺でも御朱印をいただきました。

そこから、石田方面へぶらぶら歩きながら、腹帯地蔵さんや一言寺にもお参りしながら法界寺へ向かいました。

しかし、狭い道が多くややこしくて迷子になりつつあるいて、ようやく法界寺へたどり着きました。

ういぶんと前に一度来てるのですけど、その時は六地蔵駅からバスだったので歩いてきたのは初めてだったんですよね。

法界寺は中へ入るのに拝観料が必要になります。

この付近の「日野」の地は日野氏の土地で、鴨長明の方丈があったり、親鸞上人の生誕地でもあるんですね。

ちなみに法界寺の旧境内で親鸞上人が生まれたと言われ、現在は日野誕生院というお寺になっています。

さて、法界寺ですが日野家の菩提寺で本尊の薬師如来の信仰から日野薬師や乳薬師と言われています。

薬師堂(重文)には非公開の秘仏として薬師如来像(重文)が祀られているのですが、その体内に伝教大師最澄の作と言われる薬師如来の小仏が体内仏として収められているそうです。

このように薬師如来の体内に小仏が収められているのが懐妊中の女性に通じるのか、安産や授乳の御利益の信仰になったと思われます。

薬師堂の中にはたくさんの「よだれかけ」が奉納されてて異様な雰囲気ではありますが、安産や授乳への信仰の深さを思わせますね。

また、阿弥陀堂(国宝)では御本尊の阿弥陀如来座像(国宝)は丈六の大きさで仏師の定朝の作といわれ、宇治の平等院の阿弥陀如来に近い物だそうです。

阿弥陀如来像の光背には透彫で天人や飛天が彫られています。

また内陣の壁間や四方の柱には様々な飛天や諸仏が描かれていて色も残っており、日本の絵画史上でも貴重なものだそうです。

本堂の中にはセンサーがあるらしく人が拝観すると御住職が来られて解説してくださります。

交通の便はあまりよくないですが、なかなか面白いお寺ですよ、1月の14日の夜には裸踊りが行われて知られてるそうです。

かなり歩いて疲れましたが、気候も涼しくなって気持ちよく散策できました。

この後に、バスで六地蔵駅まで行き、枚方まで戻って、昨日の日記に書きました「ひらかた市民狂言会2014」を見に行ったんですよね。
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ひらかた市民狂言会2014
今日は、午後から久しぶりに茂山家の狂言を見に行ってきました。

ほんとうは昨年の夏に行くつもりでチケットも用意してたのですが、事故で入院中で行く事ができず、退院後も何か気が進まず何も行かなかったのですが。今回は枚方で市民狂言として行われるのと曲目が好きな狂言だったので久しぶりに行く事にしました。

会場は枚方市民会館です。

市民参加型の狂言だそうで、「菌」と言う狂言では練習を積んだ市民の方がキノコ約で出演されてました。


○狂言のお話

茂山宗彦


○文相撲(ふずもう)

大名 茂山正邦

太郎冠者 山下守之

新参の者 茂山茂

後見 井口竜也


大名が新参者を雇う事にした。

太郎冠者がさっそく連れてきた男は特技が多く、中でも相撲が得意だと言う。

大名が喜んで自ら相撲の相手をするが、新参者と組んだとたんに大名は目がくらくらして負けてしまう。

新参者に聞くと目隠しの手だと言うので、大名は奥から相撲の秘伝書を出してきて対策を取って今度は勝つ事ができた。

新参者がもう一度対戦してくれというのでもう一度相撲を取ると、大名は苦戦となり秘伝書を出して読んでも負けてしまう・・・




○栗焼(くりやき)

太郎冠者 茂山千五郎

主人 松本薫

後見 山下守之


主人は太郎冠者に丹波の伯父から栗を40個もらった意味を考えさせると、太郎冠者は「しじゅう(始終)末代まで仲良く」と言われ、喜んで客にご馳走するので太郎冠者に栗を焼いてくるように申し付けた。

太郎冠者は囲炉裏で栗を焼くと美味しそうに焼けたので持って行こうとしたが美味しそうなので、お客に風味を尋ねられて答えられないといけないのでと一つ食べてしまう。

しかし、あまりに美味しいので、もう一つ、もう一つと全部食べてしまった。

そこで、主人に竈の神夫婦と34人の公達に栗を献上したと言い訳した。

主人は、残りの4個を出せと催促すると、太郎冠者は一つは虫食い、残りの3個は逃げ栗・追い栗・灰まみれになったと言い訳して叱られる・・・



○菌(くさびら)

法印 茂山宗彦

庭の亭主 茂山七五三

菌 井口竜也

菌 市民から参加

姫茸 網谷正美

後見 茂山正邦 山下守之


ある男の屋敷の庭に奇妙なキノコが増えるので気味悪くなった男は法印にキノコを退治する祈祷をお願いした。

法印が庭に来ると奇妙なキノコに驚くがさっそく祈祷を始めたのだった。

しかし、キノコは減るどころかどんどん増えていってしまう。

祈祷するたびにキノコは増えて屋敷中に増え続けてしまう・・・



久しぶりの茂山家の狂言で堪能できました、あまり見ることも少なかった曲ばかりだったのも良かったです。

また、恒例のカレンダーを買った人には直サインサービスで、松本薫さん、茂山七五三さん、茂山茂さんに直でサインいただいて感激でした。
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