大田垣蓮月
京都市の北区、上賀茂神社から賀茂川を挟んだ西側の神光院町に「神光院」と言うお寺がある。

もとは上賀茂神社の境内にあったそうであるが、真言宗のお寺で本尊の弘法大師像は厄除大師として多くの信仰を集めていると言う。

この神光院であるが、歌人であり陶芸家としても知られている「大田垣蓮月」(おおたがきれんげつ)に所縁のお寺でもあるそうだ。


大田垣蓮月は、本名を「誠」(せい)と言い、寛政3年(1791年)に鴨川に近い三本木に生まれたと言う。

父は伊賀国上野の城代家老である藤堂金七郎であり、母は名は不明であるが三本木の芸妓であったそうだ。

しかし、そういう特殊な出生からか、生後10日にして知恩院の寺侍である「大田垣光古」(おおたがきてるひさ)の家に養女に出されてしまう。

彼女の薄幸な生涯は生後すぐに始まったのである。

彼女が13歳になったときに養母であった女性が亡くなってしまい、続いて兄となっていた「千之助」も亡くなってしまった。

やがて、17歳の乙女と成長した彼女は、「望古」(もちひさ)と言う男性を養子に迎えて結婚することになる。

しかし、しばらくして生まれた長男は生後一ヶ月余りで死んでしまい、翌年生まれた長女もすぐに亡くなってしまったのである。

さらに、夫の望古さえも後を追うように他界してしまった。

不幸続きの彼女であったが、養父の光古は学問もあり歌道もたしなむ温厚な人柄で、養女である彼女を実の娘のように深い愛情で包んでくれたのが、彼女にとって救いではあった。

そして彼女が19歳となった文政2年(1819年)になると、養父の光古は彼女の寂しさを考えて養子縁組を組み、彦根藩の石川光定の三男の「重二郎」を婿に迎えたのだった。

重二郎は優しく温厚な性格で彼女とも仲睦まじく過ごし、女の子や男の子も授かり、ようやく彼女も幸せな日々を過ごせたのである。

しかし、その幸福もつかの間のものであり、それから数年の内には夫の重二郎をはじめ、二人の子供も病死して、また独りになってしまったのであった。

どうして自分ばかり不幸な目に遭うのだろう、どうしていつも幸せになれないのだろう・・・

次々と起こる不幸に彼女の心中はいかばかりだったであろう、さぞ心に大きな傷を、痛手を抱えていたと思う。

~ともに見し、桜は跡もなつやまの、嘆きのもとに、立つぞ悲しき~

彼女が夫の初七日で詠んだ歌である、ようやく掴みかけた幸せから悲しみに突き落とされた孤独が感じられる歌である。

そして初七日も終えた後に、彼女は養父である大田垣光古と供に知恩院の大僧正によって剃髪の式を受けることになる。

法名は「蓮月」とされ、清らかな白い蓮のように、そして美しい月のようにと言う意味を込められた法名である。

この時から「大田垣蓮月」となったのである、三十三歳の時であった。

真偽は定かでないが、蓮月はたいへん美人だったそうで、尼僧となってからも言い寄る男が多いために自ら歯を抜いて醜くしたと言う話もある。

また、知恩院山内の庵から、岡崎・北白川・聖護院などに転々と転居を続けたために、引越し好きの「家越し蓮月」との異名をとったとも言われている。

そうした転居を続けるうちの生業の道として陶器を作るようになり、自作の歌を刻みつけた陶器の花瓶とかは「蓮月焼」として評判になったと言う。

やがて、慶応元年(1865年)に76歳となった蓮月は「神光院」に移り住み、そこを終生の地として過ごしたのであった。

晩年の大田垣蓮月に一つの逸話がある。

明治元年(1868年)の一月のこと、鳥羽伏見の戦いで勝利した薩摩、長州の官軍が徳川慶喜を追討のため、江戸へ赴こうとして三条大橋を通った時の出来事だそうだ。

その馬前に進み出て一葉の短冊を差し出す一人の老尼がいた。

「島津久光公」の後ろにあった「西郷隆盛」は老尼に歩み寄り

「そなたは誰ぞ、何の用があってのことか」

と尋ねると、老尼は

「めでたきご出陣のほど承はり、腰折一首差し上げたいと存じまして…、私は蓮月と申す尼でございます」

と答えた。

差し出された短冊には「あだみかた かつもまくるも哀れなり 同じ御国の人とおもへば」(敵や味方も同じ国の人間だと思うと、勝つほうも負けるほうも哀れではないでしょうか)

としたためてあり、繰り返し口ずさんだ西郷隆盛は

「よく分かりました、必ずよいように取り計らいますから安心してお帰りなさい、私は西郷吉之助と申します」

と言ったそうである。

そして東海道を下った官軍は3月12日に品川に到着し、江戸城総攻撃は15日と決定されたが、勝海舟と西郷隆盛との会談によって江戸城無血開城が成されたのだと言う。

虚実は判らないが家族を次々と亡くす悲しみを知っている蓮月らしい逸話ではないだろうか。

大田垣蓮月は、歌や陶器や書などいろいろな道に堪能であったようであるが、それらの作品には彼女の人生観や思想などが強く現れていると言われている。

様々な不幸や悲しみの前半生と尼僧となってからの静かな後半生、それらのあらゆる経験が作品へと昇華されていったのかも知れない。

蓮月は、赤子の頃に実の親から離れさせられ、その後は夫も子供も失って孤独な人生であったと思う。

しかし、尼僧となってからは多くの友を得るようになり、また陶器や歌に打ち込むことで残りの人生の生きがいを得ていたのではないだろうか。

富岡鉄斎も師弟のような親子のような友人であったと言われている。

老年の蓮月は神光院の茶所で残りの余生を過ごしたそうで、85歳でその人生を終えたそうだ。

その死に顔は安らかで穏やかだったと言われており、もしかすると天国での夫や子供達との再会を楽しみにしていたのかも知れないと思う。

亡くなった蓮月は、神光院に近い共同墓地の質素な墓石の下に静かに眠っていると言う。