護王神社
京都御所の西側にある蛤御門から烏丸通りを隔てて、少し下がった所に「護王神社」(ごおうじんじゃ)と言う神社がある。

この護王神社の祭神は「和気清麻呂」(わけのきよまろ)と、その姉の「和気広虫」(わけのひろむし)であるが、この神社の神使は「猪」として有名である。

和気清麻呂を祀る神社が、神使いを猪にしているのには、ある伝説が関わっている。

「孝謙天皇」(こうけんてんのう)は女性の天皇であった。

「聖武天皇」と「光明皇后」との間に生まれた第一皇女で天平10年(738年)に女性として初めての皇太子になった、この頃が20歳くらいだと思われる。

その後、天平勝宝元年(749年)に健康を害していた父の聖武天皇の譲位を受けて天皇に即位し「孝謙天皇」となる。

しかし、実質的には母の光明皇太后と、その寵臣の「恵美押勝」(えみのおしかつ)が実権を握っていたと思われる。

聖武上皇が崩御すると、上皇の意思で皇太子にされていた「道祖王」(ふなどおう)を廃して、恵美押勝と親しい「大炊王」(おおいおう)を皇太子として立て、その後の天平宝字2年(758年)に退位して大炊王を「淳仁天皇」(じゅんにんてんおう)として即位させた、上皇となった孝謙上皇は40歳くらいではなかろうか。

そして、母であった光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇と淳仁天皇は近江の保良宮に御幸するのだが、この時に孝謙上皇が身体が悪いのを看病させるために呼んだのが東大寺にいた僧の「弓削道鏡」(ゆげのどうきょう)であった。

道鏡については詳しい事は不明であるが弓削の名前から弓削氏の一族かも知れない、ちなみに弓削は、その名のように弓を削ったり作ったりする氏族ではないかと推測される。

やがて、孝謙上皇が僧の道鏡を寵愛するようになり、淳仁天皇と孝謙上皇の関係が悪化し不和になっていく。

上皇と天皇は平城京に戻ると居を別にし、孝謙上皇が実権を握るようになると淳仁天皇と連携していた恵美押勝は力を失うようになり、やがて追い詰められたのか兵乱(恵美押勝の乱)を起こしたが孝謙上皇はこれを破り、道鏡を大臣禅師に任じると淳仁天皇を配して淡路に流すと、自らが再び天皇に就き「称徳天皇」(しょうとくてんのう)となる。

天皇の寵愛を受けている道鏡は信任され、やがて法王の地位にまで登る事になる。

そして神護景雲3年(769年)となった時の事である。

道鏡は思い上がり、やがて法王でも満足せずに自分が天皇の位につきたいと思い、太宰府の「阿曽麻呂」(あそまろ)に手をまわすと、宇佐八幡から「道鏡を皇位につかせたなら天下は太平になる」との御神託があったと奏上させるのである。

驚いた称徳天皇は、「和気広虫」(清麻呂の姉)に御神託が本当か確かめに行かせようとしたが、彼女は弟の「和気清麻呂」を代理として宇佐八幡宮へ勅使として向かわせる事となった。

しかし、それを知った道鏡は清麻呂を呼ぶと、自分に有利な報告をすれば、大臣にしてやろうと誘惑したと言う。

和気清麻呂は宇佐八幡宮に着くと、身を清めて御神前に進み祈願すると、神主から次のような御神託を受けるのだった。

「我が国は始まって以来、君主と臣下との区別がはっきりしている。臣下の者を君主とすることは未だかつて無いことである。天皇の後継者には必ず皇族の者を立てなさい。無道の者は早く追放してしまいなさい」

清麻呂は都へ帰ると、この事をと称徳天皇に報告するのだが道鏡の野望を阻むことになる。

これを聞いた法王の道鏡は激怒すると、清麻呂と広虫姫を死罪にしようと思ったが、称徳天皇になだめられて思い止まり、二人とも死罪にはせずに清麻呂を大隅国へ、広虫を備後へ流罪にすることにした。

この時に、道鏡は清麻呂の官位を奪い、名前も「別部穢麻呂」と改称させた上に手足の筋を切らせて歩けなくさせたそうだ。

清麻呂は、大隅国(今の鹿児島県)へ流されるのだが手足の筋を切られて歩けないので苦労も多かったと思う。

一方、道鏡はやはり清麻呂への怒りがおさまらずに密かに配下の者に清麻呂の暗殺を命じたのだった。

清麻呂は、大隈国に流される途中に、もう一度、宇佐八幡宮にお参りしたいと思い、宇佐郡しもとだ村に立ち寄っていた。

ここから宇佐八幡宮までは一里の距離である、清麻呂は歩けないので戸板のようなものを担がせて、その上に乗って宇佐八幡宮に向かっていった。

しばらくするとザワザワする物音とともに何かがこちらに近づく気配がする。

さては道鏡の手の者かと身構えると、なんと向かってきたのは300頭もの猪の大群であった。

猪達は、清麻呂の周囲を護るように取り囲むと、そのまま護衛するかのように宇佐八幡宮まで清麻呂を送って行ったのである。

こうして清麻呂は無事に宇佐八幡宮にお参りする事ができ、その霊験からか傷めた足も治って歩けるようになったと言う。

ちなみに、道鏡の放った刺客達は雷雨に悩まされて手を出せなかったそうだ。

こうして道鏡の野望は潰える事になるのだが、清麻呂は配所の大隅国で不自由な生活をしながらも治水事業に功績を残したと言われている。

それから一年が過ぎ、称徳天皇は53歳で崩御されると、道鏡も失脚することになる。

新しく即位された「光仁天皇」によって清麻呂と広虫は許されて都へ呼び戻されるのだった。

その後の清麻呂は豊前守や摂津太夫を歴任するなど活躍をしていき、桓武天皇の御世には長岡京から今の京都の地に遷都するように進言したとも言われ、造宮太夫として平安京の造営にも力を注いだそうである。

このような伝説から清麻呂を祀る神社の神使が猪となるのだが、この神社の境内には狛犬の代わりに猪の像が据えられており、境内にも猪に因んだ物が多く飾られている。

護王神社は元は高尾神護寺に清麻呂を祀って建立したのが始めであり、明治になって現在の地に移されたそうである。

また明治32年(1899年)の亥年に発行された10円札はこの神社の猪がデザインされていたそうで「イノシシ」の通称があったそうである。

そして、護王神社は先に述べた伝説から足の病気や怪我に御利益があるとされており、境内にある「座立猪」の像の近くの地面に「座立猪串」と言う串を奉納する慣わしがあるとされている。