2020年05月の記事


大黒寺
京都伏見の大黒寺さんへお参りして来ました。

大黒寺さんは、幕末の薩摩藩邸と近かった事もあり、所縁があるお寺です。

薩摩藩内の過激派厳粛の薩摩による寺田屋事件による犠牲者の墓があり、慰霊をされています。

寺田屋事件が5月21日なので、それに近い5月の最終日曜日に慰霊法要を行われていますが、今年はコロナの影響で中止されました。

最終日曜日とお聞きしてたのでお参りに行ったのですが、勘違いで24日にお寺だけでされたそうです。
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天寧寺
久しぶりに京都の天寧寺さんへお参りして来ました。

天寧寺さんは、額縁門と言われる比叡山を借景とした門からの眺めが絶景と言われていますね。

曹洞宗のお寺で、もとは会津にあったのを移されたそうです。

庭の榧の木が京都し指定天然記念物になっています。

その鶏の石塔ですが、中国の故事にちなんだ鶏で、その昔、善政により長く平和が続いたときに、庶民が不満を表すための太鼓を鳴らす必要がなくて、ついには太鼓が苔むしてしまい、鶏が住みついてしまったという故事から、平和の象徴となっています。

良いお天気で、気持ち良く散策出来ました。
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城南宮神苑
京都の城南宮の神苑へ久しぶりに入りました。

城南宮へ行って時間があったので、花の時期の間なのですが、久しぶりに散策しました。

これまで何度も入っているので、だいたいは判っているのですが、こういう時期でもきちんとお庭や花を世話されてて大変ですね。

杜若がきれいに咲いてて良かったです。
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豊臣国松
5月23日は、豊臣国松の命日なので、京都の豊国廟へ行って来ました。

豊臣国松は、豊臣秀頼の子で、秀吉の孫となります。

大阪の夏の陣で豊臣側が敗れた時に乳母とともに逃げれたが、豊臣の子孫を遺したくない徳川方の探索で捕らえられました。

その後、京都で市中引き回しの後に六条河原で徳川方に処刑されたとされています。

享年8歳でした。

墓は始めは誓願寺にありましたが、後に秀吉の御廟である豊国廟に移されました。

墓所の小さな石塔が国松の墓となっています。
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繁盛神社
京都の繁盛神社へお詣りして来ました。

近くに班女塚と言う哀しい女性の史跡があり、その班女を繁盛とかけて繁盛神社となった神社です。

5月19日に祭礼があったのですが、コロナウイルスや外出自粛を考えて、御神輿は本殿前に祀られて居祭とされたみたいです。

色とりどりの花で飾られてきれいな御神輿ですね。

また、手水も花を浮かべて花手水とされていました。

班女塚の方は注連縄を張り、疫病退散の斎場とされていました。
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頭塔
奈良のピラミッドとも言われる「頭塔」と言う史跡があります。


頭塔は奈良時代の史跡で、段々を重ねたような構造でピラミッドのような感じです。

発掘前は円墳のような小山に木が生えた森のような感じで木々の間から石仏が見えていて「頭塔の森」と呼ばれていました。

昭和61年から発掘がはじまって、土の中から石積みの石段が現れてきたそうです。

伝説では、頭塔は奈良時代の僧で興福寺所縁の玄ボウ(漢字表記不可)の頭を埋めたとのも言われています。

僧の玄ボウは奈良時代の興福寺所縁の僧(興福寺宝物館に木像あり)で、吉備真備らと供に遣唐使の一員として唐へ渡り20年近く過ごした後に一切経の経文(興福寺へ奉納)や仏像などを持ち帰りました。

その後、文武天皇の皇后である宮子が気の病であるのを玄ボウが指導して快方に向かい、宮子の姉である聖武天皇の光明皇后などの信任を得ました。

しかし、あまりに皇室と深く結びついたために宮子や光明皇后との関係が噂されるようになったのでした。

そういう中で大宰府に就かされていた藤原広嗣が、吉備真備と玄昉の罪と追放を訴えて九州で兵をあげたのでした、いわゆる広嗣の乱です。

しかし、広嗣軍は徐々に脱落者が増え敗色が濃くなると五島列島付近まで敗走してきましたが、広嗣と弟の綱手は捕らえられて唐津付近で斬首されてしまいました。

その後、僧玄ボウは広嗣に指弾されて乱の元となったこともあり、財産や役職も取り上げられて、筑紫へ左遷されてしまいます。

そして玄ボウは、筑紫の地で筑紫観音寺の落成法要の導師を務めているときに、広嗣は悪霊となって現れると弦ボウを掴むと天空に舞い上がり、玄ボウの身体はバラバラにされて落ちてきました。

胴体などはその場に落ちたのですが、頭は奈良の興福寺の庭に落ちてきたと言われています。

その玄ボウの頭を埋めたのが頭塔だと言われていたのです。

調査の結果、本来は土塔(どとう)と言うのが頭塔(ずとう)へと変化したのだと言われています。

頭塔の土の中には三段の土塔があり、これは孝謙天皇が母の光明皇后の病気平癒を祈願して造営したものとされています。

しかし造営がずさんで崩れてきたために東大寺の僧の「実忠」が塔身を崩して補正し、七段の姿に作り変えたのだそうです。

また、頭塔の石段には石仏が彫られており、1段目には5体、3段目には3体、5段目が5体、7段目には1体の石仏が彫られていましたが風化で損傷も激しくなっています。

現在は石仏の上には屋根が付けられていますが、これは当時の物の様子が不明なので劣化防止の便宜上に作られてるみたいです。

石仏の屋根の紋や石仏の様子には、東大寺の影響が大きく出ているのは東大寺の実忠が造営したからでしょうね。

もしかすると立体的な曼荼羅のような感じだったのかも知れないですね。

石仏は現在は28体が確認されていますが、そのうちの22体が重要文化財に指定されています。

今でこそ、民家に囲まれてぽつんとある感じですが、古代においてはピラミッドのように周囲から目立った存在だったのではなかったかと想像できますね。
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山吹
山吹のきれいに咲く時期ですね。

京都の松尾大社は山吹の名所としても知られていますが、今年も山吹の見頃を迎えていると思います。

毎年見に行ってましたが、今年は外出自粛で行くのを止めました。

境内を流れる小川の付近や境内のあちこちで、黄色い山吹が満開を迎えているでしょうね。

ここの山吹は八重の山吹ですが黄色い色が可愛いですね。

山吹と言うと太田道灌の伝説が有名です。

太田道灌は扇谷上杉家の家宰でした。

ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。

道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきました。

そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。

花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない」と怒り、雨の中を帰って行きました。

その夜、道灌がこの事を家臣に語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに「七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき」という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか」と説明しました。

驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったそうです。

緑色の中に黄色い花が咲いているのは元気が出そうで気持ち良いですね。
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葵祭
京都で5月15日は葵祭こと賀茂祭の日です。

しかし、今年はコロナウイルスの感染予防から行列の路頭の儀なども行われず、ヒロインである斎王代も選ばれませんでした。

神職や関係者だけで神事が行われます。

私も毎年お詣りしてるので、下鴨神社と上賀茂神社にお詣りして来ました。

どちらの神社も、例年の人出はないですが、お詣りに来る人はそこそこいました。

上賀茂神社では、限定のお守りをいただきました。

やはり、路頭の儀や斎王代がいないと寂しいですね。
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寝屋川八坂神社
寝屋川市にある八坂神社へお詣りして来ました。

疫病退散に御利益ありそうなのでお詣りしてきました。

創立年代は醍醐天皇の延長元年(923年)、また皇極天皇二年(643年)とされる古社だそうです。

京都の八坂神社とは特に関りなく、 播磨国の広峰神社から神霊を勧請したと伝われています。

むかし、茨田の池という池があり、ある夏に、池の水が腐敗し、虫が沸いて池をおおい、やがてその虫が死ぬと死骸は水面を覆ったそうです。

そのせいで、池の水は腐り魚たちな死に、悪疫が発生して住民らに被害が出ました。

それで、播州広峰神社に疫病平癒の祈願を行うと疫病は終息して行きました。

その後に、住民が小祠を建て、素盞嗚尊を祀ったのが始まりだそうです。

境内にある神木のくすの木は、樹齢が千年を越えるとも言われて祀られています。

駅からも近いので、時々はお詣りに行っています。
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わたし入籍します
「わたし入籍します」の「ねぇ一緒に食べよっか♥️」買いました。

枚方にある高級食パンのお店で、そのネーミングと美味しさで最近話題になっていますね。

テレビとかでも取り上げたりされて人気になっています。

枚方市の枚方警察署の近くにあるのですが、お散歩ついでに足を伸ばしました。

10時から開店で私は10分前くらいに行くと数人並んでて、開店時には20人くらいの行列になっていました。

食パンの、ねぇ一緒に食べよっか♥️と、葡萄食パンの胸キュンな午後♥️がありますが、焼き上がり時間が違うからか、葡萄食パンの方は整理券で後から取りに来るみたいでした(未確認)。

それぞれ2斤での発売になるので、1人の私には少し多いかな、食パンも切らずに売られています。

楽しみながら、ぼちぼちいただきたいと思います。
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三室戸寺
先日に三室戸寺へお参りしました。

西国観音霊場の札所になっています。

約1200年前の光仁天皇の勅願で千手観音菩薩を御本尊として創建されたそうです。

皇室とも所縁のお寺で、本山修験宗の別格本山となっています。

大庭園は紫陽花が有名ですが、躑躅や蓮などの四季の花でも有名です。

今の時期は躑躅の花が見頃になっています。

また、境内には源氏物語の浮舟の碑や宇賀神の狛蛇、福徳兎の狛兎、勝運の牛等があります。

花手水もされててきれいでした。
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大阪城の化け物屋敷
大阪城には化け物屋敷があったそうです。

大阪城にはいろいろな怪奇話が残されていると言います。

有名なのが淀君や秀頼の霊が彷徨っていると言うのをありますね。

他に、化け物屋敷があったと言う伝説があります。

徳川の世になってからのこと。

その化け物屋敷は、淀君と秀頼の自害碑からほど近い京橋口の近くの伏見櫓の付近の京橋口定番屋敷(公邸)だったそうです。

定番屋敷は大阪城を管理する重職の屋敷でしたが、この屋敷に住む者は高熱にうなされて病気になったり、自害する者がいたり、幽霊や化け物が住むと噂されていました。

それで、この屋敷に住む者たちは稲荷社を建てて無事を祈願したので、周辺には多くの稲荷社があったそうです。

やがて享保年間になり戸田大隅守が赴任してきました。

この戸田大隅守は化け物や信じないと言い、周辺にあった稲荷社を取り払い、城外の玉造稲荷へ移してしまったそうです。

しばらくすると屋敷に怪奇な事が起きました。

昼夜を問わずに幽霊や化け物が表れて怪しい出来事が続くようになったのでした。

そこで戸田大隅守は怪奇が起きる書院に籠ると、表れた化け物と死力を尽くして戦いました。

重傷を負いながらも化け物を倒しますと、そこには2メートルを超える大きな古狐が倒れていたそうです。

これが、大阪城の化け物屋敷の伝説だそうですが、この伏見櫓付近の場所は観光客も少なく、大きな岩や石柱が散乱して不気味な雰囲気の場所ではありました。
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