伏見稲荷
京都の伏見区にある伏見稲荷大社は全国に4万もあると言う稲荷社の総本社と言われている。

最近は外国人旅行者にも人気で連日多くの観光客で混雑している。

京阪電車の伏見稲荷駅やJRの伏見駅から参道が続いており、お土産物屋さんのお店が並び、狐の顔の稲荷煎餅や鯖寿司などのお店が並ぶが、なかでも目を引くのが雀やウズラなどの鳥をそのまま焼いた焼き鳥で、鳥の姿のままなので少し恐く思う人もいるようだが、鳥たちは米などの稲の収穫を荒らすので害鳥と言う事になるのかも知れない、伏見稲荷の名物として知られているが骨が多いので少し食べ難い。

伏見稲荷大社は本殿があり、その後ろにある稲荷山に多くの稲荷社が祀られており千本鳥居とも言われる無数の鳥居で作られた参道で山を周ってお参りするようになっているのだが、朱色の鳥居がどこまでも続く様子は赤い迷宮のようで神秘的でもある。

この稲荷山は、もとは古墳だったと言われており、神の山「神南備山」(かんなびやま)として古代から信仰を集めていたそうで、山の一ノ峰や二ノ峰・三ノ峰などのお塚は1600年ほど前の古墳で鏡などの出土品もあったそうだ。

さて、この稲荷山だが古代には伊奈利山と書かれたようで、渡来人の秦氏の一族により祀られたのが稲荷社のはじまりだと言われている。

和銅4年(711年)と言うからまだ奈良の平城京に遷都して間もない頃だろう。

秦中家らが伊奈利山の三箇所の峰の平らな所に蘇を植えて、秦の一族が春秋に祀ったのが始めとされ、霊験があり臨時の御幣を奉ったとの記録がある。

稲荷と言う名前は「稲が成る」から来たと言う説が有名であるが、それについて次のような伝説が「山城国風土記」にある。

「秦公伊侶具」(はたのきみいろぐ)は稲を蓄えて富み栄えていた。

ある時に、餅を弓の的にして矢を射ると、その餅の的は白い鳩に姿を変えて飛んで行くと山の峰に留まり、そこに稲が成り生えてきた。

その稲の成った事から社を「稲荷」と名付けたそうである。

その後、その子孫の代になり餅を的にした過ちを悔いると、社の木を根のついたまま抜いて持ち帰り、家に植えて祀ったそうだ。

それから、社の木を植えて根付けば福を授かり、枯れてしまうと福を授かる事ができないそうだ。

この伏見稲荷大社は京都の東側の伏見にあるのだが、対する西側には同じ秦氏でも血統の違うと思われる一族によって松尾大社が創られており、それぞれが農耕や養蚕などの技術の発展に貢献していくのは興味深い。


お稲荷さんと言えば狐で有名なのだが、狐はあくまで神様の眷族で神使であり、基本的に祭神は五穀豊穣の神でもある「宇賀御魂大神」(うかのみたまのおおかみ)であり、他にも佐田彦大神(さるたひこのおおかみ)・大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)等が祀られている。

それでは、なぜ狐が稲荷さんに関わってくるかと言うと、祭神である宇賀御魂大神の別称は「御饌神」(みけつかみ)なので、その「みけつ」がいつか「三狐神」(みけつねかみ)、さらに「御狐神」(みけつかみ)に転じたと言う説が知られている。

また、稲荷神がのちに密教の「荼枳尼天」(だきにてん)と習合されて、荼枳尼天は白狐に騎乗すると言われているので、そのまたがる狐がそのまま稲荷神の眷属とされたのだという説も流布している。

また狐については、空海の弟子の真雅僧正の著といわれている「稲荷流記」に面白い伝説が記されている。

平安初期の弘仁年間(810~824年)のこと、平安京の北にある船岡山の麓に、年老いた白狐の夫婦が棲んでいた。

この白狐夫婦は、心根が善良で、いつか世のため人のために尽くしたいと願っていたのだが、そこは畜生の身であっては、なかなかその願いを果たすことはできなかった。

そこで、白狐夫婦はある日に思い立って、五匹の子狐をともなって、稲荷山に参拝すると、「今日より当社の御眷属となりて神威をかりて、この願いを果たさん」と、社前に祈願したと言う。

すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神が現れて

「そなたたちの願いを聞き許そう。されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」

そう告げたそうだ。

こうして、狐夫婦は稲荷山に移り棲んで稲荷神の期待にこたえるべく日夜精進につとめることになり、男狐はオススキ・女狐はアコマチという名を神から授けられたとのことだ。


また、こういう伝説も残されている。

天長4年(827年)に淳和天皇は身体の調子がよくならないので占いで原因を調べようとした。

すると、東寺の五重塔を建てる時にお稲荷さんの山の木を切ったために祟りがあることが判った。

神の怒りをしずめるために天皇はお稲荷さんに対して「従五位下」と言う位をたてまつり、病気の治癒を願ったそうだ。

その後もお稲荷さんはだんだん上進していき、天慶5年(942年)には「正一位」にまでなったそうである。

他にも、あの「清少納言」の「枕草子」にも伏見稲荷に詣でる様子が出てくるが、昔の伏見稲荷は山の上にお社が祀られていた。

2月午の日の早暁に出発して稲荷社に詣でて中ノ社辺りで苦しくなり、それでも何とか上の社までお参りしたいと念じて登って行くと、もはや巳の刻(午前10時頃)になり暑く感じるようになってきて、涙をこぼしたいほどにわびしく思いつつ休憩してると40歳くらいの普段着の女性が、

「私は今日は七度詣でをするつもりです。もう三回巡りましたからあと四回くらいはなんでもありませんよ」

と往き合った知人らしい人に告げてさっさと行くのを眺めてはまことにうらやましく思ったものである。

私も年に一度くらいは伏見稲荷に参ってお山を歩くがなかなかハードで軽いハイキングくらいになってしまう、当時の清少納言にはかなりきつく思われたのだろう。

先にも書いたように稲荷山には千本鳥居と言われるほどに多くの鳥居が立てられて、赤い迷路のように道が分かれたりしており、迷いそうになることもたびたびである。

この赤い鳥居であるが、祈願した人が願い事が「通る」あるいは「通った」事の御礼の意味から、鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降に広がった結果だそうで、現在は約1万基の鳥居がお山の参道全体に並んで立っているそうだ。

伏見稲荷大社は関西でも1~2を争うほど初詣の人で賑わい、参道は身動きも出来ないほどの混雑で多くの人の信仰を集めている。

しかし、初めに書いたように最近は多くの外国人観光客などでいろいろな問題も起きてきて、私も含めて昔から参拝してた人間は避けるようになってきており、聖地とも言える怖いほども雰囲気も消えつつあるように思えるのだが、信仰の場所から観光地になってきているのがいかがなものなのだろうか。