2019年12月の記事


あだしのまゆ村
京都の奥嵯峨野の化野にある「あだしのまゆ村」さんへ行って来ました。

あだしの念仏寺の参道にある繭人形のお店です。

繭から作られた手作りの繭人形は、可愛い生き物や干支のお人形。

それに雛人形や武者人形なども作っておられます。

私も、もう十数年のお付き合いで懇意にさせていただいています。

また、お人形だけでなく、女将や店員さんのほんわかした雰囲気も魅力で、おしゃべりや足休めに訪れる方も多く、私も特に買わなくてしゃべりに行く事も多いです。

嵯峨野へ行かれた時には、少し休憩がてらにお店に寄られて、お茶でも飲んで休憩されてはいかがでしょう。
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六波羅蜜寺
京都の六波羅蜜寺へ行きました。

醍醐天皇の第二皇子だった空也上人が創建したお寺です。

平安時代末期には、平家の邸宅が付近に並び平氏と所縁のお寺となりました。

平清盛の座像が宝物庫に展示されており、平清盛の塚や、平家の武将である悪七兵衛影清の愛人である阿古屋の塚も残されています。

往時は広大な敷地でしたが、平家が都落ちする時には火をつけて多くが消失したとされています。

また、西国三十三ヵ所の札所であり、都七福神の弁財天に当たりますので多くの参拝者が訪れています。
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走る美術館
京都の嵐電の走る美術館電車に乗りました。

乗った時は気が付かなくて、目の前に馴染みのある伊藤若冲の鶏さんがあるので気付きました。

福田美術館とのコラボ電車ですね。

乗車中はいろいろ眺めて楽しめるのが良いですね。
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千本ゑんま堂
12月22日は、小野篁公の御命日なので、京都の千本ゑんま堂さんに行きました。

行ってみると、早朝に若い男が入り込んで暴れて本堂にも入って物を倒したり壊したりして乱暴狼藉を働いたそうで、まだ騒然としてました。

何でも警察が来ても物を投げつけたり暴れてたそうです。

ご住職も高齢ですし、大丈夫でしょうかね。

えんま様のお堂での狼藉、地獄行きは決まりでしょうか。
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僧正遍照
京都の元慶寺の近くにある僧正遍照のお墓にお参りして来ました。

遍照は、桓武天皇の孫に当たりますが、お仕えしていた仁明天皇に崩御後は出家して、僧正の位にまでなりました。

歌人として有名で、六歌仙や三十六歌仙にも加えられています。

百人一首の、

天つ風雲のかよひぢ吹きとじよ。乙女の姿しばし留めん。

の歌は有名ですね。
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元慶寺
京都の花山寺こと元慶寺さんへお参りしました。

元慶寺さんは、花山天皇に所縁のお寺です。

17歳で即位した花山天皇は、愛した女性と出会い入内させましたが、この女性が亡くなると大きな悲しみにくれて、出家して菩提を弔いたいともらすようになりました。

これに目をつけた次の天皇の座を狙う者たちは、側近の者と計り、自分も出家しますから一緒に仏門に入りましょうと語り、密かに花山天皇を連れ出すと元慶寺に連れていき、花山天皇を落飾させると自分達は逃げ出しました。

こうして騙されて出家した花山天皇は花山法王とされたのです。

ちなみに、安倍晴明は花山天皇の出家を予知したと言われています。

また、花山天皇が観音巡礼をされたのが西国三十三ヵ所巡礼の始まりとされ、元慶寺は番外札所となっています。

山門の上の中には菅原道真が漢詩を書いた鐘が納められています。
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信貴山朝護孫子寺
奈良の信貴山朝護孫子寺へ行きました。

遠かった~。

聖徳太子が物部氏との戦勝を祈願したのが創建の始まりですね。

寅の年の寅の日の寅の刻に毘沙門天王を感得したとされ、毘沙門天を祀るお寺なので寅が多いです、寅の胎内くぐりもあります。

人も少なくてゆっくりお参り出来ました。
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圓光寺
京都の圓光寺さんへ行って来ました。

晩秋の庭の枯れた風情が素敵ですね。

花の生涯のヒロインである村山たかさんのお墓にお参りしました。

村山たかさんは、井伊直弼と関わりを持ちいろいろ協力しましたが、桜田門外の変で直弼が殺害された後は、捕らえられて三条河原に晒されました。

晩年は出家して尼僧となりました。

時代の運命に翻弄された人生だったかも知れないですね。
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岩屋寺
京都の山科にある岩屋寺へ行きました。

大石神社の近くで、忠臣蔵の大石内蔵助が隠棲したのは、この岩屋寺だそうです。

境内には、大石内蔵助の遺品や弁財天があり、大石寺とも呼ばれています。

また、大石内蔵助の遺髪を埋めた遺髪塚もあり、真っ赤な紅葉が残っていました。
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四十七士記念義士祭
今日は12月14日で忠臣蔵の討入りの日ですね。

京都の岡崎にある本妙寺さんの四十七士記念義士祭に参列してきました。

本妙寺さんには四十七士のの吉田兼亮と兼貞父子、貝賀友信の墓があり赤穂義士の寺と通称されています。

私も毎年お参りして義士祭に参列させていただいています。

いろいろな貴重な寺宝も見れて楽しみにしています。
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花ちゃん
大石神社のアイドル、ミニホースの花ちゃんに会いに行きました。

花ちゃんは花子と言い、もう、けっこう前から居てますが、小さくて可愛いのでみんなの人気者ですね。

花ちゃんに会いたくて大石神社に行きたくなります。

いつまでも元気でいて欲しいです。
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大根焚き
京都の鳴滝にある了徳寺の大根焚きに行って来ました。

むかし、親鸞上人が鳴滝に寄られて説法をされたので里人がお礼に大根を塩ゆでして出しました。

親鸞上人は、そのお礼にと付近にあったススキの穂で書を書かれたので、そのご恩を忘れないように毎年12月に報恩講として大根焚きが行われます。

京都でも各地で大根焚きが行われていますが、1番歴史があり由緒もはっきりしてるのが了徳寺の大根焚きで、師走の風物詩として賑わいます。

私も毎年楽しみに寄せていただいています。

ちなみに大根よりお揚げが美味しくて大好きです。
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ドイツクリスマスマーケット
今年も大阪新梅田シティの梅田スカイビルで開かれるドイツクリスマスマーケットに行って来ました。

毎年1回目から続けて行っています。

外国のクリスマス用品、オーナメントやリースなどや、いろんな食べ物も売られています。

メリーゴーランドも素敵です。

南米のお店を出してるペルーのおじさんとすっかり顔馴染みで、毎年ご挨拶してまた来年って何年も続いています。

今年もいろいろ楽しく買い物出来ました。
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待賢門院
京都の花園にある法金剛院と待賢門院御陵へお参りして来ました。

法金剛院は待賢門院こと藤原璋子は、法金剛院と所縁が深く晩年を過ごされました、また御陵は法金剛院の裏手にあります。

白河法皇には祇園女御という一番のお気に入りの愛人がいましたが、祇園女御は、ある女子を養子にしていました。

この子が後に待賢門院(たいけんもんいん)と呼ばれる、権大納言の藤原公実の子、璋子(しょうし・たまこ)でした。

その子は非常に美しく、白河法皇は文字どおり目に入れても痛くないほど可愛がっていましたが、やがて璋子が少女に育つうち、ついに白河法皇と璋子は男女の関係に発展してしまいます。

いくら性におおらかな平安時代でも親子間(たとえ養子でも)の恋愛は御法度でした。

後ろめたさを覚えた法皇は、璋子を自分の実孫の15才の鳥羽天皇と結婚させますが、この結婚は、あまり上手くいきませんでした。

しばらくすると璋子と法皇は、また逢瀬を重ねるようになり、やがて二人の間に、後の崇徳天皇が生まれます。

この時より璋子は待賢門院と名乗るようになります。

崇徳天皇が生まれた頃から鳥羽天皇と璋子の仲も良くなりはじめ、鳥羽天皇の間に後の後白河天皇も生まれます。

しかし崇徳天皇は、正式には鳥羽天皇の皇子と言う事になるものの、実際には白河法皇と璋子との間の子供と噂されるようになります。

それを裏づけるように、白河法皇は、この男の子を溺愛し、鳥羽天皇を退位させると、まだ5歳のこの皇子を天皇に即位させたのでした、そして崇徳天皇となります。

崇徳天皇も白河法皇が健在の頃は良かったですが、やがて法皇が崩御されて、鳥羽上皇が院政を引くようになると冷遇されるようになります。

鳥羽上皇も、崇徳天皇が我が子と言う事になってはいても、祖父である白河法皇と、妻の待賢門院の子供である事は知っていたのではないかと言われています。

やがて、崇徳天皇は父の鳥羽上皇によって退位させられ、代わって鳥羽上皇の寵愛する「美福門院」の産んだ子である近衛天皇が即位する事になります。

その後、退位により上皇となった崇徳上皇は、母である待賢門院と鳥羽上皇との間にできた「後白河天皇」の時に「保元の乱」を起こして敗れ、讃岐に流されることになるのでした。

待賢門院は、自分が産んだ子である崇徳天皇と御白河天皇が争う事をどういう気持ちでいたのでしょうか。

やがて敗れた崇徳天皇は讃岐に流されて悲憤のうちに亡くなりました。

波乱の人生を過ごした待賢門院は、法金剛院での静かな余生を過ごしていろいろ思う事があったのかも知れないですね。

~長からむ心も知らず黒髪の、乱れて今朝はものをこそ思え~
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