白石の城20
 僕は以前、一二三に「1年の勉強以外はしなくていい」と言った。それでも一二三が口にしたということは、それがどうしてもかなえてほしい願いだったからだ。
「いいよ、教科書ならそこにあるから自由に使って。……数学の勉強がしたかったの?」
「……まだ、見ないと解けない問題があるから、それだけ」
「だったらそのうち3年生の教科書も必要になるね。僕が機会を見てそろえてあげるから」
 一二三が驚いたように僕を見上げて、そんな一二三の様子を微笑みながら見つめていると、やがて彼女の表情が徐々に笑顔に彩られていった。あまりのあっけなさに僕の方が呆然としてしまった。こんな簡単なことでよかったのか? 彼女が望んでいることは、僕にとってはこんなに簡単なものだったのか。
「ありがとう、美幸」
「いいえ、どういたしまして。一二三に喜んでもらえて僕もうれしいよ」
 さっそく僕の教科書を持ってきて読み解き始めた一二三を見ながら、僕はいろいろなことに気づいていた。数学の勉強をする一二三がとても楽しそうに見えた。僕は彼女の行動を見ていつも「それはしなくていい」とか、彼女が言いもしないことを先回りして「これは僕がやるよ」などと言ってばかりいた気がする。さっきも僕が「心配は要らない」と言ったことで訊きたいことも訊けずにあっさりと引き下がっていた。一二三は自分の希望をなかなか口に出せない子だ。僕の一言で、彼女はどれくらい多くのものを諦めてきたことだろう。
 彼女が人間を救おうとすることにも理由がある。その理由までは、僕には理解できないけれど、僕は彼女の希望をできるだけかなえてあげなければいけないのだろう。そうして口に出される希望はほんの一部だ。だけど、譲れないからこそ一二三はそう口にするのだから。
 それから数日、僕は何もせずにぼんやりとしたまま過ごしていた。こんなにのんびりと日々を過ごすのも久しぶりのことだった。この2年、僕たちはできるだけ早く活動開始前の種に追いつこうと、必死になって種の回収を続けていた。僕たちが遅れれば遅れただけ通り魔殺人の被害者たちが増えていったから。時間に追われる毎日で、こうして待つだけの時間というのはなかったのだ。
 やがて、待ちかねていたベスからの報告があった。メールや電話では説明しきれないからと、再び僕たちは屋敷に呼び出されたのだ。