蜘蛛の旋律・130
 無意識的にではあったのだけど、校舎に入るあたりから、オレは極力シーラのことを考えないようにしていた。あの時はまだ野草にかける言葉のひとつも思いつかなかったし、必死でもあったから、自分自身でセーブしてたのだと思う。野草のことだけで頭を一杯にして、野草にとって一番いい方法を見つけようと思っていた。
 だけど、葛城の指摘は、オレの無意識も意識もすべてさらけ出してしまった。オレは、野草の下位世界を守ることで、もう一度シーラに会いたいと思ってたんだ。野草が葛城達也を忘れたいはずなんかない。他の誰を忘れても、葛城達也を忘れることだけはしたくないはずだ。すべてを忘れることはできても、葛城達也だけ忘れるなんてできないはずだ。
 虚無は既に2人の足先まで迫っている。オレは最後の最後に、野草のことより自分の都合を優先させようとしたのだ。
「巳神君、シーラを好きになってくれて、ありがと」
 オレはもう、野草の表情から何かを読み取ることができなくなっていた。足先から野草も消えようとしている。野草はこの下位世界の物質と一緒に、塵になって消えようとしていたのだ。
「まだ諦めないでくれよ! これから2人で考えようぜ。ぜったい方法は見つかるはずだ!」
 野草の背後にある壁も、ドアも消えてゆく。そのドアの向こうに消えかかる1人の人間を見つけた。もう、上半身はほとんど消えていたのだけど、膝に乗せたワープロを叩きつづけている両手だけが見えた。黒澤弥生 ――
 一番野草に近いこの場所で、黒澤は最期まで小説を書き続けたのか。
「達也もアフルもシーラも、ほかの巳神君が知らないキャラクターも、全員あたしが連れて行くね。だから、巳神君も忘れて。小説のキャラクターは、現実世界に存在しちゃいけないんだ」
 これが、結末か? すべて存在しなかったことになる。野草の下位世界も、あんなに生き生きしていた野草のキャラクター達も。
 黒澤弥生、お前は、こんな小説を書きたかったっていうのか……?
「達也、あたし、やっとあなたを殺せる……」
「薫、お前が俺の神だ」
 抱き合ったまま静かに塵になる2人の顔には、なぜか満足そうな微笑みが浮かんでいた。