蜘蛛の旋律・126
 オレは、オレの身体がなぎ倒したテーブルを乗り越えて、再び野草の傍にしゃがみこんだ。このキャラクター達が虚無の彼方に消えても、野草さえ生きていればまたすぐに実体化することができる。残された僅かな時間にオレができるのは、野草を説得することだけだった。
「野草、頼む! 時間がないんだ! オレと一緒に生きるって言ってくれよ。これから先、お前の話を毎日聞く。一緒に本屋にも図書館にも行くし、お前が知らない現実も教えてやる。現実の人間には物語の人間とは違ったおもしろさもあるんだ、って。なあ、野草! お前と戦えるのはオレだけだろ? お前と同じくらい小説が好きで、毎日死ぬほど本を読んでて、お前の物語の世界がなくなることをこれだけ必死で食い止めようとしてるのは」
 野草はオレを嫌いだと言った。それは本当なのだと思う。だけど、だからこそ、野草を現実に引き止められるのはオレだけなんだ。おそらくオレは野草が初めて感情をあらわにした人間だったのだから。
 野草はゆっくりと首をもたげて、このとき初めてオレの顔を見た。笑った……ように見えたのはあるいは錯覚だったのか。
「あたしが、知らない現実……?」
 そのとき、背後にゾッとするような気配があった。
 我慢できずに振り返ると、虚無が教室の一部を浸食し始めているのが見えて、その壁の近くには武士と巫女が貼り付けられていたのだ。
 声を出すこともできず、顔を引きつらせたままの2人に虚無が迫る。目を離すことができなかった。最初に武士。そして、巫女 ――
 身体中が震えていた。音もなく崩れてゆく2人を、オレはただ見守ることしかできなかったのだ。
「まずは2人。薫、もうすぐ終わりだ」
「葛城! みんなを自由にしろ! 野草!」
 葛城はニヤニヤ笑いを顔に貼り付けたまま答えなかった。
 虚無は、次なるターゲット、シーラとアフルに向かって静かに侵攻していた。