蜘蛛の旋律・116
 アフルはオレを悪くないと言い、片桐はオレが悪いのだと言う。どちらの言葉も正しかったんだ。オレは、野草の前に姿を現わしたことで、野草を傷つけてしまったんだ。
 今ならもっと野草を理解できる気がする。野草は普通の高校生の女の子で、小説を書く天才だ。詳細な設定によって世界を変えることもできるし、内気で人との会話に躊躇することもある。オレが壊してしまった野草の「特別」を作り直すことができそうな気がする。野草はぜんぜん「特別」でもないし、他の誰とも違う「特別」な人間でもあるのだ。
 キャラクターとしての片桐信は、オレへの挑戦だったんだ。野草はオレをねじ伏せて自分を守りたかった。その反面、オレにねじ伏せられたくもあったのかもしれない。
 誰でも自分と戦ってる。野草の戦いは、自分の存在価値との戦いだ。オレは野草の価値を唯一認めなかった人間だった。そして、野草の価値を唯一認めた人間でもあるんだ。
「もしも薫の下位世界が現実世界に影響を与えなければ、巳神のことは薫の人生の小さな分岐点として吸収されてしまったと思う。だけど薫の小説は現実を変えてしまった。ショックを受けて呼びつづけた葛城達也という名前の人間は実在していて、薫の前に現われ、望み通りに殺してくれると言った。それから1ヶ月、薫が現実に残していた未練があなたのことだよ、巳神。……薫はね、あなたと歩きたいと思ったんだ。あなたと本屋に行きたい、ってね」
 ……そうか、それで判ったよ。野草が1ヶ月も死ぬ時を待っていた理由が。
「野草がオレと本屋に行くために、葛城達也が根回ししたんだな。雑誌の投稿欄にオレが興味を惹かれそうな本の情報を載せて」
 それで野草は満足しようとしたんだ。野草には時間がなかったから、せめてオレを野草の最期に立ち会った人間にすることで、オレの特別になろうとしたんだ。
「そう。そして、その状況を黒澤弥生が利用したんだ。自分が最後の小説を書くために。できることなら、薫に再び生きる希望を持たせるために」
 散りばめられていた様々なピース。その多くが、巫女の言葉によってあるべき位置に填まろうとしていた。