蜘蛛の旋律・112
 オレは野草のことを何も知らない。1年半、同じ部活でやってきて、すごく上手な小説を書くことだけしか知らない。野草が書いた小説のキャラクターの方がよく知っているくらいなんだ。シーラが今までどんな想いで生きてきたのかを知っているのに、野草がどんな想いでいたのか、オレは何ひとつ語ることができない。
 オレは今まで野草とどんな話をしただろう。毎月の短編小説を読んだあと野草に感想を伝えて、長編小説読破のあとは登場人物や背景について思ったことを語り、質問を浴びせた。野草は言葉が少なくて、答えを言いよどむことも多かったし、明確な答えを得ることもあまりなかった。だから言葉のキャッチボールにはならなくて、会話が弾むということもなかった。
 野草の中にあるたくさんの言葉は、すべて小説を書くことだけに注がれていたような気がする。ワープロの中でならあんなに饒舌で魅力的な野草は、現実では人と会話することさえ厭うていたのだ。オレは、野草の心は現実にはないような気がしていた。野草の心は小説の中にだけ存在する。オレはそんな風に思っていたのかもしれない。
「野草は、現実の中では、どんなことを思っていたんだ?」
 ここにいるキャラクター達は、野草の下位世界が現実と分離した瞬間、野草のことをすべて知ることができた。オレには判らない野草の現実を語ることができるのは、下位世界に存在する彼らなのだ。
 アフルと片桐は何も言わなかった。少しの沈黙のあと、アフルが突然驚愕の表情で巫女を見たのだ。
「私が話そうか」
 巫女の言葉はアフルの表情が変わった一瞬あとだった。……超能力者の反応というのは、常人のオレたちには少し不気味に思えるときがある。
「この男に話せば薫は救われるのか?」
「今は薫のことよりあなたのことだよ、信。……どうするんだ? ここまで来て、あなたはまだ薫の死を守りたいと思うのか?」
 巫女は人の運命を司るもの。彼女が見ている未来には、オレたちはいったいどう映っているのだろうか。