蜘蛛の旋律・117
 人間は単純じゃない。野草の心の中にも様々な感情があって、戦いを繰り返している。ここにいるキャラクター達は、すべて野草の心の象徴なんだ。オレを憎悪する片桐信も、オレに恋するシーラも。世界を死にいざなう葛城達也も、最後まで小説を書き続けようとする黒澤弥生も。
 ここにいるキャラクター達が生きようとしているのだから、野草の中にその気持ちがないはずがない。野草の中では死にたい気持ちと生きたい気持ちが戦ってるはずなんだ。
「片桐、頼む。道をあけてくれないか?」
 片桐の表情には、今は憎しみよりも諦めの方が色濃く浮かび上がっていた。
「お前のような偽善者は二度と薫に近づかせたくない」
 偽善者、か。そう見られても仕方がないんだろうな。オレは今日まで野草と本気で関わろうなんて思ってなかったんだ。
「それでも、あけてくれ。頼む」
 片桐はもう言葉を返しては来なかった。
 すべてを諦めたように目を伏せて、片桐は背後のドアを自分で開け、中に消えていった。ドアは再び閉ざされてしまったけど、オレがこのドアを開けるための障害は、もうないんだ。オレは後ろを振り返った。アフル、武士、シーラ、巫女。全員の目が言っていた。このドアをあけるのはオレ自身なのだと。
 中には片桐と葛城達也、そして野草がいる。オレは覚悟を決めてそのドアを開けた。
  ―― 地理準備室は、けっして広くはなかった。
 正面には校庭を見下ろすことができる窓。右の壁には棚があって、たくさんの資料が置いてある。真ん中にテーブルといくつかの椅子。今はそこには誰もいなくて、左の、地理室に続くドアの方に視線を移動させる。
 そのドアの前、柱を背にしてゆかに座る葛城達也に守られるように、野草はうずくまっていたのだ。