鶯宿梅
京都御所の北方にある相国寺は多くの塔頭を持つ大きなお寺ですが、その中に「林光院」と言うお寺があります。

林光院は、通常は非公開のお寺ですが、京の冬の旅の特別公開で拝観できるので、「鶯宿梅」と言う梅の花を見に行ってきました。

少し前にも訪れたのですが、その時はまだ梅の開花の時期では無かったので、梅の開花を待って、もう一度出かけてきました。


その林光院の境内にある「鶯宿梅」(おうしゅくばい)と言う梅の木には伝説が残されています。

鶯宿梅は、端唄で「わたしゃ鶯、主は梅、やがて身まま気ままになるならば、サァ、鶯宿梅じゃないかいな・・・」と歌われたりしている梅の木です。

むかし、村上天皇の御代の事、平安時代の初期の頃で和歌とかが盛んになった時期でもありました。

ある年に、春を前にして内裏にあった梅の木がとつぜん枯れてしまいました。

毎年のように鶯が遊びに来て声を聞かせるので、村上天皇もお気に入りの梅の木でだったのです。

このままでは、楽しみにしていた鶯の声も聞かれない。

そこで、村上天皇は勅命で代わりの梅の木を探すように命じました。

しかし、内裏に植える梅の木であるのでどれでも良いというわけにもいかず、なかなか、これといった梅の木は見つかりません、天皇からは「まだか」と急かせれるようになるし、使いの者も焦るようになってきました。

しばらくして、西の京の辺りのある家の庭にすばらしい梅の木があるのを見つけて、その家の女主人に訳を話して勅命だからと梅の木を譲るように話しました。

その女主人も、これまでに大切に育ててきた梅の木ですから、簡単に譲りたくはありませんが天皇の思し召しならいかんともしがたく、また使いの者もようやく見つけた梅の木であるので強引にでも持っていきたかったのです。

女主人も心ならずも承諾するしかなく、梅の木は内裏に運んで植え替えられることになりました。

村上天皇は喜んで運ばれてきた梅の木を見に行って、見事な梅の銘木に感心していたが、ふと気づくと梅の木に短冊がつけてあり一首の和歌が書いてあるのを見つけました。

~勅ならばいともかしこし鶯の、宿はと問はばいかが答えん~

(恐れ多くも天皇のご命令ですから、私はこの梅を献上いたしますが、この梅を住処とする鴬がまた今年も飛んできて『私のお家はどこ?』と聞いてきたら、私は何と答えればよいのでしょう)

村上天皇は、女主人が大切に育てていた梅の木をむりやり持ってきたのだと思うと自分のわがままを恥じ入り、梅の木を元の女主人の元へさっそく返させることにしました。

そして、それにしても梅の木に掛けてあった和歌は見事な歌だと思い、女主人の身元を探らせると、それもそのはずで紀貫之の娘の紀内侍だったのでした。

それいらい、この梅の木は「鶯宿梅」(おうしゅくばい)と名付けられたそうです。

その後、時を経て紀内侍の屋敷跡に林光院が建てられて梅の木も残っていましたが、林光院が相国寺の塔頭として移転したのに伴って梅の木も植え替えられて今に至っています。

林光院の鶯宿梅は中庭にあり見事な梅の木できれいに花を咲かせていました。

しかし、中は撮影禁止で鶯宿梅の梅の木も撮影できませんでしたが、受付近くの二代目として植えてある鶯宿梅なら撮影しても大丈夫なので撮影してきました。

本木のように見事ではなくまだ小さいですが、それでもきれいに花を咲かせていました。

林光院でいただける御朱印にも鶯宿梅が書かれています。


また、今では鶯宿梅の梅の木も、他にもいろいろと植えられている所もあるそうで梅宮大社や北野天満宮とかにもあるようです。

こうして、千年を越える時を経た梅の木が、今も愛されて植え継がれているのは素敵な事ですね。