小督局
京都の嵐山と言えば、いつでも多くの観光客の訪れる京都の中でも有数の観光地である。

その嵐山の桂川にかかる渡月橋を北に渡って西に入った嵐山ホテルの西側に一つの塚が祀られている。

小督塚と言われる塚で、平安時代に生きた「小督」(こごう)と言う女性の悲恋物語を伝える塚である。

何でも、聞いた話によると近所に住んでおられた往年の名女優「浪花千栄子」さんが散歩されてて見つけられたと言う事である。

時は、「平清盛」が権勢をほこる平安時代の末期である。

平清盛は、当時にすでに太政大臣の地位にあり、その一門も多くは重要な地位を占めており、まさに平家の全盛期であった。

ところが、清盛はこの権勢を安定させ、より地盤を固めるために身内から天皇を出すことを望んでいた。

時の天皇は「高倉天皇」で、この高倉天皇も、後白河法皇と清盛の妻・時子の妹との間にできた子供で平家の血が流れているのであり、それゆえに8歳の時には皇位に即けられたのである。

しかし清盛は、よりいっそうの平家と天皇家の結びつきを画策し、清盛自身の娘である徳子(後の建礼門院徳子)を高倉天皇の中宮に据えたのである。

高倉天皇は11歳、徳子は17歳であった。

清盛の娘の子、つまり孫が天皇になれば清盛は天皇の外祖父になることになる、そう思っての政略結婚であったが、やがて7年の月日が流れてようやく徳子は妊娠することになり、やがて皇太子を産む事になるのが後の「安徳天皇」である。

高倉天皇はまだ18歳の若さである、清盛のやり方に反発を覚えるようになるもののどうにもならず、やがて徳子以外の女性を求めるようになっていった。

その中でも天皇が気に添ったのが徳子についていた女官が使っている女童の「葵の前」である。

高倉天皇にしても年上で年齢差のある徳子よりも、若くて自分より年下の葵の前の方が楽しかったのかも知れない。

天皇はしばしば葵の前を召しては時間を過ごすが、それが話題となり広がると身分が問題となってきた。

いくらなんでも天皇と女童では身分が違いすぎる、関白の藤原基房などは自分の娘と言う事にしてお傍に仕えさせてはと言ってもみたが、それでもどうにもならずに葵の前は宮廷を下がらされて実家に戻り、しばらくして亡くなってしまう。

高倉天皇は、その報せを聞くと深く嘆いて、うつうつと気持も沈んでしまった。

徳子は、このままでは天皇が病気になるのではないかと心配し、天皇をお慰めする宴を催して、「小督局」を天皇のお相手に選んだのである。

小督は、桜町中納言成範の娘で、その美しさは宮中一とも噂され、琴の名手としても知られていた。

しかし、小督は当時に冷泉大納言隆房と言う恋人がいたのだった。

この隆房は清盛の4女を妻に向かえていて、清盛に知られないように小督のもとに通う、いわば今で言う不倫であったのだ。

さて、高倉天皇は遊宴の席で当代一の美女で琴の名手である小督を傍に使わされて大いに気を良くしてしまう。

おりからの月夜に、笛の名手の「源仲国」(みなもとのなかくに)も呼びだして小督の琴と合わせて演奏させ、名人二人の演奏を楽しんだそうだ。

高倉天皇の心の傷も、小督が現れた事で癒されていき、いつしか小督を愛するようになっていく。

そこで残されたのが小督の恋人でもあった冷泉大納言の隆房である。

なにしろ小督をめぐる恋敵とも言うべき相手が天皇ではあきらめるしかない。

しかし、あきらめきれずに思いを残し、恋しさに小督のいる宮中を彷徨っていた。

小督も、隆房が気の毒に思うが、今では高倉天皇の寵愛を受ける身であれば隆房にあきらめてもらうしかなく、会う事はもちろん手紙を出すことも控えて、天皇の傍に仕えていたのである。

隆房は、せめて思いを届けようと一首の歌を詠んで小督のいる御簾の内側へ投げ込んだ。

~思いかね 心は空に陸奥の 千賀の塩釜 間近きかいなし~

「あなたを恋する私の気持は空に満ちています、その満ちるに通じる陸奥の千賀の塩釜の名のように、あなたの近くにいる私ですがそのかいもなく、お声させかけてもらえません」

ところが、小督は心を鬼にして、その歌を見もしないで外に投げ返させたのだった。

隆房も、そうまでされては仕方なく、歌を懐にしまうと家に戻り、それからは魂が抜けたようにぼんやりとしてしまったのである。

やがて、この事が清盛の耳に入ってしまう。

「高倉天皇も、隆房も、娘の婿殿ではないか、それが二人とも、一人の女に心を奪われるとはどういうことだ!その憎い女を召し連れて成敗してくれる!!」

そう怒ってしまったのである。

小督も、その話を聞き、清盛が自分を殺そうとしていることを気づくと

「自分の身はともかくも、このままでは隆房様と帝のお二人にまで難が及んでしまう、そうなる前に身を隠してしまおう」

そう思うと、宮中を抜け出して身を隠してしまったのだった。

高倉天皇は、溺愛していた小督が突然に姿をけしたので周りに者に探させたが見つからない。

葵の前を失った時よりも、なお深く心が傷ついて、重い気の病に伏せってしまった。

それを聞いた清盛は、帝の態度にも腹を立てて、帝のお世話をする者の出仕まで止めてしまったから宮中はすっかろ寂れたようになってしまった。

しかし、高倉天皇は、愛する人が消えてしまった悲しみに嘆くばかりであった。

天皇は、ある夜ふと見上げた月の美しさに感じるものがあり、誰か人はおらぬかと呼びかけた。

すると、その日には「源仲国」が殿中に来ていたので、急いで帝の元にまかりでた、あの遊宴の席で小督のことに合わせて笛を吹いたあの仲国である。

高倉帝は仲国を見ると側に呼び寄せ

「おお仲国、良い所に来ておった、その方は小督の行方を知っておらぬのか?」

こう聞くと、仲国は

「さて、いっこうに存じませぬ」

そう答えるしかなかった。

それでも帝がすがるように

「噂で嵯峨野の方に隠れ住んでいると聞いた事がある、その方、訪ねてきてはくれまいか」

そう言われると、仲国は

「さて、嵯峨野の辺りと申されても、せめて誰の所にいるのかくらいは判りませんと捜しようがございません」

と答えるしかなかった。

しかし、帝の悲しそうなお顔を拝見すると目には涙が浮かんでいる、それほどまでに小督を思っておられるのか、そう思うと仲国は

「ともかくも嵯峨野の辺りを訪ねててまいりましょう」

そう言うと馬に乗り嵯峨野に向かって行くのであった。

仲国は嵯峨野に着くが、なにしろ嵯峨野と言うだけで手がかりも無い、どうしようと考えていると、ふと思いついたのが、かつて遊宴の席で小督の琴の音に合わせて笛を吹いたことだ。

「もしや、こういう月夜の事だから小督も琴を弾いているやも知れぬ」

そう考えると琴の音色はしないかと嵯峨野を訪ねて周るのだった。

しかし、なかなか琴の音は聞こえてこないし小督の行方も判らない、このままでは帝に申し訳ないと思いながら、仲国はいつしか桂川の近くまで来てしまい、さて、ここまで来たなら近くの法輪寺を訪ねてみようかと思ったその時に、かすかに琴の音が聞こえたような気がした。

仲国は空耳かと思いながらも、わずかな手がかりにすがるように琴の音を頼りに近づいて行った。

「峰の嵐か、松風か、訪ぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒を速めて行くほどに・・・」と歌にも歌われた名場面である。

しだいに琴の音は近づいてきてはっきり聞こえるようになってくる、もはや空耳などではなく、間違いなく小督の琴の音であった。

仲国は何度か小督の琴を聞いているので間違いないと思い、よく聞くとその曲は「想夫恋」の曲である、小督も帝を忘れられずに琴を弾いて偲んでいるのかと思うと胸が熱くなるのだった。

そこで、仲国は、笛を取り出すと、小督の琴に合わせて吹き始めた。

この時の、仲国が小督の琴を聞きながら笛を吹いた場所が「琴聴橋」として残されている。

元は、渡月橋の北側に渡った東よりにあったらしいが、今は、やはり渡月橋を北側に渡り少し西の車折神社・嵐山頓宮の前の小さな石の橋がそうだと言われている。

さて、仲国が琴の音に合わせてしばし笛を吹いていると、琴の音はいつしか止んでいた。

仲国は、小督も自分に気がついたかと思うと、小督の屋敷と思しき庭先から声をかけた。

「小督殿、仲国でございます主上の命によりお迎えにまいりました」

しかし、屋敷からは何の答えも無い。

「もうし小督殿・・・」

仲国が声をかけながら足を踏み出すと屋敷から声がかかった。

「お待ちください、ここには帝からお迎えをいただくような者はおりませぬ、お帰りくださいませ」

その声はまぎれもない小督のものである。

「小督殿、お気持は判りますが、あなたがお姿を隠されてから主上はおやつれになり食もすすみません、このままでは御病気になられるほどにお嘆きになられてるのです」

そう仲国が言うと、小督は

「私がお傍にいては帝にご迷惑をかけることになってしまう、そう思えばこそ身を隠したのです、どうぞお察しくださいませ」

そう答えるばかりである。

仲国はそれでも

「しかし小督殿、このままでは主上は病に倒れてしまわれてしまいます、そうなれば御心使いもなにもなりますまい、どうかお戻りくださいませ」

そう言って小督を説得するのだった。

しかし小督の決心は固く

「琴を弾いたのも久しぶりでした、明日には大原の奥に身を引き篭もり髪を下ろすつもりでしたので、この屋敷の人に勧められてお別れのつもりで琴を弾いたのです。琴など弾かなければ良かった・・・どうか私の事はあきらめてくださいませ」

そう言って宮中で着る衣装さえ、もう不要だと差し出すのだった。

仲国はそう聞くと

「いえ、それはなりませぬ。大原で髪を下ろされるような事にでもなれば主上に申し訳がない。今から主上に御報告にまいりますから、せめてそれまではお待ちくださいませ」

そう言うと供の者に見張らせて、自分は馬を飛ばして内裏に急いだ。

仲国が御殿に上がると帝は眠れもせずに待っておられて、仲国の話を聞くやすぐに小督を連れてくるように命じた。

仲国は、これを知った時の清盛の仕返しも恐ろしいが、今は主命の方が大事である、さっそくに牛車を用意させると嵯峨野へ迎えに行くのであった。

しかし、小督は帝のお召しでも受けまいと固辞したが、仲国もいまさら連れて帰らないわけにはいかない、無理やりのように小督を牛車に乗せると強引に内裏へつれて行った。

天皇は、小督の顔を見ると大いに喜んで、そのまま小督を人目につかない所に隠すと片時も離さずに愛されたのであった。

やがて、小督は身篭って姫宮を産む事になる。

その事は、やがて清盛の耳にはいり、清盛は激怒してしまう。

清盛は部下の者に命じて小督を捕らえさせると、そのまま東山にある清閑寺に押し込めると無理やり髪を下ろさせて尼にしてしまう。

一度は出家を決心していた小督であったが、再び帝に愛されて子供もできたのに、それを強引に尼にさせられたのでは心残りばかりで仏の道にも身が入らずに引き裂かれた思いに悲しみがつのるばかりであった。

この時に小督はまだ23歳の若さであったのだ。

高倉天皇は、せっかく見つけた愛する小督と生まれた子供とも清盛の力で引き離され、しかも、むりやりに我が子の「安徳天皇」に帝位を追われるように退位させられて、悲しみと恨みとに沈んで病に伏せるとそのまま崩御されてしまった。

高倉天皇もわずか21歳であったと言う。

高倉天皇は、せめて死んでからは小督の近くにいたいと思って、「自分が死んだら小督のいる清閑寺へ葬ってくれ」と遺言を残していた。

その思いを汲んでか、やがて、高倉天皇の葬儀は清閑寺で行われ、御遺体は清閑寺の側に御陵を築かれて葬られることになる。

小督は、愛する帝が崩御された悲しみの中にも、もう引き離されることのないように、この清閑寺に庵を結んで、残りの生涯を帝の墓守をするかのように、高倉天皇の菩提を弔いながらすごしたと言う。

やがて、44歳で小督は世をさったそうであるが、高倉天皇陵の傍らにはひっそりと小督の墓と伝えられる宝篋印塔が築かれているそうだが、外からは見ることは出来ない、おそらく誰にもじゃまされずに仲良く寄り添っているのかも知れない。

なお、この清閑寺の境内にも小督の供養塔と言われるものが建てられており、二つ並んだ塔の向かって右側の塔が小督の供養塔だそうである。

その姿は、静けさの中にひっそりと高倉天皇陵を見守っているようである。

なお、高倉天皇と小督の間に生まれた皇女は、範子内親王と呼ばれ徳子などの世話を受けたそうで、成長して坊門女院となったとされており、また土御門天皇の准母の立場になったとも言われているようである。