建礼門院
2008年5月7日に京都の東山にある「長楽寺」が失火によって炎上した、幸いにも仏像とかは無事だったようだが建物とかは被害に遭い、私の紅葉の隠れスポットとして大切にしていた場所だったので残念である。

この長楽寺は、平清盛の娘であり、高倉天皇の中宮(皇后に次ぐ地位)となり安徳天皇の母となった平徳子こと建礼門院に所縁のお寺でもあった。

そういえば、大原にあるやはり建礼門院に所縁のあるお寺の寂光院も2000年に放火による火災に遭っているから、建礼門院に所縁のお寺の二つが火災に遭ったのも因縁だろうか。

「平徳子」は、「平清盛」と正妻の時子との次女として生まれたのである。

父の清盛は、保元の乱や平治の乱に勝利したことにより、朝廷内で大きな力を持つようになると平氏による政権を形成するようになる。

そして仁安2年(1167年)には平清盛は遂に太政大臣にまで上り詰めたのである。

さらに、その権力を盤石にする手段として、天皇の外戚となることを画策する。

「高倉天皇」は、平清盛の妻である「平時子」の妹の「平滋子」(建春門院)と後白河法皇との間に出来た子であったのであるが、清盛は天皇家との結び付きをより強めるべく娘の徳子の入内を望むようになる。

そして、徳子をいったん「後白河法皇」の猶子としたうえで、承安元年(1171年)に17歳となっていた徳子は、まだ11歳の若さである高倉天皇の元に入内して「中宮」となったのである。

まだ11歳の少年とも言える年齢の天皇に、17歳の妻を与えてもなかなか普通の夫婦のようにはなれないのだろう。

それでも、徳子の入内から7年後の治承2年(1178年)になり、24歳になっていた徳子はようやく懐妊したのである。


清盛ら平家一門は男子の誕生を願って諸寺社に盛んに加持祈祷をさせたが、この時の安産祈願で安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀事件で鬼界ヶ島へ流されていた平康頼と藤原成経が赦免されるのだが、俊寛のみは許されず島で没することになる。

やがて、同年11月12日に徳子は男子の言仁親王を生み、翌月の12月には親王は立太子された、後の「安徳天皇」である。

こうして徳子は親王を生むことができたのではあるが、しかし高倉天皇より6歳も年上であり、必ずしも仲睦まじくなかったと言う。

高倉天皇は徳子付きの女官が使っていた女童である「葵の前」と言う女性を寵愛するようになったのである。

おそらく年の離れた徳子といるよりも年少の葵の前の方が気が楽であったのだろう。

しかし、いくらなんでも天皇と女童では身分が違いすぎて周囲の反対もあり、やがて女童は実家に戻されてまもなく亡くなってしまった。

高倉天皇は葵の前の死に悲嘆にくれる毎日を過ごすのである。

事情はどうあれ、夫である高倉天皇の嘆き沈む姿に徳子も心を痛め、天皇の気持ちを慰めようと、宮廷一の琴の名手と言われた「小督局」(こごうのつぼね)を招いて遊宴を催したのだった。

小督局は桜町中納言茂範の娘で、琴の名手であるとともに美女としても知られていた。

また、平清盛の四女を妻に持つ冷泉大納言隆房の恋人でもあったのである。

さて、遊宴の席での小督局の琴の調べと、その美しさに高倉天皇の心も慰められて、いつしか天皇は小督局に心を奪われるようになっていく。

高倉天皇の心は慰められたものの、自ら女性を与えた結果となった徳子の気持ちは痛んだのではないだろうか。

こうして高倉天皇と小督局の恋の物語が始まるのであるが、それは平清盛の怒りを買うことでもあった。

小督は、このままでは主上に災いが及んでしまうと思い、こっそりと宮中を抜け出して行方不明になる。

高倉天皇は源仲国に命じて小督の行方を捜させて、ようやく嵯峨野の地に隠れ住む小督を見つけ出して、何とか天皇の下に連れ戻してこっそりと暮らすようになり、姫君まで生まれるのであった。

しかし、やはり小督と高倉天皇の噂は清盛の元にも流れて行き、清盛は激怒して小督を無理やり出家させて尼にして二人の間を引き裂いたのである。

こうして、高倉天皇の悲しみは前にもまして深いものになってしまった。

また、後白河法皇と平清盛との対立も高倉天皇を悩ませるようになり、やがて近衛家の所領継承問題に不満を持った清盛が後白河法皇を幽閉してしまったのである。

こうして、政権を掌握し平清盛は高倉天皇を退位させると、高倉天皇と徳子との子供であり、まだ3歳の言仁親王を即位させて安徳天皇を誕生させてしまった。

これで、平清盛は、念願の天皇の外戚となったのであり、高倉天皇は上皇となり、徳子は皇太后となる。

そして、平家は京の都から福原に遷都までするのである。


しかし、栄枯盛衰の言葉もあるように、全盛を向かえた平家も斜陽の陰が射すようになっていく。

平家に対する反・平家とも言うべき勢力が力を伸ばしてきたのである。

そういう中で、高倉上皇は心労が祟ったのか治承5年(1181年)の正月に薨去してしまう、「平家物語」では、小督局との悲恋が原因で逝去したことになっている。

徳子の悲しみも深かったと思われるが、そういう中で徳子を後白河法皇の後宮に入れようという策があって、清盛も承知したが徳子がこれを強く拒み出家を願ったという説もあると言う。

そして、同年の11月に、徳子は院号宣下を受け、これにより「建礼門院」と称するようになる。

寿永元年(1182年)にはとうとう、あの平清盛が熱病で死去することになり、平家はますます各地の反平家勢力との戦いで苦戦して追い詰められていく。

やがて、寿永2年(1183年)7月になると、木曾義仲に敗れた平家は京都からの撤退を余儀なくされ、徳子は安徳天皇とともに三種の神器を携えて都落ちすることになる。

いったんは九州大宰府へと逃れるのであるが、しかしそこでも敵勢力に追われて、平家一門は苦しい船上での流浪を余儀なくされる中で、徳子の甥の平清経が絶望したのか入水自殺してしまう。

それでも、やがて平家は勢力を盛り返していき、讃岐国屋島に仮の内裏を置き、そして摂津国福原まで進出するくらいになってくる。

しかし、翌年の寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いにおいて源義経や源範頼の軍勢によって有名な鵯越えの逆落としの奇襲もあり、平家は大敗を喫して一門の多く人を失い徳子の兄の平重衡も捕らえらてしまい、平家一門は海に逃れて屋島などに本拠を移したのである。

やがて四国の屋島も追われた平家の一門は、壇ノ浦の合戦に望みを託したが、ここでも潮流の変化などもあり、源義経の軍勢に敗北してしまうのであった。

こうして壇ノ浦の戦いで敗れた平家は源氏の船に囲まれて絶望的な状況である。

我が子の安徳天皇と一緒の徳子の船も周りは敵に囲まれていた。

「波の下にも都のさぶろうぞ」

徳子の母にして安徳天皇の祖母である「二位尼」は三種の神器を携えると、まだ幼い安徳天皇とともに海に身を沈めたのだった。

そして徳子も、今はこれまでと決心を固めると懐に硯と石を入れて重石とし、海に身を投げたのであった。

しかし、周りには源氏の船が囲んでいるのである。

海に身を沈めたはずの徳子であったが、源氏の者に熊手で髪を引っかけられて引き上げられると、捕虜となってしまったのだった。

母や我が子も海に身を沈め、多くの平家の身内も亡くなったのである、自らも死ぬつもりで海に入ったのにも関わらず、捕らえられて命を助けられてしまった徳子の心境はいかがだっただろうか。


源氏の虜囚となった徳子は4月になって京へと送還されて行く。

徳子はいっそ死罪にされるのを望んだのかも知れないが、朝廷にも身内が多く、また女の身で武士ではないので罪に問われることもなく、洛北東山の麓の吉田にある庵に身を置かれたのである。

ちなみに、他にも多くの平家の女性で逃れたり生き延びた者も多かったようだが、生きるためのよすがとし身を売るものも多かったと聞く。

そして5月となり、徳子は東山にある「長楽寺」の僧である印誓上人を戒師として髪を下ろして尼になり、「直如覚」と名乗ったのであった。

なんでも、この時に印誓上人への布施として与えるものもないので、我が子の安徳天皇が御召になっていて形見として側に置いてあった御直衣をお布施としたと言う。

作法とはいえ、我が子の形見を布施とするしかなかった印誓上人は徳子の気持ちをさっすると涙ながらにこれを押し頂き、この御直衣を「幡」として縫い直して仏前に供えたと言う。

この「安徳天皇御衣幡」は現在でも長楽寺に伝わっており、初めに書いた火災でも無事だったようである。

長楽寺で、静かに菩提を弔う暮らしをする徳子のもとには、妹である冷泉隆房の妻と七条信隆の妻がしばしば訪ねて日々の糧を助けたり寂しさを慰めたという。

しかし、都に住むのは想い出なども多くて辛いのか、やがて徳子は都から離れた山奥の大原の里に移り、寂光院へ入ると小さな庵を結んで、先帝である我が子や一門の菩提を弔う日々を過ごしたのである。

その徳子の側には、安徳天皇の乳母であった「大納言の典侍」や藤原信西の娘の「阿波の内侍」が仕えていたようだ。

それからしばらくした、翌年の春の日の事である。

徳子にとっては夫の高倉天皇の父であり義父ともいえる後白河法皇が、大原の里に建礼門院を訪ねてみようと思い立ったのである。

しかし、まだ早春の時期では都の北にある山々は雪や氷が残る寒さであり、よわい60歳の老齢である法王には無理であるので、寒さも緩む4月になってから大原への行幸を行うことになった。

後白河法皇に付き従うのは、徳大寺実定などの公卿が6人、殿上人が8人、それに警護の北面の武士を加えた20人余りの一行である。

法王一行は、都を出ると鞍馬街道を北上して市原に至り、そこから静原に入って江文峠を越えて大原の里に出る御幸だったようだ。

やがて、一行は大原の里に着くとさっそく建礼門院のいると言う寂光院を訪ねた。

すると身には絹で布の分も見えぬようなものを着た一人の老尼が一行を出迎えたのである、阿波の内侍であった。

女院を訪ねてきたことを告げると、女院は仏の供花とする花を摘みに自ら山に入っていると言う。

「そのようなことまで女院自らなされてるとはお傷わしいことよ」

法王を初め、一行が女院の身を嘆いていると、山の上の方から花篭に岩躑躅を入れて濃い墨染の衣を着た二人の尼が岩をつたいながら降りて来るではないか。

建礼門院と大納言の典侍である。

二人は法王らの姿に気が付くと、いかに世捨て人の生活とはいえ、このような姿を見られるのは恥ずかしく思い、しばらくは泣き悲しんだのであった。

やがて気持ちが落ち着くと、庵の中で訪ねて来られた法王らをお迎えして様々なことを話し合って涙しあったのだった。

話はつきることはないが、いつしか別れの時が近づく。

夕暮れになり、法王ら一行も名残りを惜しみつつも大原の里を後にしたのであった。

建礼門院は法王らを見送った後に庵に戻ると一首の歌を障子に書き記した。

~いにしへも、夢になりにし事なれば、柴の編戸の久しからじな~

(柴の編戸の侘び住まいもすでに久しく、むかしの栄華も夢になってしまった)

一方、法王のお供で訪れた徳大寺実定も帰る時に庵の柱に一首を書き残したという。

~いにしへは、月にたとへし君なれど、その光なく深山辺の里~

(むかしは月の光にたとえられたほどの君なのに、いまは深い山里にひっそりと暮らしておられる)

滅び去った平氏に関わった人々への鎮魂歌だったのであろうか。