舌切茶屋と忠僕茶屋
京都の観光名所である清水寺に行かれた方は多いと思う。

一般的な参拝コースとしては仁王門をくぐって本堂や舞台に周り、音羽の滝から十一重石塔の方へ帰っていくのが多いと思うが、音羽の滝から十一重石塔への帰路の間に二つの茶店があるのに気がつかれている方もいると思う。

その二つの茶店は「舌切茶屋」と「忠僕茶屋」言う名前なのだが、それぞれの特長のある名前に由来したお話があるのだ。

幕末に、京都清水寺・成就院の第24世住職であった月照は、攘夷論者であった。

清水寺を弟の信海にまかせると尊皇攘夷運動に身を投じ、西郷隆盛を始め吉田松陰・梅田雲浜・近衛忠煕らと親交があったと言う。

西郷隆盛が、薩摩藩主である島津斉彬が亡くなった折に、西郷が殉死しようとしたのを説得して止めたのが月照だと言われている。

しかし、安政の大獄で身に危機がせまったので、西郷隆盛の薩摩に身を寄せることになる。

ところが、薩摩では藩主の島津斉彬が亡くなってから、佐幕気運が盛り上がっており月照と西郷は流罪になってしまう。

流罪とは言うものの、実は途中で斬殺の場合もあり、錦江湾で西郷は月照を抱えて船から投身し入水自殺を図る。

西郷は助けられて息を吹き返したものの、月照は亡くなってしまったのであった。

月照の弟で清水寺を任されていた信海も、翌年には捕縛され獄死したそうだ。

その月照と信海の記念碑も清水寺の境内にひっそりと建てられている。


さて、「舌切茶屋」と「忠僕茶屋」のお話であるが月照と係わり合いのある人物に所縁のおはなしでもあるのだ。

音羽の滝からの帰路で「アテルイとモレの碑」の側にある茶屋が「舌切茶屋」である。

やはり幕末に清水寺の成就院(旧本坊)の役人であった栗山瀬平の子で「近藤正慎」という人物がいた。

この近藤正慎は、月照よりも3歳年下で月照と供に得度して「義天坊独一」を称して月照と親しく交友していたが、やがて還俗して「近藤正慎」を名乗るようになる。

そして月照が勤皇活動に従事するようになると、成就院に戻って役人になり清水寺を守って月照を助ける事になる。

やがて月照が西郷と供に薩摩に逃げると、近藤正慎は月照の逃亡を幇助した嫌疑で捕まり投獄されてしまう。

厳しい尋問の中でも黙秘を通して、ついに舌を噛み切って自害してしまうのだった。

その忠義に対して、近藤正慎の子孫に清水寺の境内での茶店の営業権を認めたのが「舌切茶屋」としてのお店であった。

ちなみに、この近藤正慎の孫に陶磁器の人間国宝である近藤悠三がおり、また曾孫に俳優の近藤正臣がいる。




もう一つの「忠僕茶屋」にも同じようなお話がある。

同じく幕末に「大槻重助」と言う人物も清水寺にいたのである。

この大槻重助は月照の下僕として忠実に仕えていた。

月照の勤皇活動にも忠勤し、安政の大獄での月照の薩摩行きにも同行して苦労を供にした。

この時に、重助は二十歳であったと言う。

しかし、月照の入水自殺により残された重助は月照を弔っていたが捕縛されてしまうが、月照の後を継いで清水寺の住職にとなっていた月照の弟の「信海」から生きて清水寺を守るように遺命(信海も獄死)を受けてしまう。

そして半年後に釈放されると、当時に清水寺の境内にあった「笹屋」と言う茶店を買い取って糧として、信海の遺命に従うように月照と信海の両師の墓を護ったそうである。

その後、西郷隆盛の陰ながらの助力もあり、清水寺の後任住職であった園部忍慶師によって重助の子孫へ境内での茶店の営業権を保証され、茶店の名前を「忠僕茶屋」と改めて今日まで営業されているのである。

清水寺の境内にある何気ない二つの茶店であるが、このように知る人ぞ知る秘話があるのである。

清水寺の多くの観光客で、この二つの茶店もそれぞれの子孫によって今も繁昌を続けている。