祇王
京都の嵯峨野と言えば京都の中でも人気のエリアである。

その中で、嵯峨野の奥の方にある「祗王寺」(ぎおうじ)は、秋になると燃えるような紅葉が美しくて人気のお寺である。

その、祗王寺にも、哀しい女人の伝説が伝わっている。

時は、平安時代の末期で、「平清盛」(たいらのきよもり)が率いる平家が、権勢の絶頂を迎えている時期の話しである。

平清盛は、都で評判の白拍子の「祗王」(ぎおう)を見初めて大変に気に入って、祗王と共に、妹でやはり白拍子の「祗女」(ぎじょ)と、祗王と祗女の母である「刀自」(とじ)の3人に別に屋敷を与えて世話をするようになる。

なにしろ平家の頂点にいる清盛の世話を受けるのである、祗王の一家3人は元からの家と清盛から与えられた屋敷とで、多くのお米や金銭を与えられて何の不自由も無い裕福な暮らしをおくることになる。

この「白拍子」と言うのは、昔の話とかにも良く出てくるのであるが、もともとは平安時代の末頃に起こった無伴奏の拍子で舞いを踊る遊女の事で、後に「今様」を歌いながら踊るようになり、今で言う歌舞の芸妓や舞妓のような物になっていく。

はじめは水干を着けて立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして今様を歌いながら舞ったそうであるが、後には水干に袴だけで舞うようになったようである。

また、今様は平安末期から鎌倉時代にかけて流行った、当時の流行歌のような物で、特に後白河法皇が愛されていて今様を集めて「梁塵秘抄」を編まれているのが有名である。

さて、祗王たちは、そうした裕福な暮らしが続いていたが、しばらくして都に「仏御前」(ほとけごぜん)と言う白拍子が現れて評判になっていく。

仏御前は、加賀の国の出身で、まだ16歳の若さだったが舞の名手として名を上げていった。

やがて仏御前は自分の舞と評判に自信を持つようになると、時の権力者である清盛に取り入れないかと考えるようになった。

「自分は遊女の身だから呼ばれてなくてお屋敷にうかがっても叱られはしないだろう」

仏御前は、そう思うと西八条の清盛の別邸に訪ねていった。

しかし、清盛は仏御前が訪ねてきたのを聞くと

「呼びもしないのに勝手に訪ねてくるとは無礼であろう、しかも、こちらには祗王がいると言うのに・・・仏と言う名を名乗ろうと許しはしない」

そう言って怒ってしまう。

ところが、祗王がそれを聞くと

「自分から訪ねるのは遊女のならいでもあります、それに、まだ年も若い彼女をすげなくしては私が恥かしくもあります。自分と同じ白拍子なのも何かの縁、どうか対面だけでも許してやってくださいませ」

そう言って取り成すのだった。

祗王にそうやって取り成されては清盛もすげなくはできなくなり、仏御前を召し出すと

「祗王が取り成すから対面してやったが、お前も評判の白拍子なら歌がうまいのであろう、一つ今様を歌ってみよ」

そう命じたのだった。

♪君とはじめてみるおりは 千代もへぬべし姫小松・・・・♪

仏御前が歌うと、その美声に清盛も喜んで

「なるほど、なかなかの歌声だ、その分なら舞いもうまかろう、ひとさし舞ってみよ」

そう命じると、仏御前も歌いながら美しく舞った。

その歌と舞の素晴らしさに清盛も今ではすっかり魅せられて、仏御前を屋敷に留めようとした。

仏御前は驚いて

「私が来た時は追い返されそうになったのに、祗王様のお心遣いでお召しえることがかないました。その祗王様の手前もありますのに、どうぞ帰らせてくださいませ」

そう言ってみたものの、清盛はすっかり心変わりしており

「帰ることはならぬ、祗王のことが気になるなら祗王の方を追い出してやろう」

清盛は、仏御前が懇願するのも聞かずにそのまま仏御前を帰さずに、祗王を帰して与えた屋敷からも出て行くように申し渡した。

祗王は、いつかはそういう日が来るのかもと思ってはいたものの、あまりに突然の清盛の心変わりに驚くもののいたしかたない。

急いで屋敷に戻ると掃除をして屋敷を片付けた。

しかし、永年住み慣れた屋敷を追い出されると思うと悲しみがつのり、せめてもの形見にと襖に一首の歌を書き残した。

~萌え出ずるも 枯るるもおなじ野辺の草 いづれか秋にあはで果つべき~

「春になって萌えだす草も、枯れていく草も同じ草なのだから、どちらが秋を向かえないで済むという訳でもないだろう・・・私も仏御前もいずれは同じ身の上なのだから」

祗王は、荷物をまとめると母と妹の祗女の待つ家に戻っていった。

家に戻ると祗王は倒れるように泣き伏すばかりで、母や妹が何を問い掛けても答えずに泣くばかりである。

供の者に話を聞いてようやく清盛に追い出された事を知り、親子3人で悲しみにひたるのだった。

やがて、祗王へ送られていた米や金銭も止められて、代わりに仏御前に所縁の者だけが恩恵を得るようになる。

また、祗王が清盛から屋敷を追い出された事は市中でも話題となり、あの祗王が追い出されたなら、代わりに呼び出して遊ぼうかと思う者もいたが、祗王は人にも会おうとせずに悲しみに沈むばかりであった。

年が明け春になると、祗王の元に清盛から使いの者が来て屋敷に来て舞を舞って仏御前を慰めるように命じた。

祗王にすれば、それは屈辱的な仕打ちである、返事もせずに無視していると、来ないならば理由を言えと脅してきた。

母の刀自は恐れて、せめて返事だけでもするように頼んだが、祗王は

「私は、参上するつもりが無いから返事もしないのです。罰として都から追放されるのかもしれませんが私はそれでもかまいません、もう二度と清盛様にはお会いしたくないのです」

そう堅く決意していた。

しかし母は泣きながら祗王にこう言った。

「この国で、今の清盛様に逆らえばどうなるかわかったものではないでしょ。もしや殺されるような事はないでしょうが都から追放されてしまうやもしれません。そうなれば、お前や祗女のように若い者はまだ耐えられるでしょうけど、この年老いた私はどうすればいいのでしょう。お願いですから見慣れぬ土地で心細く儚くなるような目には合わせないでおくれ」

母にこう泣いて頼まれれば、祗王も意地をはることができなかった。

つらい思いを胸に隠して、妹の祗女と供の者を連れて西八条の清盛の屋敷へ赴いた。

屋敷に着いた祗王達は前にいた時よりも、ずっと悪い座敷に通されて待たされる事になる。

部屋さえも下げられてしまうのかと情けなくなり皆で泣いていると、仏御前がそれに気が付いた。

仏御前は、自分が今居る部屋は祗王様が以前にお召しをうけていたお部屋です、どうぞそちらへ祗王様達をおよび下さいませ」

そう清盛に頼んだが取り合わずにいる。

やがて、祗王達は清盛と仏御前や多くの平家の人々の待つ座敷に呼び出された。

「その後は元気でいたようだな、仏御前を慰めるために、今様を一つ歌ってみよ」

清盛のそう命じられて、祗王はこうなれば覚悟を決めてと思い、涙を隠して歌を歌った。

「仏もむかしは凡夫なり 我等もついには仏なり いづれも仏性具せる身を へだつるのみこそ悲しけれ」

(お釈迦様も昔は普通の人間でした、私たち人間もいつかは仏になると申します。すべての人は仏となれる性質を持つ同じ人間ですのに、どうして差別や隔てをなさるのでしょうか。悲しゅうございます)

祗王は、泣きながら、この歌を二度も歌ったので、その座にいる人々も胸を熱くして涙を流したと言う。

清盛はそれでもこう言った

「なかなか良い余興だった。舞いも見てみたいところであるが今は忙しいのでまたの機会にする。これからは、いつでもここに来て仏御前を慰めるようにしろ」

祗王達は何も言う事ができなくて、そのまま家に帰って行った。

嫌だったのに・・・母の身を思い、気持を堪えて行ったのに、また辛い思いだけしてしまった・・・こんな思いをするくらいなら身を投げた方が楽だ・・・

祗王と祗女の姉妹はこれからの事について話し合っていた。

二人の話を聞いた母は

「二人の娘が亡くなるような事になれば私も生きてはいられないでしょう、そうなれば親をそのような目に合わせる仏教ではとても重い罪になってしまいます。この世で恥じを耐えて生きるよりも、後の世で地獄に落とされる方が悲しいのではないですか」

そう言って、二人の娘をなだめるのだった。

祗王と祗女も母にそうまで言われては死ぬ事もできない

「母様にそう言われては自害もなりますまい。その代わり都から離れて髪を下ろすことはお許しくださいませ」

そして、祗王と祗女の姉妹は髪を下ろして尼となり、嵯峨野の奥の山里に庵を結んで仏門に入ると、母の刀自も仕方なく髪を下ろすことにした。

この時、姉の祗王は21歳、妹の祗女が19歳、母は45歳であったと言う。

こうして母娘3人は、嵯峨野の静かな土地で仏の道の静かで穏やかな生活に親しむ日々を送っていた。

そうしたある夜のこと、3人が暮らす庵の戸を叩く者がある。

この山里の夜に何だろう?

怪しみながらも戸を開けると、そこには仏御前が一人で立っていた。

祗王は驚いてどうしたのかと問うと、仏御前はぽつぽつと語り出した。

「私は祗王様のおかげで清盛様にお目もじいたしましたのに、そのせいで祗王様がお屋敷を去ることになってしまいました。私も心苦しく思い憂鬱にしてましたところ、今度は祗王様がお屋敷に召されて今様を歌われました。その時の事を思うと自分もこうしていても明日の運命は判らないと思うと栄華も儚く思うようになりました。それで祗王の行方を探させていますと皆様が出家なさったと聞いて私も羨ましく思うようになり、清盛様にお暇を願い出ましたがお許しにはなりませんでした。しかし、思うにつけこの世の栄えも儚い泡沫で一時の富貴に奢るよりも仏門に入って静かな余生を送りたいと思い、思い切って今朝方にお屋敷を抜け出してまいりました」

そう言って仏御前が頭にかぶっている衣をとると、すでに髪が下ろされていた。

「どうか過去の罪をお許しくださいませ。もしもお許しがあれば私も御一緒に仏門の修行に励みたいと思います」

そう言って仏御前がしみじみと語ると祗王達も涙を流して

「あなたがそのようなお心でいらっしゃるとは存じませんでした。私たちが出家しましたとはいえ、あなたへの恨みが無かったとはいえないでしょうが、これで恨みも消えて静かに修行に励めそうです。どうぞ、御一緒にいたしましょう」

そう答えて仏御前を招きいれた。

それからは、仏御前を加えた4人で一つの庵に暮らして、仏道に励むのだった。

その後、仏御前はしばらく一緒に暮らした後に故郷の加賀に戻り小庵を結んだが、やがて18歳の短い生涯を終えたと聞いている。

また、祗王寺の境内には祗王・祗女・母刀自の供養塔があり、向かって右の五輪塔が清盛の供養塔で、左の宝筐印塔が祗王ら母娘の供養塔と言われている。