祇園女御
京都の東山にある八坂神社は、祇園さんと呼ばれて親しまれているが、平安時代の末にこの祇園さんの近くに住んでいたので「祇園女御」(ぎおんにょご)と呼ばれた女性がいた。

時は、堀川天皇の御世で白河法皇が院政を敷いていた時代である。

白河法皇は祇園社(八坂神社)にお参りする事が多かったようで、その日も供の者を連れて祇園社に行く途中であった。

法皇がふと気がつくと道に佇んで法皇の一行を拝んでいる女性がいる。

よくみると、なかなかの美女である。

法皇は、この女性に興味を引かれたのか、この女性を連れて行くと宮中に召しあげられ、お側に置いて寵愛されたそうだ。

しかし、お側に置いた事で宮中の噂になってしまったので、宮中から出されて祇園社の近くに別宅を作ると、そこに女性を住まわせたことから、周りの者はこの女性をを「祇園女御」と呼ぶようになる。

そうして、白河法皇は祇園社に参詣に行かれると共に、祇園女御の所にも通われるようになる。

そに後、平忠盛をお供にして祇園女御の元へ通われる折に起こったお話が前に紹介した「忠盛灯篭」のお話しで、簡単に紹介すると、雨の日の夕刻になってから白河法皇が平忠盛を連れて祇園女御の元に通うために祇園社の境内を通る時に、法皇は遠くに怪しい光があるのを見つける。

法皇は怪しい物がいると忠盛に注意をうながすと刀を抜いて身構えた。

しかし、忠盛は恐れもせずに冷静に近づいていくと、その光は祇園社の社僧が燈篭に灯を入れようとしていた光だった。

法皇は、あぶなく神社の境内で社僧を傷つける所だったと安心すると共に、冷静に恐れもせず行動した忠盛に感心するのだった。

そこで、法皇は忠盛を誉められて、褒美として法皇が寵愛されてた祇園女御を忠盛に下賜されたのだ。

しかし、実はこの時には祇園女御はすでに法皇の子を懐妊されてたのである。

そして法皇は忠盛に

「もしも女の子が生まれたら私のの子としょう。しかし男の子であったら忠盛の子として育てるがよい」

と仰せられたと言う。

忠盛にすれば、すでにお手付きの女性を子供付きで賜ることになるのだが法皇からの仰せとあれば仕方もなく、ありがたくお受けするのみであった。

その後、時が過ぎると祇園女御は男の子を出産した。

忠盛は法皇に御報告したいと思いながらも、なかなか申し上げる機会が訪れなかった。

しばらくして法皇が熊野へ御幸されることになり、忠盛もお供の一人として随行することになったので、機会を見てお話しようと思う内に、紀伊の国の「糸鹿坂」(いとかさか)で法皇がしばらく休息されることになった。

法皇は、道のそばに薯蕷(やまいも)のつるに零余子(むかご)が玉を連ねたように生い育っているのを面白くご覧になると、忠盛を召してあの枝を折ってまいれと命じられた。

忠盛はその枝を折っての前に進み出て

「いもが子は這ふ程にこそ成りにけり」

と子供の事にかけて一首の歌を添えると、法皇は察しられて

「ただもり(忠盛)とりて養ひにせよ」

と返されたと言う。

そうして男子は忠盛の子として育てることになった。

ところが、この子供がよく夜泣きをすると耳にされた法皇は

「夜泣きすと ただもりたてよ末の世は 清く盛ふる こともこそあれ」

と歌を詠まれたので、その子は歌から名付けられて「清盛」とされたと言う。

そうこの男の子こそ、あの平清盛である。

そして、清盛は成長して12歳の時に兵衛佐となり、18歳の時には四品として四位の兵衛佐に昇進すると、20歳で肥後守、29歳で安芸守と出世を続け、やがて「保元・平治の乱」を経て、ついに従一位、太政大臣となると、それまでの藤原氏に代わって平氏政権を確立するのである。

それも清盛が白河法皇の子供だったからだと世間では噂されたそうである。

これは「平家物語」などに出てくる話であるが、祇園女御が清盛の母であると言うのには年齢的な差や矛盾もあり、今では違うと言うのが有力な説になっている。

そこで言われるのが、この祇園女御には「妹」がいて、同じように白河法皇の寵愛を受けたそうなので、この妹が清盛の生母であり、祇園女御は育ての親ではないかと言うのが定説になりつつあるようである。

さて、その祇園女御だが、この祇園女御には子供がいなかったので何人かの子供を養子にして養育したようであるが、清盛も上で述べたように妹の子であるのを養育したと言える。

その中でもう一人、ある女の子が歴史に重要な役割を果たす事になる。

話は、まだ清盛が生まれる前の「鳥羽天皇」の御世の事で、まだ祇園女御は白河法皇のお側で仲睦まじく暮らしていた。

しかし、祇園女御は子供ができない寂しさからか、権大納言の「藤原公実」の末の娘を養女に貰い受ける。

この女の子が「璋子」(たまこ)と言う非常に美しい娘で、なんと養父でもある白河法皇に可愛がられているうちに、とうとう愛されるようになってしまう。

いくら法皇でも、養子と言えど親子の仲での男女の関係は問題になる。

そこで白河法皇は外聞をはばかってか、この璋子を、当時まだ15歳だった孫の「鳥羽天皇」の皇后にしてしまう。

それだけでなく、白河法皇は璋子を忘れられずに、孫の嫁にもかかわらずに男女の関係を続けていくのである。

やがて、璋子は懐妊して男の子を産むことになるが、正式には鳥羽天皇の皇子と言う事になるものの、実際には白河法皇と璋子との間の子供と噂されるようになる。

それを裏づけるように、白河法皇は、この男の子を溺愛し、鳥羽天皇を退位させると、まだ5歳のこの皇子を天皇に即位させてしまう。

これが「崇徳天皇」になるのだ。

また、鳥羽天皇が退位により、鳥羽上皇となったために、璋子も「待賢門院」(たいけいもんいん)と院号を贈られることになる。

崇徳天皇も白河法皇が健在の頃は良かったが、やがて法皇が崩御されて、鳥羽上皇が院政を引くようになると冷遇されるようになる。

鳥羽上皇も、崇徳天皇が我が子と言う事になってはいても、祖父である白河法皇と、妻の待賢門院の子供である事は知っていたのではないだろうか。

やがて、崇徳天皇は父の鳥羽上皇によって退位させられ、代わって鳥羽上皇の寵愛する「美福門院」の産んだ子である近衛天皇が即位する事になる。

その後、退位により上皇となった崇徳上皇は、母である待賢門院と鳥羽上皇との間にできた「後白河天皇」の時に「保元の乱」を起こして敗れ、讃岐に流されることになるのである。

ちなみに鳥羽上皇は、崇徳天皇は嫌ったのか冷遇するのであるが、祖父の白河法皇の寵愛を受けて崇徳天皇までもうけた璋子こと待賢門院とは仲良く付き合ったのか後白河天皇となる子供までもうけているのである。

この時代の人それぞれの関係と言うか繋がりは複雑でもあり、様々な運命や因果を感じてしまう。

このように、祇園女御の養子となった璋子と清盛は歴史に大きな関わりを持つ事になるのである。

さて、祇園社こと八坂神社から円山公園に抜けて清水や高台寺の方に南に向いて歩いて行くと丸山音楽堂がある。

その円山音楽堂の道路を挟んだ向い側、ちょうど「大雲院」の北側辺りに「祇園寺」と言う新しいお寺があった。

かつて、この地には祇園女御に所縁の阿弥陀堂があり、その近くに祇園女御を祀った祇園女御塚があったのである。

しかも、その塚の隣りは空地となっていて、祇園女御の邸宅跡だとされていたようである。

しかし、その地は関わると祟りがあると怖れられて、ずっと空地にされていたのである。

特に祇園女御が祟るような事例は判らないのであるが、怖れられた地であったようだ。

話では、むかし近くにある双林寺の人がこの地にあった石を無断で持ち帰ったところ、その夜に、急に高熱をだして苦しみだした。

やがて、ここの地主の祟りであると言われて、あわててもとの場所へ石を返したので、間もなく病気が治ったということである。

しかし、時の流れか先に書いたように、その怖れられていた土地も今では開発されて「祇園寺」と言う祇園女御に関わるお寺が新しく建てられたようである。

元にあった阿弥陀堂や祇園女御塚は、遠く京田辺市に移されたと言うことである。

現在は祇園女御塚の宝篋印塔は再建されて、祇園堂と言うお寺になっている。


同じ祇園女御に関わる事だから何事もおきないのか、祟りが起きない事を願うばかりである。