蜘蛛の旋律・28
 黒澤は助手席に座っていて、一度もオレを振り返りはしなかった。どうやらこの女にも、人の目を見て会話する、っていう習慣はないらしい。そのままの姿勢でオレに話し始めたのだ。
「巳神、あんた、シーラから断片的な情報を仕入れすぎて、少し混乱してるね。とりあえず今までのこと全部忘れて聞いてくれる?」
 確かに黒澤の言う通り、オレは少し混乱していた。忘れられるかどうかは判らないけど、オレはひとつうなずいて、だけどそれではそっぽを向いた黒澤に伝わらないことに気付いて、声に出して返事をした。
「判った」
「どっから話すかな。……とりあえず、人間には願望があるよね。夢とか希望とか、後悔とか。何か失敗したりして、こうすればよかったな、なんて、巳神も思うことあるでしょ? 人間にそういう願望っていうか、想像力みたいのがあるのは判るよね」
 オレは今までの流れをすべて忘れるように考えた。確かに、人間には願望がある。あたりまえのことだった。オレは今日、野草と本屋に行った。野草が事故にあった時、今日本屋に行かなければよかったと思ったことを覚えているから。
「ああ、判るよ。人間には願望がある」
「その願望は、その人の心の中に存在しているよね」
「してるだろ? 心の中になら」
「1人1人の人間の心の中に、その人の願望が存在してる。巳神の中にも、あたしの中にも、シーラの中にも、もちろん、薫の中にもね。まず、ここで前提その1。人間の願望は、ちゃんと世界として存在してるんだ。1人に1つ、心の中の世界として、ちゃんと物質を伴った世界としてね」
 ……ちょっと、待て。心の世界が、物質として存在しているっていうのか? 心は心じゃないか。目に見えない。触れることもできない。そんな物質がある訳ないじゃないか。
「これ、否定しないでね。巳神がこれを肯定してくれないと、この小説、1歩も前へ進まなくなるから」
 黒澤は言ったけれど、オレにはそう簡単に肯定することなんかできなかった。