蜘蛛の旋律・12
「それは、あだ名か……?」
そんなオレの質問に、アフルは少し笑って答える。
「まあ、そうだろうね。もちろん本名もあるはずなんだ。昔は本名で呼ばれていたらしいし。だけど、薫は僕の本名まで考えてはくれなかったんだ。自己紹介するたびに聞かれるんだけど、その時はもう、笑ってごまかすしかない。気にしないで、アフルって呼んでくれないか。あんまり僕を困らせないでね」
 その彼の、少しかすれぎみの優しい声は、やんわりとだけどオレの質問を拒絶していた。そして、そんな彼は、オレにデジャヴュを感じさせた。彼に会ったことはない。だけど、彼を見たことはある。絶対にある。
 病院の廊下は静かだった。アフルは立ったまま、オレを見下ろしていた。
「巳神君、こんな話を知っているかい? ある、15歳の少年がいた。彼は今まで、その白い建物から一歩も外へ出たことがなかった。そしてその日、彼は自らの父親に呼ばれ、命令される。この研究所を出て、ローエングリンとレオポルドに会うようにと。そして彼は、レオポルドと共に暮らし始める」
 アフルの始めた話は、オレはよく知っていた。その話は夢中になって読んだ。野草の書いた、長い小説の話だった。
「レオポルド ―― ミオは、河端という青年に恋をしていた。少年 ―― 伊佐巳は、河端が敵対する組織の工作員であることを知り、それをミオに教えるんだけど、その時、調べてくれた友人と会って、まとめ役の人間の名前を聞くシーンがあるだろう。その友人の名前を、覚えている?」
 話の途中から、オレは少しずつ思い出していった。あの話の中で、接触感応の能力を持つ、優しそうな青年がいた。その青年の名前が、アフルストーンだった。
「あんたは、そのアフルストーンのモデルか……?」
 オレがそういうと、アフルは少し、自嘲のような笑いを漏らした。
「モデル、ね。それでもいいけど」
 アフルはきびすを返すように、集中治療室の方に歩いて行こうとした。オレがびっくりして立ち上がると、アフルは振り返って言った。
「巳神君もおいで。薫に会わせてあげるよ」
 オレは働かない頭を抱えたまま、アフルに従って歩き始めた。