蜘蛛の旋律・15
 正直、オレは混乱しちまっていたし、どこか落ち着かないような気分はずっと抱えていた。夢の中にいるような非現実的な感覚はずっと続いている。どう考えても病院の中は静か過ぎて、アフルが去ってからは誰の気配も足音も、何も感じられなかったのだ。その中で、野草の小さな呼吸音だけが聞こえて、それがより重苦しい雰囲気を増長させている気がする。
 病院の医師も看護婦も現われない。オレは夢を見ているのかと疑ってみるけれど、多少頭がぼうっとしているのはたぶん頭を打ったせいで、その他はぜんぜん普段と違うところはない。ふと、時計を見ると、時刻は7時30分を過ぎたところだ。アフルが現われたときは7時20分過ぎだった。時間は順調に流れているし、オレの感覚と客観的な時間の流れとはまったく食い違うところはなかった。
 病院が用意してくれた、オレの病室。オレはそこに戻って、ベッドに潜り込んで眠ってしまうべきだった。だけど、そうしてしまう気にだけはどうしてもならなかった。アフルが言っていたことが気になって仕方がなかった。野草はまだ生きている。だけど、死ぬのもたぶん、時間の問題だと。
 アフルはいったいなんだったのだろう。野草の彼氏で、野草の小説のモデルになった。それは別におかしなことじゃない。超能力を持っていて、オレの心を読み、ドアの鍵をあけてくれた。だけどオレは、この部屋に本当に鍵がかかってたかどうか、確認した訳じゃない。心を読んでいるように見えたけれど、単にオレの表情から気持ちを推測しただけなのかもしれない。
 オレは、この非現実感を単なる現実に置き換えてしまいたくて、無意識のうちに状況を常識に当てはめようとしていたのだと思う。判らない、理由の付けられないものは、極力見ないようにしていた。なぜ、野草はこんなにきれいなのか。ほんの30分前まであれほど多くの医者や看護婦が行き交っていたというのに、なぜ、1人も姿を見せなくなっているのか。
 そうして、考え続けていたオレの感覚に、不意に割り込んでくる音があった。
 それはこの部屋に徐々に近づいてくる、早い歩調の足音だった。