蜘蛛の旋律・23
「知ってるけど、それがなにか?」
「彼女はこの先のアパートに住んでるの。とりあえず行ってみるからね」
 シーラはそれがまるであたりまえなのだという風に、そう言った。まさか、黒澤弥生が実在するのか? だとしたら……もしかしてゴーストライター? 野草が今まで書いていた小説は、野草が書いたのではなくて、その人が書いたものだったのか?
「黒澤弥生って、野草のペンネームだろ? なんでペンネームが実在するんだよ!」
 ちょうど信号で停止していたから、シーラはオレを振り返って、呆れたような表情をした。
「巳神……。あなた、まるっきりあたしの話を聞いてないでしょ。あたしはさっき、ここは薫の夢の中だ、って言ったはずだよ。実際は夢っていうのもちょっと違うんだけど。……薫の夢の中に、薫のペンネームを持つ人が実在して、何かおかしいことある?」
 確かに、夢の中なら何が起こってもおかしくはないけど……。
 だけど、今が夢だなんて、オレにはどうしたって思えないんだ。夢だったらもっとあやふやだったり、つじつまがおかしかったり、時間が飛んでたり、もっと変なはずだろ? なのに今オレが体験していることは、夢と言い切ってしまうにはあまりに正常すぎる。微妙な違和感があるだけで、夢よりは遥かに現実の方に近いんだ。
「なあ、シーラ。もしも君なら信じるのか? 初めて会った人に突然、今が夢の中だとか言われて」
 そのとたん、信号が変わって、シーラは思いっきりアクセルを踏み込んだ。油断していたオレはひっくり返るようにシートに押し付けられた。もしかしたらシーラを怒らせたかもしれない。
「判った! ものすごく面倒だけど、証拠を見せてあげる。ほんとは寄り道してる暇なんかないんだからね!」
 それからのシーラは、恐ろしいことに、赤信号を無視して車を飛ばし始めたのだ。