幻の恋人1
 両腕にぐっと力を入れて、あたしは背後からその人の肩を押さえる。震えた首筋に見えるのは太く浮いた血管。人間の可視波長では見ることができないものが、今、餓えた状態のあたしにははっきりと見ることができる。
 あたしが押さえている人の向こうには美幸(よしゆき)がいる。美幸はおびえた様子のその人に話をしながら徐々に近づいてきて、やがてその人を抱くようにがっちりと捕まえた。あたしの両腕にも美幸の重さがかかる。そのまま美幸はその人の首筋に唇を寄せて ――
 その人の喉からかすかな声が漏れる。それは聞き逃すことができない、あたしと美幸に永久にかけられた枷の名前。
「吸血鬼……」
 その言葉を聞くたびにあたしの身体に震えがくる。自分が目の前の、さっきまでクラスメイトとして共にすごしてきたその人とはまったく違う存在なのだと思い知らされる。なぜならあたしには、その人が既においしそうな血を持った食料にしか見えなくなってるんだから。
 その呟きが聞こえなかったのか、それとも聞こえなかったふりをしているのか、やがて美幸はその人のぐったりした身体を解放した。
「一二三(ひふみ)も食べておくといいよ。彼、意外に健康だから、2人分の血を抜いてもたぶん大丈夫だと思う」
 あたしはうなずいて、背後から彼の首筋に唇を触れた。彼の健康な血液があたしの餓えた身体と心を共に癒していく。でもそのあとに襲ってくるのは後悔と罪悪感だ。彼はあたしを信頼して、真夜中こんなところまでついてきてくれたのに。
 空腹だった今までとは比べ物にならないほど感覚が鋭敏になってくる。あたしは遠くに、あたしと同じ血を持つものを感じて顔を上げた。
「……北にいる。3人。それほど遠くないみたい」
「そう、それじゃ、一二三はすぐに追って。僕は羽佐間君の記憶処理と後始末をしてから追いかけるから」
「……羽佐間君は、誰にもしゃべったりしないよ」
「信じていた人に捕食対象にされた記憶だよ? 自分が食べられたときの記憶なんて、持っていたら不幸だよ」
 判ってる。あたしにだって判ってる。だけど羽佐間君はあたしを信じてくれたの。あたしはあたしを信じてくれた人に忘れられてしまうのが嫌だった。たとえそれが必要だって判ってたって。
 美幸があたしの肩を押して促す。あたしは黙ったまま、すべてを振り切るように首を振って、その部屋を飛び出していった。