幻の恋人22
 種に操られた広田が暴れている。その身体を無意識に壁に押さえつけながら、あたしは血まみれの美幸を見つめていた。美幸の身体の向こうに見え隠れするのは、既に肉の塊と化してしまった祥吾の身体。祥吾の命を奪ったナイフを握ったまま、美幸が近づいてくる。まるで鬼神の化身のように見える美幸はそれでも見る者の魂を吸い取るほどに綺麗だった。
「一二三、そこをどけ。時間がない」
 美幸に魅入られていたあたしが、言葉の意味するところを理解するのに少しの時間がかかった。
「……だめ、この人は殺したらだめ。……祥吾だって、殺すことなんかなかった」
「おまえに傷をつけようとした」
「刺されたくらいであたしは死んだりしない! だけど人間の命は失われたらそれで終わりなんだよ!」
「人間なんか、何人死のうと関係ない。僕は一二三を傷つける奴は許さない。一二三、この状況で人に見咎められたら言い訳できないんだ。そいつを殺すのが1番手っ取り早い」
「……お願いだから。……美幸、あと1分、あたしに時間をちょうだい。せめてこの人だけでも助けたいの」
 美幸の返事は待たずに、あたしは暴れる広田に抱きついて、口付けた。
  ―― 祥吾の恋人は幻だった。あたしが作り上げた、祥吾にとっては理想の恋人。だけど祥吾の人生はけっして幻なんかじゃない。あたしが大河に最初の種を植え付けなければ、祥吾には祥吾自身が築き上げるはずの未来があった。祥吾を殺したのはあたしだ。今まであたしは、そうして何人もの人間の命を奪ってきた、殺人者の吸血鬼。
 広田の恋人は現実の恋人。今、あたしは殺人者だけど、あたしは広田と広田の恋人の未来を守ることができる。これから毎月生まれていく種の宿主と、彼らが大切にしている人たちを守ることができるの。そうと信じなければ、あたしは生きていくことなんかできなかった。過去の過ちを、未来で清算できると信じていなければ。
 種の結晶を広田の口内からあたしの口の中に移すと、力を失った広田はその場に倒れ込んだ。あたしは口の中から血の色をした結晶の珠を取り出して、月の光に当てて経過期間を読み取る。ほんの少し視線を外したそのとき。美幸が、広田の身体をナイフで切り裂いたんだ。