幻の恋人20
 できるだけ警戒心を抱かせないように丁寧語で話しながら、あたしは広田を駅から少し離れたお好み焼き屋へと誘導した。ここは少し路地を入っていかなければ辿りつかない場所で、今の時刻なら人通りは多いのだけど、ピークを過ぎると人影はかなり少なくなる。できれば夜の9時ごろまでは引き止めたかったから、あたしは広田にビールを勧めて、いもしない恋人の自慢話を聞かせていた。広田の恋人の話もたくさん訊いて、やがて気が大きくなった広田が饒舌に話すさまを、微笑みながら見守っていた。
 目安の9時を過ぎたとき、明日の仕事に差し支えるからと、あたしの方から席を立った。会計は広田に任せて、店を出たところで半分よりもやや少ない金額を渡す。恋人でもなんでもない女性におごったり、逆におごられたりするのは広田にとっても不本意なことだろう。お互いに対等な関係であることを暗ににおわせることで、広田の信頼はより深まったはずだった。
 さりげなく誘導して、来た道とは少し違う道を、駅の方角に向かって歩いていく。川沿いの、人通りがほとんどない道。たわいない会話をお互い交わしながら、あたしは広田の腕を引いて、駅へ向かう路地へと入ったところでその行動に出た。
「え? 秋葉さん ―― 」
 驚く広田の首に抱きついていきなり口付けた。逃げられないように渾身の力で拘束して、深く唇を合わせる。最初の数秒は抵抗していた広田も、やがてキスに酔うように応え始めていた。あたしは広田が大河と出会った経緯は知らない。でもほかの宿主と同じように大河の誘いに乗ったのならば、今は1人の恋人を大切にしているこの人にも遊び人の要素はあったのだろう。
 舌先に意識を集中させて、広田の口内に自分と同じ血を引き寄せる。広田の舌の裏側にかよう血管を通じて、しだいに大河の種が集まって塊を形成する。この身体の中からすべての血を抜き出すのには多大な集中力が必要だった。目を閉じて一心不乱に種を集めるあたしは、まるで広田のキスに酔っているようにすら見えるのだろう。
 そのときだった。あたしの集中力を乱す、その声が聞こえたのは。
「サエ! てめえ、いったいなにやってんだよ!」
 広田の種はまだ完全に集め切ってはいなかった。だけどその聞き覚えのある声に、それ以上同じ作業を続けることがあたしにはできなかった。振り返って驚いた。そこには、怒りに目を血走らせている祥吾の姿があったから。