幻の恋人8
「名前、なんての?」
「本名? それともハンドルネーム?」
「なんだよそれ。本名名乗る気ねーの?」
「そんなことないよ! あたし、サエコ。秋葉サエコ」
「サエコか。だったらサエでいいな。……少し待ってられるか?」
「ごめんなさい。あたし、今日まさか祥吾本人に声かけてもらえるなんて思ってなかったから。……もう帰らないとうちヤバくて」
 適当なことを言いながらバッグを引き寄せる。初日にしてはなかなかいい成果だと思う。極端な話、ここで名前を覚えてもらえさえすれば、あとはどうにでもなるんだ。当日に偶然を装って近づくこともできるから。
「ふうん。そんじゃ、ケータイ教えて。あとで電話するから」
 これは逃げられないだろうな。あたしはそのへんにおいてあったコースターに番号を書いて手渡した。そのあと挨拶もそこそこにライブハウスを出て、帰り道を歩いているときに電話が鳴った。なんか期待した以上に反応がいい。
 その日以降、あたしは頻繁に祥吾に呼び出された。高校3年生のサエは夏休み、日中は学校と塾の夏期講習を受けている。だからサエが祥吾に会いにこられるのは夕方以降で、夜もそれほど長い時間はいられない。あたしは祥吾がすぐにサエに飽きるだろうと思っていた。でも、意外にも祥吾は、ここまで制約の多いサエを呼び出すのをやめなかった。
「 ―― おまえさ、もうライブに来なくていいからさ、化粧やめろよ。ぜんぜん似合ってねえ」
「えー? なんでー? あたし祥吾が歌ってるところ見たいよ。だって歌ってる祥吾が大好きなんだもん」
「だったらお子様スペースの方にしな。あそこは学生証で入れるから。とにかく、オレと会う時は化粧禁止。ついでに会ってない時も禁止」
「祥吾ってオーボー。あたし、少しでも綺麗な自分で祥吾と会いたいのに」
「おまえ、綺麗じゃん。オレ、サエは素顔の方がゼッテー綺麗だと思う」
 血管まみれの祥吾の顔が、少し照れたように笑ったのが判った。もしかしたら祥吾はサエを好きになりかけているのかもしれない。