幻の恋人23
 異様な気配に振り返ると血まみれになった広田と、さらに広田の身体にナイフを滑らせている美幸がいた。驚きと悲しみとで声も出なかった。広田の身体を傷だらけにした美幸が立ち上がってあたしを見る。
「勘違いするな。殺してはいない。このまま無傷で倒れていたら殺人犯にされるだろう。記憶もないしな」
 震えるあたしの肩を抱いて、美幸は路地の向こうへとあたしを促した。あたしは緊張の糸が切れてしまって、美幸に導かれるままに足を動かした。さっきあたしと広田が歩いていた川沿いの道。そこまで行くと、美幸は川の上流に向かってナイフを投げ捨てた。犯人があちらに向かって逃走したと思わせるためなのだと、ぼんやりした頭で思った。
 そのあと川沿いを下流に向かって走っていって、運の悪いカップルを見つけて食事をした。返り血を浴びた美幸と2人、人目を避けてようやくアパートに辿りついてからも、あたしは一言も口をきくことができなかった。
 人間は、あたしたちにとって食料。それはあたしも美幸も変わらない。
「 ―― 一二三、先に身体を洗ってくるよ。一二三の服も汚してしまったね。よかったら着替えておくといい」
 そう言って微笑んだ美幸はユニットバスへと消えていった。美幸に、人間を殺したという心の痛みはない。人間なんか何人死のうと関係ないと言った。あたしも美幸と同じになれたら、こんなに苦しい思いをしないのに。祥吾を殺した美幸を既に許している自分に罪悪感を感じなくてもいいのに。
 悪いのは、美幸じゃない。あのときの美幸にはああするしかなかったんだ。もしもあたしが祥吾に刺されていたら、種に支配された広田を逃がしてしまっていたかもしれない。広田と祥吾が互いに殺し合うか、最悪、2人が無関係の通行人を殺していたかもしれないんだ。あたしは広田を救えただけで満足しなければいけない。
 美幸が戻ってくる前にと、あたしはパジャマに着替えて、2組の布団を敷いた。布団の上に座ってぼんやりしながら種の気配を探る。それで初めて、美幸が担当していた主婦の種がまだ回収されていないことに気がついた。
「待たせたね。一二三は? 入ってこないの?」
「……うん、あとでいい。それより美幸はどうしたの? 3人目の宿主は?」