記憶�U・48
 存在していたのは、1つのコンピュータだった。無限のハードディスクと最新のCPUが搭載された、わりに高性能な部類に入るコンピュータだ。だけどハードディスクの中身はまだ空のままだ。時間のない空間の中でコンピュータは待っていた。やがてインストールが始まる、その瞬間を。
 時間は変化をつれてきた。小さな刺激というファイルがハードディスクの中に生まれ、増殖していく。増殖はすさまじいスピードで行われ、「オレ」はやがてそのコンピュータが「黒澤伊佐巳」という名前であることを知った。そう、このコンピュータが「オレ」なのだ。インストールされ、少しずつまとまりを見せてゆくファイルたちはオレの記憶。記憶は集まり自我を形成する。「オレ」は少しずつ「黒澤伊佐巳」になる。
 「オレ」の記憶の再インストール。1度フォーマットされたハードディスクの中に、ファイルは正確に「黒澤伊佐巳」の時間軸をたどってインストールされてゆく。生まれる前の記憶から、生まれたあと、言葉を覚え、自分の名前を覚え、自己が個であることを知り、自我が生まれてゆく。オレは自分の歴史をたどりながら自分というものを形成してゆく。記憶を消された15歳までのインストール。そのあと、植え付けられた偽の記憶と、その先に生き続けていった、17年間の記憶。
 32歳のオレ。再び葛城達也に記憶を消された記憶。そのあと出会ったミオとの記憶。そして、ほんの一瞬前に経験した、32歳の伊佐巳と15歳の伊佐巳との融合 ――
 その時、オレはすべてを知った。
 15歳の伊佐巳と32歳の伊佐巳。その2人の伊佐巳が本当に恐れていたのはなんだったのか。過去の記憶を取り戻して、融合を果たして、「オレ」は初めて知ったのだ。2人が恐れていたものの本当の意味は、互いの記憶を持たないそのどちらにも判らなかったのだということを。2人の記憶が融合して、初めて判った。「オレ」が、出会ってしまったのだ。
「「ミオを愛している」」
 2人の伊佐巳が言う。判っている。「オレ」が本当の黒澤伊佐巳なのだから。
「「ミオの幸せだけを願っている」」
 同じ言葉を声を合わせて言った。2人は同じことを願っている。だから2人は1人の「オレ」になることができたのだ。アフルはこの結果を予期していたのだろう。そして、2人の伊佐巳は、無意識にこの結果を恐れていたのだろう。
 「オレ」はどうするべきなのか。「オレ」はこの結果に出会ってしまった。2人の伊佐巳が心の底から恐れていた、この結果に。

 再インストールの終わったコンピュータは、既に再起動を始めていた。