記憶・87
 オレはたぶん、信じていなかった。ミオがオレを好きになるはずがないと思っていた。オレは記憶喪失で、過去を一切思い出せない分子供だったし、ミオに八つ当たりしたこともある。それに、オレは昔、好きな女の子に答えてもらったことなど、おそらくなかったから。
「あ……あの……」
 予期していた展開じゃなかったから、みっともなくもオレはうろたえてしまって、満足に言葉を選ぶことができなかった。ミオだって、オレのこんな反応は予想外だろう。喜ぶというよりも驚いてしまった。ミオはいったい、オレの何を好きになろうと思ったのか。
「伊佐巳……? もしかして、気が変わっちゃったの?」
「そんなことない! オレはミオを好きなの、ぜんぜん変わってねえよ!」
 オレが慌てて言ったら、ミオはやや大げさな感じでほっとした表情を作った。
「あー、びっくりした。伊佐巳の気が変わってたらどうしようかと思ったわ。あんなにたくさん悩んで、やっと一緒に生きよう、って思ったのに。あたしの時間を返して、って叫ぶところだったわ」
 ミオは、ほんの少しだけ、今までと違った。
 ミオが素直になった。今まで素直じゃなかったということではなく、自分の気持ちの中にあるいろいろな感情を、いい感情も悪い感情も平等にオレに見せてくれるように変わったのかもしれない。
 一緒に生きるって、どういうことだろう。世界でたった1人の存在というミオの1番大切な席を、オレに与えてくれるということ?
 今までミオの父親が占めていたその位置を、オレに変えてくれる……?
「もしも、オレの記憶がすべて戻っても、ずっと傍にいてくれる、ってこと?」
 おそらく父親のことが頭をかすめたのだろう。一瞬だけミオの表情は曇ったけれど、すぐに笑顔に戻っていた。
「伊佐巳の記憶が戻って、万が一伊佐巳が変わってしまっても、あたしは変わりたくない。伊佐巳のことを好きな自分でいたい」
 ミオのその言葉で、この数時間ミオが何を悩んでいたのか、おぼろげながらつかんだような気がした。