巨人軍の巨人 馬場正平
広尾晃
イースト・プレス
プロレスラーになる前のジャイアント馬場の半生記。プロレスラーになってからは「1964年のジャイアント馬場」柳澤健を読めとEpilogueに書いてある。
合うスパイクが無いので高校一年生時は美術部で絵を描いていた。二年で野球部部長にスパイクを作ってもらい野球部のエースになったが夏は一回戦で惜敗、春の選考試合も惜敗。
中退して読売ジャイアンツの二軍の客寄せパンダになった。手が大きすぎてボールをわしづかみ、肘を痛めた。
一軍では三試合登板、負け試合の九回だけの敗戦処理が二試合。優勝決定の次の日の先発、相手はフォークボールの神様杉下の200勝がかかった試合。五回を一点に抑えたが代打を出され負け投手。
二軍試合では記録もろくに残っていないが、著者の取材は問題がありそうだ。例えば新潟県が高校野球で単独で代表校を出したのは1958年と書いてあるが、1959年から1972年までは富山県と北越大会を行っていたのだ。
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