永観堂
京都の左京区、有名な南禅寺の北側に紅葉の名所として知られる「永観堂」(えいかんどう)と呼ばれるお寺がある。

本来は、「禅林寺」と言う浄土宗のお寺であるが、通称である永観堂として知られている。

もともとは、真言密教のお寺であったそうで、弘法大師の高弟であった「真紹僧都」(しんじょうそうず)が、貞観5年(863年)に清和天皇から寺院建立の許可をもらって、「禅林寺」の名を賜ったのが始まりだそうだ。

その後、永観堂の名前の由来となった七代目住職の「永観律師」(ようかんりっし)の代になって大きく発展していくことになる。

永観律師(1033年~1111年)は、幼少より秀才の誉れが高く、三論宗の学匠として名声を得るまでになったが、地位も名声も捨てて東山禅林寺に隠遁することを選んだと言う。

そして18歳から日課として一万遍の念仏を称え、後には六万遍もの念仏を称えたと言われている。

その永観律師は、自らを「念仏宗永観」と名のるほど阿弥陀仏の救いを信じたと言い、念仏の道理の基礎の上に、当時で、南は粟田口、北は鹿ケ谷に到る東山沿いの広大な寺域を持った禅林寺の境内に、「薬王院」という施療院を建てて、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名づけて果実を施すなどの救済活動に努力したそうだ。

そういう永観律師の姿を慕う人が禅林寺を永観堂と呼ぶようになったと言う。

さて、この永観堂には境内の阿弥陀堂に「みかえり阿弥陀」と呼ばれる阿弥陀様が祀られている。

普通の仏像と違い、阿弥陀様が振り返るように少し顔を横に向けてられるお姿から、みかえり阿弥陀と呼ばれているのである。

この、みかえり阿弥陀について、永観律師にまつわる伝説が残されている。

時は、永保2年(1082年)の事だそうだ。

永観は、深く阿弥陀如来を信仰しており、その日も夜を通して、阿弥陀堂の阿弥陀様の前で一人で念仏行に励んでいた。

やがて、東の空が白み始めて永観もつい、うとうとしていたのであった。

うつらうつらとしていたが、ふと何かの気配を感じて目を開けると、自分独りのはずのお堂に誰かが立っていた。

誰だろう?

永観が目をこらして見ると、それはお堂の阿弥陀様だったのである。

永観は自分の見ている姿に呆然としていると、少し歩き出した阿弥陀様は、永観の方を振り返るとこう言われた。

「永観、遅し」(早く付いてきなさい)

おそらく、念仏行に励む永観のために阿弥陀様が姿を現して教えを説こうとされたのではないだろうか。

その時の、振り返られた阿弥陀様の姿を現したのが、みかえり阿弥陀だと言われている。

その、みかえり阿弥陀像は、先に書いたように首を左にかしげて、振り向くようなお姿である。

お口を少し開かれて微笑まれているようで、慈悲にあふれた優しい表情に感じられる。

その、他に例がないような見返られたお姿は、それは遅れる者を待ち、思いやり深く周りを見つめているように思え、また自分自身を振り返り、急がず正しく前へ進むお姿なのかも知れない。

永観堂は、鎌倉時代になると「静遍僧都」(じょうへんそうず)が住職となり、その静遍僧都は真言宗の高名な僧侶だった。

浄土宗の法然上人の「お念仏を唱えるだけで救われる」と言う教えに反発をいだき、自分の方が正しい事を証明しようと法然上人の著書を検証していったという。

しかし、いくら読んでも間違っているのは自分の方ではないかと思えるようになって、とうとう法然上人の教えに帰依して、永観堂を浄土宗に改宗して現代まで続いているそうだ。

永観堂は京都でも有名な紅葉の名所として多くの観光客が訪れるのであるが、他にも「臥龍廊」や「三鈷の松」や「悲田梅」など、見所も多いお寺でもある。